むし歯
むし歯は性病なんだってさ。妹が言ってたよ。どうしてかって言うとね、むし歯菌とやらはキスで伝染するからなんだと。これってなかなか刺激的な表現だけど、ぼくは賛成できないね。まずね、キスってのは別にいつも性的な意味を持つわけじゃない。人工呼吸もキスの一部なのだな。つぎに、そういう菌の感染経路はたいてい親子間なのだよ。これを性病だって見たら結構大変なことになると思う。むし歯のやつはだいたい、親と性的なことをしたってわけになるからだ。最後に、ぼくがむし歯になったこと。これはいけない。ぼくは性的なことなんてやらかした覚えはないんだから。キスもしていない人間はむし歯にならないと言うならね、ぼくは反例として示されるわけだ。
けど、キスを性的だなんて言い切れるところが妹のすごいところだね。ウブなやつにはキスがまったくもって性的に思える時があるんだな。一つに、物語のせいだとぼくは感じてる。たとえば、映画だとかになると、ラブシーンとかになるとさ、決ってアイシアウ男女はキスするものだからね。こういうのを見てればどうしてもキスは性的にしかなりえないな。ああいうときのキスってイヤラシイよ、ほんと。そういうやり方じゃないと物語は盛り上がらないし、観衆にも伝わらないってのは分かるけど、もう少しなにか奥ゆかしさの感じる演出はないのかね。ぼくにはどうにも、どぎつい。目を閉じちゃうくらいにどぎついね。母さんなんて、実際、テレビのドラマだとかでそういうシーンになると、みちゃだめよって幼いぼくら兄妹に言っていたもんだ。でも、母さんはどうやらそういうのが好きらしくてね、みちゃだめよって言いながらも自分はしっかりうっとり見てんだな。ロマンテックなのが好きなのさ、母さんは。しかし、母さんのいい付けをお行儀よく守ってたぼくらは世間一般よりもどうやら倫理観というかそういう感じのが高くなっちゃってね、エロティックなお話になると耳まで紅くなっちゃうようなやつらなんだな。とくに、さっき言ったように妹なんて相当なウブで潔癖なやつなんだ。小学生のころ、二年生だったかな、遠足とかになるとさ男女で組になって手をつなぐとかあるだろう、そのときに断固として拒否しちゃうくらいのやつなんだ。それで、しまいには相手の男の子を泣かせちゃう始末。妹は妹で、それを軽蔑の眼差しで見ていたって言うんだな、先生が。先生が親にそう言うんだぜ。実際には、ほんと、クソを見るような感じだったんだろう。はっきり言って異常だよ。最近なんてぼくをまるで性欲の塊ように見てくるんだな。そんなだから、ぼくがむし歯になったとか言うと、それは性病だ、なんて言ってくる。ほんと閉口しちゃうよ。
ぼくの方は、妹のようにウブと潔癖の塊ではないけど、その、異性経験に豊富な男でもないんだ。今でも、イヤラシイお話を聞くと決ってぼくの耳はすこし茹っちゃうし、カップルが路上でキスでもしてたら目を背けたくなっちゃうんだよ。でも、それには脊髄反射的なところがあってね、脳みそには桃色のところだってあるのさ。つまりだな、世に言うムッツリというやつだ。どうしてそんなことになっちゃったのかって言うと、思春期の男の子たちの間では性的なことが政治的に用いられるゆえ、なんだな。男の子たちが手っ取り早く仲良くなろうとすると、どんな女の子が好きだとかそういう話がまず頭に来て、最後には女経験はだとかそういう妙に生々しいお話に行き着くものなんだ。おかしなものだよ、まったく。ぼくは男だから必然的にそういった世界に馴染まなくちゃならなかったし、そういうミダリなお話を嫌うようなやつは村八分というか妙なやつって思われるところもあったからね、仕方なく慣習に従っていたのさ。おかげで耳だけは肥えた。しかしね、なんらかの行動を起こすようなことはなかったよ。女の子となにかヤラカシタというお話は武勇伝じみていて、男の内ではなんだかもてはやされるものなんだけど、ぼくにはどうにも駄目なんだ。そういうお話を聞くと、どうも女の子を道具にしか思ってないじゃないかって思うのさ。子どもが新しい玩具を自慢するような感じで、そういう異性経験を話すものだから。そこには愛があるって言ってもいいけど、いや、たしかに玩具は愛せるぜ、けど、玩具だよ。人間じゃないんだ。しかも年頃の女の子だってそういうところがあるからね、お互い玩具を愛してるってなことになるともう見てられない。ぼくはそういう愛ならいらないし、そういう愛なんて人には向けたくないものだから、年頃の時、恋なんてしようとは思わなかったんだ。おかげ、花のない散々な中高生の日々を送った。その反動で最近はユルイ感じになってね、女の子見るとドキドキしちゃうようなムッツリくんになったわけだ。
ぼくみたいのでもこうなっちゃうのだから何事もバランスよく行かないと、とんでもないヘンタイさんになるのかもしれない。ある日突然に禁欲主義者が快楽追及者になる、なんてことはよく聞くことだからさ。ヘッセのシッダルタなんてその典型だね。そうなるとウチの妹なんてもうとんでもないことになるのではないだろうか。世紀の性的倒錯者になってもおかしくはない。いや、もうその気は感じられているかな。なんだか最近、あいつは人の恥ずかしいところを見たがるんだ。これはもう随分とヘンタイさんに近いのでは。たとえばだね、ぼくが自分の部屋でなにかこそこそと夜に独りでヨロシクやってたりとする。するとあいつは出し抜けにぼくの部屋にくるのだな。ノックもなしで。ぼくの耳は幸いなことに敏くて、妹の部屋が隣というのもあり、あいつが自室から出てくるときは分かるから、サイアクな事態が起こることはなかったけど、相当ニアミスな瞬間は多々あった。例を挙げれば、一度トイレに行ったと見せかけてこっちに来たとき、とか。で、そういうときはぼくが慌ててるのをとっくりと観察して、なにやってんのとかイヤミな感じで言ってくるんだな、あいつは。ぼくは、いやなにも、だとか小さく呟いたりしてから、どうしたんだってイライラな感じであいつに聞くと、あいつは、戸口に立ったまま、消しゴム貸して、だとかそんなまことにくだらんことを答えてくる。ぼくは幾度あいつに消しゴムを貸したことだろうか。買えよな、まったく。ぼくはなんどもそう言うのだが、妹さんは、う~んとか言うだけ。こりゃおかしい。明らかにぼくの痴態を見にきてるとぼくは結論するのだな。こうなれば、見せ付けてやればいいのかもしれないけど、ぼくは臆病者なのでね、決して決してそんなことは致さない。あいつもそれを承知でやってると思うんだな。ぼくは必ず隠す、それで慌てる、恥ずかしくなる。その一連の動作を見たいのだろうよ、ちくしょうめ。まことにサデスティックな性分だ。最近になると、さらに激化して、ぼくのあらさがしをするのだな。もうなんども言ったように、ぼくがうっかり、むし歯かもって言うと、それは性病だ、なんて言ってきて、それから嬉々とした感じで、見して、と続ける。むし歯は恥部なわけ。だって人にむし歯を見せるのってなんだか恥ずかしくないかい?でも、ぼくはなぜだか妹には逆らえないようになっておるので、がばっとやけになって大口を開ける。妹はわざわざ懐中電灯でぼくの口内を照らし、明け透けにするのだな。それで、妹の嬉々とした顔が強張る。ぼくはおやっと思う。妹は、イヤなくらい真面目な声色で、歯医者行った方がいいよ、と忠告して、懐中電灯を携えて自室に戻る。ぼくはぼけっと口を開けたまま、事の重大さを知った。ああ、これは仕方ない。生まれて初めてのことをしなくちゃならんのだな。ぼくは、歯医者に行ったことがないんだ。妹のああいう反応を見たら、誰でも堪らなくなって、歯医者に行こうと決心するはずだよ。
で、ぼくは歯医者に行くことにしたわけ。歯科医院には我が家の掛かりつけがあるらしくてね、そこは良いところらしいんだな。ぼくはそういう近しい人からの評価をまるっと飲み込んじまう性質だし、なにより初心者だからさ経験豊かな人々の意見にしたがうってのが筋ってものだろう?だから、ぼくはそこに行くことにして、電話して、予約して、待った。
予約の日は雨が降っていた。ぼくは気分が冴えない感じで家を出た。ほんとヤルセナイ感じで蒸したような電車に乗って、おかげでちょっと酔って、もっと厭になって、予約を反故しちまおうかってなことまで思ってからようやく歯科医院に着くんだな。そこは駅に近いビルの四階にあるんだよ。ぼくは階段で四階まで上がり、ガラス戸を開け、診療所に入る。待ち合い室はこざっぱりとしていてね、子どもづれが二組いた。ここは治療があんまし痛くないってのと、丁寧にやるというのがウリらしい。お子様も泣かずに済むほどなんだ。大の大人(多くはぼくみたいに歯医者とは縁の遠かった人種)もどこからかそういう情報を仕入れてきて、わらわらと予約してるんだな。おかげでぼくは、憎きむし歯くんを発見してから二週間ほど放置しなくちゃならなかった。その間はなかなかスリルのある日々だったぜ、まったく。
受付で、ぼくはもごもごと、十六時に予約した者なんですがとか言って、はい、そうですか、保険証を提出してくださあいとか言われて、はいって素直に出して、じゃあ、これを記入してくださいってバインダーとペンを渡された。バインダーには自己申告書的なものが挟まっていて、そこにはさ、今日はどうして来ましたか、年齢は、職業は、性別は、歯を磨いてますか、とかそんな感じの質問欄があって、ぼくは職業のところで戸惑った。なんていったって、無職だったんだ。というのも、この春高校は卒業したけど大学には入学できませんでしたのでね、浪人というわけのわからん社会的身分にいたわけ。浪人生だと言って結局は無職だよな、とは分かるのだけど、正直に無職とか書くのはひどく気の引けることだった。全国の浪人生諸君はいかにしてかような機会を切り抜けているのだろうか。ぼくはそう考えながら、結局、職業欄は空白のままにした。
そうしてなんとか書き終えて、受付の方に渡し、空いてるソファに腰掛けちゃうと、熱烈な視線を感じちゃうわけ。どうしたことかと言うとね、正面の男の子がぼくを見つめてるのさ。物珍しいってな感じでね。ホッキョクグマの檻に来たのにパンダが入ってた、みたいな視線。つまり、ぼくみたいな若者(というか彼にとってはおじさん?)が歯医者に掛かるという事実を彼はいま学んだのだろうな。彼もなかなかウブなやつだ。彼のむし歯の原因は隣にあるってことを彼は知らないだろうな。知ってたか、お母さんが君にむし歯を移したんだぜ、君のこれからの苦難はすべて愛しい母のおかげにあるのだよ、とか言いたくなったよ。しかしね、ぼくは我慢した。彼の親御さんに迷惑を掛けたくないからさ。代わりにぼくはじっと彼とにらめっこをすることにした。彼の瞳はキレイだったな。ぼくは少し恥ずかしくなった。照れ隠しに色々とおかしな顔をして、どちらかが笑っちゃうかもってなくらいになって、その子は看護士さんに呼び出されて、とてとてと奥に消えていった。バイバイもなしかい。まあ、いいけどさ。
そのあと、憎きぼくの名前が呼ばれるまで、どうしてむし歯になっちまったのかを考えていた。結局、なにも浮かばなかったけどね。それでさ、もう一組の方も呼ばれて、あとはぼくってな感じになって、なんだかお腹が痛くなるっていうか、胃がキリキリするっていうか、そういうそわそわする感じに陥った。つまり緊張しちゃったんだな、ぼくは。なんてことだよ、もう十八歳だって言うのに、歯医者ごときでビビっちまうなんてさ。その点、あの子たちのほうがよっぽど十八歳に相応しいじゃないかな。静々と待合室で待機して、飄々と治療室に向ったんだもの。ほんと、厭になっちゃうぜ。
ぼくの震え具合が二人の奥様方にも目に留まるくらいになったころ、看護士さんに呼ばれた。ぼくはなんとか立ち上がって、死地に赴くような面持ちで治療室に向った。あんだけ真面目な顔をしたのは初めてだったね。表情筋が攣るぐらい、目一杯に力を込めてたんだ。そうしないと不安そうってなことがバレちまいそうだったからさ。看護士さんの後ろを影のようについていってたら、その道中、あの子とすれ違った。あの子はぼくをチラッと見てね、バイバイってしてきた。ぼくはそれで少し気が和らいだ。ぼくもバイバイを返して、治療室に入った。
治療は簡単だった。どうやら、小さなむし歯だったらしいからね。妹のあの反応は大げさだったわけだ。ぼくがやけに不安になってるのを陰でくすくす笑ってたに違いないんだよ、あいつはさ。
まずレントゲンを撮らされた。なにごとも初めはレントゲンなんだな。ぼくは映し出された己の歯を興味深く眺めていると、壮年の医者が来て、今日はどうしましたかなんて聞いてくる。ぼくは素直にむし歯が少し痛いんですよって答える。医者さまは、あらそうですかとか言いつつぼくが座ってるバカみたいに多機能なイスの背を横にしていった。ぼくは、頭が下がるのに比例して不安が上昇した。口を開けてくださいってなことを医者くんに言われて、恥じらいも忘れて、がばっとくわっとぼくは口を開けた。右下の奥歯かな、小さいですね、C2くらいかなぁ、けど他はまったくキレイですねぇとか誰に言ってんのか分からない感じで医者さんは呟いてて、ぼくは口をバカみたいに開けてるからうぅってなように唸って返事をする感じだし、じゃあ削っちゃいますねってかなり気軽な感じにお医者さんは言いやがるし、ぼくは唾を飲むように喉を鳴らして返事をする感じだし、そんな大きく口を開けなくていいですよって医者のやつは言いやがって、噛み付いてやろうかって思ったけど、やっぱり止して、素直にぼくはちょっとだけ口を狭めて、それから歯を削られる音を内耳で感じた。あの音は忘れられないけど、言葉では表現できないね。擬音で表現しようとすると、もうすこし新たな子音と母音が必要だな。鈍い感じと甲高い感じが交互にぼくの下顎骨に響く感覚は夢にでも出てきそうだよ。けど、痛くはなかった。数回ほど傷口をたわしで擦ったような感じがしたけど、涙が出るような痛みはなかったよ。ほんと、その点はホッとした。
最後に、お医者くんは削ったところを特殊なプラスチックで埋めて、イスを元に戻してどっかに去っていき、口をゆすいでくださいとふいに出てきた助手の女の子はぼくにそう強制し、ぼくはしぶしぶと口をゆすいで、吐き出して、多機能イスから立ち上がった。それで、待合室に戻ると子どもたちが増殖していて、座る場所もなかった。でも、ぼくはひどく気分が良かったので、喜んで突っ立てた。会計は三千円くらいで済んだ。お大事にってな声を掛けられつつぼくは外に出た。
雨は衰弱状態であったけれど、雲は厚く、晴れそうにはなかった。なんだかな、とか思いつつ帰ろうした。で、奇妙なことに、ぼくは駅を一つ分歩こうと思った。そうすると電車賃が少し浮くし、健康に良さそうだと思いついた瞬間に肯定して、歩くことにした。そこが全く未知の土地であったのもそう思わせた原因かもしれないな。ぼくはどうも知らないところに行くと歩きたくなるんだ。自転車で、車でとかじゃなくて、自分の足で、ゆっくりと。
それでぼくは、地図を見ずに歩くことにした。散歩においてはすこし迷うのも一興となるのだな。なんとなく、こっちかなあっちかなって歩くのが楽しいんだ。それに、地図がなくともだいだいのメボシはつけれるからね。線路沿いから離れないようにすれば、迷える子羊ちゃんにならなくとも済む。そういうことだから、ぼくは歯医者のビルの前をのっぺりとのびている、線路に沿っているだろう道を歩き出した。
その道は坂になっていて、奥は線路を越える陸橋に接続しているようだった。一つ横断歩道を越えて、眼鏡屋の前を通り、コンビニの前に差し掛かったところ、のろのろ歩くぼくの横を宇宙が通り過ぎ去っていった。黒地の傘で、その表面全体にはさまざまな色のしずくが点在していて、それは、もう、星が散りばめられている宇宙だった。こうも妙な詩的表現を使わないとならないほどに、その傘はキレイで大きかったんだよ。必要以上に大きく見えてたな。なにせ、ぼくの胸辺りの背丈である子が、端が自分のお尻にかかるくらいの傘をさしているものなんだから。おかげで、ぼくの目はどうしてもそこから離れなかったね。
ぼくはじっくりと、その傘とその子の歩き方を観察した。はねるような足どりで、傘をくるくる回して、まさにゴキゲンってな感じの歩行方法だった。なにがそこまで彼女をご機嫌にさせてるのだろうかと思うほどには、写真だけの結婚式場とかいう妙なビルを通り過ぎていて、丁度、坂の真ん中辺りに着いたところだった。そこがなにかの合図だったのかな。その子は振り返って、後ろ向きに歩き始めた。ボーイッシュな服装をした女の子だったよ。短髪の彼女は、ほぼ真後ろにいたようなぼくと目が合うのだな。それで、じっと見つめてきやがるんだ。ぼくがなにをしたのだ?そう不安になるくらいに、いやに見つめてくるのだよ。興味深いってな感じじゃなくて、言いたいことがあるようなそんな視線。人中に鼻毛が付いてるよって今にも言いそうな感じ。ぼくは鼻下を擦りつつ、見返してやる。こちとら、つい先ほどにもにらめっこをしてきた身だ。なにもこわいものはない。ぼくらはにらめっこをしながら、坂をのぼる。彼女は、フランス料理店が一階に入っているビルの前で立ち止り、さらに目力を込めた感じで、ぼくをにらみつける。ぼくはそのまま彼女をやり過ごそうと思ったのだけれども、彼女が手にする宇宙の引力に負けて、少女の前に立った。女の子はぼくを見上げて、もどかしそうな感じで、睨む。ぼくは少女の端正な顔を見下ろして、すこしイカツイ感じを醸し出すように、睨む。お嬢ちゃん、わけのわからぬおじさんを睨んではならないよ、おじさんがもし悪い人なら、どこかに連れて行かれて、どうしようもないことをされて、どうしようもなくなっちゃうんだからさ。そういう主張をぼくは視線に込めた。彼女には伝わらなかったらしい。短髪の似合う黒目勝ちの少女は空いてる手で、同じくぼくの空いてる手を握り、引っ張って、どこかに連れて行こうとする意思を見せた。ウサギの穴に落とす気か?そういった疑問の目で彼女を見るのだが、彼女は一向に構わないで、ぼくの手をぎゅっぎゅっと引っ張り続ける。そうして宇宙の鮮やかさにぼくはやっぱり参っちゃって、時計を持ったウサギに出会うのも悪くないというような視線を彼女に投げかけるのだな。面倒なことになったものだよ、まったく。
彼女は、ぼくらの横にあった赤いレンガのビルに無言で誘った。開放されてる非常階段の踊り場まで行き、少女はぼくの手を握ったまま器用に傘を閉じて、ぼくにもそのようなことをするように目で訴えて、ぼくは苦労しながらなんとか片手で傘を閉めた。そうして、階段を上って二階くらいまで行き、少女はその階段の中ほどで座れというようなジャスチャをしてくる。ぼくは従順な犬になってお座りする。女の子には従順になっておいたほうが得なのだよ。知ってると思うけどね。それで彼女もぼくの隣に腰掛ける。手は繋いだまま。放したら、ぼくが逃げると思ってるに違いない。なぜって、ぎゅっとぼくの手を握りつづけてるんだもの。そうしてぼくらは、並んで、黙って、死に行くような雨音を聞いていた。彼女はいったいなにがしたいんだ?年上としての余裕とやらを見せ付けてやろう。
「どうしたんだい?」なるたけ優しく言ってやった。むかし、独りで泣いていた妹に話し掛けたように。彼女はぼくを見た。ぼくも彼女を見ていた。彼女は口を開く。
「アンタ、むし歯でしょ」少女にしては少し低い声色だった。ぼくは、眉をひそめなくちゃならなかった。見知らぬ少女にアンタ、むし歯でしょ、だなんて言われてご覧なさい。自然と眉間に皺が寄るはずだよ。そして、疑問を呈したくなるはずだ。
「なんで、わかんのさ」
「だって、歯医者さんから出てきたじゃない」
「見てたの?」
「見てたよ」
「どうして?」そう聞くと、彼女は語り出した。今度、むし歯だから歯医者さんに行かないとならない。そうじゃないと、お母さんがとってもウルサイ。縛ってでも連れて行くと言いはじめた。それは、困る。お父さんの行きつけのところにしぶしぶ行くことになった。そのまえにバイアスのかかっていない評価を聞こうと思って(子に歯医者へと行ってもらいたいと切望している両親からの評価は信用ならないということを彼女は悟っていた)、今日の放課後、歯医者さんのビルに出向いた。子どもづれが多かった。だから、評判を聞くにも聞けなかった。お母さんバリアが張ってあったから。でも一人だけ妙な大人が入っていった。そいつに治療感想を聞こうと思った。そして、そいつはぼくだった。
「痛かったでしょ?」そう決め付けて彼女は聞いてくる。
「ちょっとは、ね」ぼくは傷口をたわしで擦られたような感覚を思い出して、そう答える。
「やっぱし。行きたくないなあ」と熟れたように少女は嘆息する。ぼくは困ったことになっちゃったなと思う。彼女が歯医者に行くような決心を抱かせるべきなのは分かるんだけど、どうしたらよいのか、うまい手段が一向に思い浮かばないんだ。だから、ぼくは、しぶしぶ一般的なお話から始めた。
「君の歯は、ぜんぶ生え変わった?」
「どうして?」彼女は訝しそうに前髪を揺らして聞いてくる。
「乳歯なら、別に行かなくてもいいかもしれないけど、永久歯なら絶対ちゃんと治療しておいた方がいいからさ」
「ふ~ん。お母さんとおなじこと言ってる。永久歯は永久に使うんだから大切にしなさいよって。わかってるよ。でも、痛いのは、いや」
「痛いのは、いや、か」
「うん。アンタだっていやでしょ?」
「ああ、ほんと、痛いのはダメだね」
「やっぱり」嘆息。彼女は少し染みの付いた灰色の地面を見つめる。住民が下りてきたらどうしようかとぼくは考える。どうするって、立ってどくだけさ。そう簡単なことなんだ。少女が痛みを怖がるのなら、むし歯の痛みだって怖がるはずなのだ。
「でも、放置してると、もっと歯が痛むよ」
「うん。でも、今はそんな痛くない。歯、磨いて、口内ぴーえいちに気を配ってたら、むし歯は進行しないんだよ。むし歯菌は酸性のときにうじゃうじゃ働くからね。お父さんがそう言ってたよ。だから、しっかり食べたあとに歯を磨いていれば悪化することはないんだってさ」
「……君のお父さんは、君に歯医者行って欲しいんじゃないの?」
「さあ、わかんない。行ってほしいんじゃない?行けって言ってるし」また、嘆息。少女は細やかな水滴を見出そうとするように目を細め、外を眺める。ぼくは再度、どうしようかと悩む。だれかを説得するとき、自分が説得された方法を用いるのがもっとも良いのでは?ぼくはそう思いつく。でも、ちょっと躊躇する。それはきっと恥ずかしいことなのかもしれない。けど、やっぱり彼女のためだ。
「ねぇ、むし歯見してよ」
「どうして?」少女はほんとに不審な目でぼくを眺める。ぼくはそれをしっかり受け止めなくちゃならない。
「だって、今、どうなってるか見ておいたほうがいいだろ」
「う~ん」
「たのむよ」
「う~ん」ほんとに悩む感じで、彼女は俯いた。旋毛が見える。形の良い旋毛だった。彼女の頭の形はキレイだったから、きっと坊主になってもキレイなんだろうな。そんなことを思わすほどの時間を経たせた後、しょうがないなぁと少女は呟いた。
かくして、ぼくは少女の口内を暴くことになったのだ。
少女は目を閉じて、あ~んという感じで口を開いた。ぼくはほんと真剣な面持ちで、その口腔を覗いた。ちっちゃな白い歯が全てキレイに整列していて、ぼくはめまいがした。あんまりに整ってると、クラってきちゃうだろ。そういうことが、彼女の歯並びを見て起こったのだな。これはいけない。この歯並びが、むし歯によって侵されるなんてあってはならない。ぼくはさらに決心を固めた。彼女はどうしてもなんとしても歯医者に行かせて、治療を受けさせなくちゃならない。
ぼくは敵愾心を持って、むし歯をさがした。右下の奥歯から二つ目の歯にあった。小さな丸い、擦っても消えそうにない、黒いシミがそこについていたんだ。それを眺めて、ぼくは衝撃を受けた。なぜって、君たちは泣きぼくろって知ってるかい。ぼくはああいうのに弱いんだ。黒いシミっての欠点にもなりうるし、ああ何てことだ、それは美点にもなってしまうんだ。背景がキレイで、白いものであったりすると、効果は十分に発揮されちまう。彼女の、その黒いシミの場合もそうであって、なんだか美しく、愛おしく思えちゃったんだ。そうして、彼女の父親の曖昧な対応にも合点がいった。彼も、ぼくと同じように、このシミを消すべきかどうか、心底迷ったんだろうな。ぼくはその心情を十分に汲み取れた。だから、ぼくは期せずして、えらく真面目な顔になっちまってたんだな。少女はいつのまにか目を開けていて、ぼくがやけに真剣な顔をしてるのを見つめていた。ぼくはその視線に気がついた。戸惑いがそこにはあった。ぼくは彼女と目を合わせた。少女は口を閉じてから、ぼくに問うてきた。
「どうだったの?」ぼくはほんとに、迷った。でも、やっぱり彼女は歯医者に行くべきなんだ。
「ひどいものだ。もう、歯医者にいかないとダメだよ。死んじゃうかもしれない。むし歯を侮っちゃあならないよ。むかしの人は、むし歯でよく死んじゃってんだ。きみもそうなっちゃうかもしれない。おねがいだから、はやくいっておくれよ」少女は、それを聞いて、目を見開いて、それからゆっくりと閉じて、俯いた。そうして、ちっちゃく、
「うそばっかし」と呟いた。
「うそじゃない。ほんとだよ」
「うそばっかし。お母さんもそう言ってた。でも、昨日、自分で見たら、まだまだ小さいじゃん。大人はほんと、うそばっかし。アンタも大人だからうそを吐くんだ。子どもだからわからないとおもってるんでしょ。ほんと、バカ。バカだよ。大人なんて。みんなわかってるよ、大人は嘘つきだって。……もう、いい」彼女は立ち上がり、ぼくの手を放そうとした。でも、今度はぼくがぎゅっとその小さな手を握った。少女は睨みつけてくる、明確な敵意を持って。ぼくはそれをまともに受け止める。そうさ、大人はみんな、みんな嘘つきなんだ。周りを、自分を騙さなくちゃ、生きていけない妙な生物なんだ。ぼくだって、職業欄を空白にした。そうしないと、どうしようもない不安に襲われちゃうからだ。無職だなんて正直に書いたら、ぼくは恥ずかしさ、憤り、そして悲しさに襲われて、治療どころじゃなくなって、わーっとなって気が違ったように暴れだしちゃうかもしれないんだ。でも、君たちはそうじゃない。きっと、堂々と無職って書けるのだろう。ぼくは羨ましい。ぼくは恥ずかしい。ぼくは、悲しくなる。でも、大人になるというのはそういうことに違いないんだ。ぼくだって、バカみたいにのうのうと生きてきたわけじゃない。社会的立ち位置をしっかりしないと、ぼくらは生き残れないんだ。そういうことをしっかり学ばされてしまったんだ。ぼくは無職であることを恥に思う。だから、それを隠さなくちゃならない。ぼくはうそを吐く。それは社会の要請なのさ。大人が巣食う社会に馴染むには、恥を隠して、忍ばなきゃならない。だから、ぼくたちはうそを吐く。けど、それでも、ぼくは子どもに、この少女にうそを吐いても良かったのだろうか。ぼくの答えは決ってる。
「うそを吐いて、ごめん」ぼくは彼女を見上げてはっきりと言う。彼女は整った眉をひそめる。
「うそばっかし。謝ればいいの?どうせ、それもうそでしょ」そう少女は吐き捨てる。
「もう、放して。大声だすよ」ぼくは、なにも言えなかった。手を放すしかなかったんだ。ぼくは手を放した。少女は階段を下りようとした。ぼくは、どうにかしなくちゃならなかった。ぼくは俯いて、目を瞑って、宇宙と、白々とした光点の渦を見出す。
「ねぇ、その傘はお母さんのかい?」ぼくは思わず聞いていた。
「そんなの、アンタに関係ないでしょ。嘘つきくん」短髪の少女はもう踊り場に立っていた。けど、幸いなことに、彼女は立ち止ってぼくを訝しむように見上げていた。ぼくは彼女を見て、言う。
「それって、広げると、宇宙みたいなんだ。知ってた?」
「宇宙?」
「うん。いろんな色の星がたくさん、たくさん輝いてる宇宙だよ」
「星って、白色だけでしょ?嘘つきくん」
「いいや、太陽は紅いだろう。それと同じく、星は、恒星は、その一生でさまざまな色を体現するんだ」
「どういうこと?」少女は階段を上がってきて、ぼくの前に立ち、ぼくを見下ろして聞いてきた。
ぼくは少女を見上げて、恒星の一生について、短く、簡単に話した。
「宇宙空間は、ひどく冷たいからね。星はずっとずっと輝き続けなくちゃならないんだ」
「それって、なんか疲れそう」ぼくの一連の講座を終えたあと、彼女はぼくの隣に座って言う。
「でも、そうしないと、生きていけないからね。どうしようもないんだ。……、歯もそうだよ」
「どうして?」
「歯も輝き続けなくちゃならないんだな。もう決ってるんだ、そういうことは。とくに、君のキレイな歯はね、ずっといつまでも一点の曇りもなく輝いてなきゃならないんだよ。冷たくて凍えてる周りの人に勇気を与えるためにもさ」少女は器用に奇妙な感じの表情をつくる。ぼくはそれを見てすこし笑っちゃう。
「なに、けっきょく、そんなことを言いたかったの?嘘つきくん」
「いや、ぼくがほんとに言いたかったことはね、君のその傘はとってもステキだってこと」
「……こんなのどこにでも売ってるよ」
「そうかもしれない。でも、ぼくの前に現れたのは、それが初めてなのさ。それに、君にその傘は大きすぎるだろ。それがね、もっとその傘を効果的に演出してきたわけだ」
「ふ~ん。……ヘンなの。おかしな人だよ、嘘つきくんは」嘆息。少女は、外を眺める。思考するように、じっと一点を見つめて。ぼくはその横顔に一つのことを発見する。泣きぼくろ。彼女はむし歯などなくとも、十分にキレイなんだな。まったく、ぼくはとんだアホ野郎だよ。ぼくがそういう風に自嘲していたら、女の子は口を開いた。
「歯医者、行こうかなぁ」ぼくは思わず吹き出しちまった。その声があんまりに諦観じみていたからさ。
「なんで笑うの?嘘つきくん。アンタ、相当なヘンジンさんだな」少女は呆れたようにぼくを眺めて言う。
「まあね。でも、歯医者はそんな痛くないはずだよ。ぼくが見た限り、君のはぼくのと似ていたからね。ぼくが治療中に痛いと思ったのは数回程度だったよ」
「その数回が、いや」
「でも、ぱっと終わるさ。いやなことってのはたいてい呆気なく終わるものなんだからね。こいつはうそじゃない」
「嘘つきくんに、うそじゃないって言われてもなぁ」嘆息。少女は、片手で傘をもてあそんでいる。ぼくも同様に、傘を片手でもてあそんでいた。死んだような雨音がぼくらの間を通り抜ける。女の子は、思いついたように言う。
「ねぇ、治療したところ、見せてよ」
「なんでさ?」
「サンコーにしたいから。それに嘘つきくんの治療したところが自分のとおなじ感じなら、嘘つきくんを信用してもいい気がする」
「じゃあ、お安い御用だね」ぼくは、がばっと口を開けた。少女は、ぼくの口内を見る。ぼくは目を瞑る。どうしてって、なんだか気恥ずかしかったから。すこし間があってから、
「う~ん。ほんとちいさいなあ。まだ、こんなんだったらまだ歯医者行かなくていいでしょ、アンタ」彼女はそう言って、ぼくの頤をぺちぺちと叩く。ぼくは口を閉じて、目を開く。少女は、またじっと外の一点を見つめていた。
「君のと、同じくらいだっただろ」
「うん、まあ、そんな感じだったかな。でも、なんで歯医者に行ったの、アンタは」
「妹に、騙されたんだよ」うん?という感じで女の子は短髪を揺らして反応し、ぼくはそれに呼応して、ことの経緯を話した。少女はすこし笑った。ぼくもちょっと笑った。妹の性癖も役に立つものなんだな。まったく、バカに出来ないぜ。
「むし歯ってキスでうつるんだ」ぼくの話を聞いた少女はそう呟く。
「心当たりでもあるの?」
「それは、ないしょ」嘆息。それから、少女は立ち上がる。ぼくも立ち上がらなくちゃならなかった。人が下りてくる音がしたから。それを合図として、ぼくらは足並みを揃えて階段を下り、傘をさし、通りに出て、立ち止った。すこし遅れて、非常階段からくたびれたおじさんが出てくるのをぼくらは黙って、ともに眺めていた。彼は坂を下りて、駅の方へ向っていった。
「ねえ、ほんとに、すぐに終わった?」その背中を眺めつつ彼女は不安そうに呟く。
「うん。泣く時間もないくらい、すぐに終わったよ」
「うそついてたら、許さないからね」断固とした様子で、少女は言う。
「許さないって言われてもね、もう会わないだろうから、怖くない」
「歯医者、行かないの?」
「行かないよ。もう今日で治療は終わったからさ」
「へぇ、ほんと、はやいんだ」
「うん、はやいんだよ」
「もう、会えないの?」
「うん、会えそうにないな」少女はぼくの方を向いた、ぼくも少女の方を向く。なにか、あのもどかしそうな感じの、睨み。ぼくは思わず口を開く。
「君ね、そう人を、とくに怪しそうな男の人を睨まないほうがいいよ。アブナイ人だったら、大変なことになっちゃうからさ。ほんと、ダメだよ。たのむからさ」
「アンタ、アブナイ人なの?」
「いや、まだ、アブナイ人じゃないな」
「じゃあ、大丈夫」
「まあ、そうだけど…」まさしく、ああ言えばこう言うってなやつだ。まったく、もうどうしようもないね。ぼくの呆れた顔に気がついたのか、ヘンな顔、と目の前にいる少女は笑う。
「とにかくだね、気をつけなよ。世の中にはワルイ人もいるんだからさ」
「どうして、そう心配するの?」
「どうしてって、だって、君はか弱い少女じゃないか。当然だろ」
「少女?少年じゃなくて?」
「え?」少女は悪戯っぽく笑って、背伸びして、キスをして、ぼくを唖然とさせて、言う。
「これで、むし歯になったね」ぼくはぽかんと口を開けちまう。少女ははにかむ感じでぼくを睨んでくる。それから居ても立っても居られなかったのだろうな、バイバイ、またねと少女は言って、坂を駆け上がっていった。ぼくは、その小さくなっていく宇宙をただただ呆然と見送るだけ。おいおい、彼女が少年だと?おかしな話だぜ、まったく。ぼくは、ようやくそう思って、唇に手を当てて、湿った感じを理解して、ああほんと、どうしようもないなと思い、坂を下って、電車に乗って、家に帰った。
あの珍妙な理由によって執り行われたキスの影響は、まだぼくには出ていない。いったい、あの種のキスはなんと言えばいいんだ?自爆キスとでも言うのか?とにかく、ぼくにとっては、無差別テロじみてたよ。人生初のキスがね、そんなのだなんて悲しくなる。まったく、少女(もしくは少年)はほんと自分勝手な理由でぼくにキスをしてきたものだ。また会いたいからキスをする、だなんて可愛いものじゃないか。そうまさしく、私的なキス。ぼくはこうして、新たなキスのカテゴリーを知ったのさ。