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これは物語ではない  作者: 山川 夜高
act.5 141016の夜から朝へ
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眠りに着くまで 14

 夜の、窓ガラスに映り、水を撥ねて景色が通り過ぎ、休日の夜にしては下り線の車両は静まっていた。人々はまばらに座して黙り、違う方向を向いている。隣り合って二人組で乗車していたのは僕達だけだった。

 23区と報された震源地の地図を見ると彼女の住まいの殆ど真上だった。それについて、高層ビルの上階と自宅にいるのとのどちらが危ういか、判断は下せなかった。

 土曜の夜の中央線沿いの繁華街は酒の臭気に満ちていて、雨が人の笑い声や体温を吸い、アルコールと混ざってじっとりと停滞している。アーケードを経由して降雨を避けたが、アーケードの屋根の下に満ちた湿気は避けられない。


「何か買っていかない?」と塔子さんが言った。スラックスの裾が濡れて脚に貼り付いた。「明日の朝ご飯とか」

 閉店間際で閑散としたスーパーマーケットに立ち寄った。パン屋でホテルパンを買って(彼女はパンにうるさい。一般に流通している6枚切り食パンを避けている)ボトル茶と卵と牛乳を足した。小さな折り畳み傘ひとつではどう差したところで二人分の雨を凌ぎきることができない。

 繁華街を抜けて住宅地に入ると、途端に夜間の静けさが勝る。酔いの臭いが身を退いた静けさの隙間に、テレビの声と光、風呂場の音と光と石鹸の匂い、体温、寝室の光と消灯が家々から漏れ出して、他人の密な生活が囁きとなって感ぜられる。このうちどこかの家では揉め事の真只中かも知れないが、通りに流れてくる生活の音漏れは、隣の芝が青いように、どこか本当の生活よりも幸福で温かそうに聞こえた。いずれも僕には遠いようだった。


 彼女の親族が与えたマンションは、単身者向けの良い一室だった。オートロックつきの三階。寝室が居間を兼ねているありふれたワンルームには、文机と棚と椅子とベッドがあるだけですっきりと片付いていた。文机の上の小さな観葉植物の鉢が緑を添えていた。白壁に対してダークブラウンで揃えた家具はそつがないビジネスホテルまたは家具屋のモデルルームを思わせた。照明は和紙を張ったシェード。


「着替えたら? 干しておくから」


 折り畳みのローテーブルを部屋の中央に置いて対面し、ボトル茶で口を潤した。


「やっぱり、レストラン落ち着かなかったな。格調を気にしすぎちゃう」


 雨の音は先程より近く感じられ、通り過ぎる車が水面をかき分けた。飛沫を浴びてタオルを欲した僕に、彼女はシャワーを貸そうとした。そこまで世話になるつもりはなかった。なら、と彼女が先に浴室に入っていった。


 閉ざされた薄緑色の部屋のカーテンをくぐってベランダの前に立った。雨が窓ガラスに打ち付けた。冷えたガラスに額を当てた。身体はどこも火照っていない。

 目を開けたまま久々に夢想する。夢想には際限がないから普段は考えないようにしている。箱庭のミニチュアを指でつまんで再配置するように、夢想のなかで向かいの家々を取り払い、電線を辿って電柱を、鉄塔ごと吹き飛ばし、人々はそこに住まう家ともどもに満ち潮に流される。基礎は消え失せ、楔が解かれ、土地の権利が帳消しになる。文明を洗い流したあとは文明の痕跡も押し流す。そうすれば、そこには誰もいない。あらゆる住人、訪問者、魚、鳥、何も訪れない。そよ風を除いて水面を波立たせるものはない。空を除いてそこに映る色と形はない。それを見る僕がいない。絶対的な凪は僕の腹の中に広がる。腹をさすると貯水が波を立てた。それはコースメニューやワインや茶とは全く別の感覚である。


 いつまでも自分はここにいるということを知覚する度によそよそしい。何をしている時もふと、慣れなさを思い出して考え込んだ。考え込む自分に対しての疑念でますます考え込んだ。内省をはじめてしまうと時間はひとりでに流れてくれない。内省によって自覚的になる時の流れは今も受け付け難い。


 かつて募った気持ちも今や決定的に遠くにあるようで、希求していた頃の心理や動機を思い出すことは出来ても、ふたたびあれほど強く望み続けることはできない。欲していたものは無い物ねだりだった。今になってようやく無い物ねだりだったと分かった。だから今更子供の頃のように希求を繰り返すことはできない。


 諦めたのがいつだったか正しく思い出すこともできないぐらい、諦めはそれ自体が小さな意思決定だったとしても、ほかにありえた可能性であるところの進路も退路も遠ざける。諦めとは実行不実行以前の決定であり、諦めたいまとなっては、諦めを捨てなかった場合の人生を夢想することさえも上手くいかない。もしも、と仮定される希望の叶う方の未来を夢想のなかで辿ろうとしても、レールは突然終わっている。はじめから、あり得ないことだったのだ。

 そして諦めたにも関わらず、諦めきれてもいなかった。僕は諦めたにも関わらずあの凪を知っている。


 ほかに出来ることがないから理由なく生きているという日々は、生物にとってよそよそしい。夢想することを諦めると一般に人間として“現実的に”生きられるようになると信じられているが、その諦めは夢想の諦めであると同時に実際的な生活をも殆ど絶やしてしまったようだった。どうやら夢想が生活を誑かしていたのではなく、夢想の方が生活の根拠となる動力源だったらしい。<i>きみはもう失われているんだよ。</i>


 


 内とも外とも言えないシャワー音のどちらかが終わり、高橋塔子が少しカーテンを捲った。生活は息を引き取りつつあり、彼ひとりになって誰も答える人のいないとき、彼はここにいないも同然で、せいぜいのところ通過する風や水色を感じるまでだった。他者が現れると、生理反応として対話が生じる。彼は自分を知覚しない。ひとりでいるとき、彼は無人だった。

 ガラス戸にぴったり額を当てて黒く濡れる街を見つめる喪服の男に、塔子は温かいシャワーを促した。彼女は親切だと彼は思った。彼は義理を感じていた。いつかは義理を返済しなければならないと考えていたが想像すると少し恐ろしくなった。


「暗いですね」


 そういって再びガラス戸を選んだ。彼女の前では生活のふりをする必要がないことに彼は少なからず感謝している、濡れて張り付いた前髪のまま。

 そういうとき彼女は見つめることにしている。黙って。何も促さずに。すると夢想に導かれて無へと放浪する彼を、彼の中にいる諦めが冷たくあざ笑って押し留める。裏切りつつある生活へ彼は心細く帰還する。彼女がただ待っていた。彼はシャワーを借りた。

 耐えるという道を彼女は選んだ。すると彼は耐え切れなくなるのだ。泣き出した子供が疲れて黙り込むまで待つ母親のように、と、彼女は思う。不平等だと彼女は思う。でも、他にやりようがあっただろうか。彼の夢は生まれつき彼女の夢に反している。


 


 シャワーが聴こえはじめて、しばらく経った。彼女は席を立った。


「汐孝?」


 ガラスの引き戸越しに呼びかける。

 湯気に曇った磨りガラスの向こうにうずくまった人影がある。


「風邪ひくよ」


 シャワーが止まった。

 水滴がほんのひとしずく落ちた。彼女は脱衣所に座り込んだ。


 湯気のなかで境目がなくなった。背中や後頭部、自分の目では見えないところから身体が気化していくのを察した。もっと違うところに行きたいと彼は思った。どこへ行こうが一緒だとも彼は思った。どこへ行っても足りないのだ。温かくて冷たい。白い煙のなかを透き通りかけた手で探って、ドアノブを回して向こうに倒れ込んだ。

 空が青い。薄い白雲が渦を描きながら地平線へと流れてゆく。平らな風景が広がり、うっすらと張った水面は青空を映したが、絶えずそよ風が水面上を流れ、さざなみを立てて反射を乱した。

 自分だけの妄執だと考えていたその風景によく似たものが南米ボリビアに実在していたことを最近になってインターネットに広がる噂話を通じて知る。山中のその真っ平らな塩湖はいまや観光客の喧騒に覆われて、寂寥感などとうに失われているのだろう。ボリビアという異国を想像できない。人、町、歴史に目を瞑り、想像できないまま水色の風景だけを求めて押し寄せる人々は、想像できる。チーズ。家族。恋人。夫婦。笑って……。


 冷え込む。一歩を進める度に靴が砂を舞い上げて水面をかき乱して濁した。存在は存在するだけで空間の均整を汚す邪悪だ。いないに越したことはないと彼は感じる。自分が歩くというだけで、かき乱される水のなかに一体どれほどの均衡が損なわれていったのか考える。分子の声なき悲鳴を引いた気がする。


 廃墟は朽ちて蟻塚のように、土くれに似た姿で時折現れた。骨折し、白い塗装の禿げたパイプが瓦礫にもたれて突き刺さっている。二つ、三つ、四つ、五つと先が分かれ、複雑な曲線を描きながら異なる方向へ白い矢印を伸ばす青色の道路標識に、行き先を示す地名の表記はない。文字が剥がれたのだろうかと手を掛けて調べたら、瓦礫の小山はバランスを失い、崩れて足元に波を乱した。悪いことをしたと思った。ここで生じた波の不和はあの水平線の果てまで均衡を乱して伝播するのだろう。

 歩いて行けそうに見える距離に、オキナエビスに似た螺旋状にうず高く立つ瓦礫を見た。目標にして歩き出したが、直後足を踏み外して水の中に落ちた。浅瀬に穴が空いていたらしい。深みに落ちて、驚き、水の中で目を見開くと水中は遮るものがなくどこまでも青く、一体水が濁っているのかそれとも澄みきっているのか全く区別がつかなかったのだが、ただ、浮上することが出来たので、水面に顔を出して元の足場を探した。オキナエビスはまだ見えた。荒い息をついてどこか掴まれるところを探すも、水の中に浮かんでいるものはなく、浅瀬の方向も分からないので、オキナエビスの方を目指して慎重に泳いだ。泳ぐ時、前方の目標物を見て泳ぐと、水面上に伸ばした首の動きに呼応して背中が反って腰が沈み、下半身から沈んでいく。浮上を保つには顔を上げず、前を見ないで泳ぐことだ。注意深く疲れないよう、休みつつじりじりと泳いでいると、指先が何か硬質なものにぶつかり、身を翻すと木材と鉄を組み合わせたプレートが桟橋に似せた姿で水中に張り出していた。波はプレートの淵にひたひたと寄せて、あたり一面水を被っていた。プレートの上に四肢を投げ出して少し休んだ。寝転がって見た天頂は深い青空で、成層圏を透かした向こう側の宇宙の闇色が滲む青だった。潮の匂いのなかに温かさを少し感じた。寄せる水際が頬を撫でて髪を浮かせた。水の寄せるのを肌に感じている。感じ続けていた。鼓動する限り、鼓動は水に伝播して、水は永久に動きを止めない。肌は永久に水を感じ続ける。すると水がそこにあるということが当たり前の感覚になり、陸上にいる生物が辺りに充満する空気を意識していないように、水が肌に溶ける、肌が水になる。腹から背中へ筒状に閉じた皮膚が結ぶのをやめて水面へほどける。やがて水に溶けた身体は水平線まで伸びて広がっていく。ゆれるのは波ではなくおのれである。それは建造物の足元まで打ち寄せている。

 螺旋を描く建造物は思いのほかすぐそばにそびえていた。よい展望台になりそうな高さだった。光景は何のメタファーでもない。メタファーは嫌いだ。水だとか貝だとか遊泳だとかは、他の何にも例えられないし例えていない、それはそれ自体でひとつとしてそこにあるのだ、それ以上いらない。だからここには何もない。晴れやかな孤独だけが、視野の及ばぬ水平線のかなたまでどこまでも伸び、しかも薄まらないまま、白く損なわれないまま続いている。

 きりだとか、けりだとかいう区切りのない時間を経て、無限に広がる水面の連続から、ふと個体の我に帰った頃、立ち上がり、立ち上がる時に膝ががくんと折れそうになったので諦めようかとも思ったが、よろめきは一時的な不慣れのための疲れで、本当はひどい疲労でもなかったので、建造物へ歩みを進めた。


 水の中に飛び石のごとく用意された小さな足場の連なりが建造物へと導いた。桟橋からここまでの道程はさながら建造物に付属する前庭を思わせた。建造物に入口はない。足場になりそうなでっぱりが螺旋を描いて上へと伸びていた。足場は一面水を被っている。濡れた赤錆色の建造物に、光る青空が反射して、角度によって透かし階段は殆ど青色と区別がつかなくなり、足を踏み外しかねなかった。登り詰めた最頂部には、実は何もなかった。平たいテラスのような空間を想像し、期待していたことに気付かされる。何かを成せば必ず結果がついてくるということに期待し、報酬が与えられて当然だと思わされていた思考のパターンに気付く。答えはない。螺旋は螺旋を描き続けたまま、てっぺんで収束し、そこでおしまいだった。


 てっぺんは人ひとりならなんとか座れそうな(ひらた)さがあったが、それは登頂者に用意された椅子というわけではなく、材料の都合や風化のためにたまたま椅子として利用できるような(たいら)かさを持ち合わせただけらしいそっけなさである。椅子として機能しそうな平面には椅子として利用しきるには心もとない凹凸と不安定があった。


 しかし、座って、登ってきた道程を見下ろしてやろうとすると、もと来た桟橋が見つからない。目を凝らして不安定な座面の上をきょろきょろすると、桟橋は、先程よりも深く水を被って水面下に沈んでいた。雲が消えた。遮るもののない青空が頭上に広がった。天頂は闇に程近く青い。そよ風が時折水面に映る像を乱した。蟻塚はもうどこにもなさそうだった。そして座っているうちに今度はおのれがこの螺旋形の新たな頂部として椅子の上に癒着していってもおかしくないと、思い始めた。ずいぶん高くまで登ったものだ。そして長い間青空を眺めていた。海を見ることも空を見ることも殆ど違わなくなるまで見た。青空のなか、あちらの方角は空色がほかと比べて薄い気がした。色の薄い領域が地平線から天へと帯を伸ばしている。漠然と眺めていると暗闇に目が慣れるように青空の微細な差異の見分けがつくようになってきた。そしてそこに青空と殆ど違わない色のわずかにくびれた青い塔が確かに立っているのを発見した。

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