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これは物語ではない  作者: 山川 夜高
act.5 141016の夜から朝へ
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眠りに着くまで 10

 嫌な音の警報が隣のテーブルから聴こえるや否や、フロアが大きく突き上げるように一度揺れた。窓を見ると、少したわんでいるように見えた。僕達は座席から立ち上がらずに辺りを注視した。シャンデリアが音を立てて揺れた。物が落ちることはなく、給仕達は平静にフロアを見回った。


「久し振りに怖かった」と塔子さんが言った。「ちょっと無重力っぽかった。飛行機の離陸みたい……。飛行機もジェットコースターも平気なんだけど、今のはびっくり」


 窓の向こうは曇っていて街の様子を伺えない。夜景を見たところで、混乱の程など、この高さからでは計り知れない。


 水は。この高さからでは計り知れない。


「怖かった」と隣の席の老婦人が語った。先程まで、誰も彼も声を荒らげることなく談笑していたから、場にそぐわない恐怖の感情は真に迫った。高層ビル。


 誰かが確かめる。


 


(この地震による津波の心配はありません)


 


「風景の美しさに罪悪感を覚えました」


 メインの仔羊のロースト、赤いソースは酸っぱかった。


「報道写真の瓦礫を見ても、晴れた日には光輝いてるし、瓦礫さえすべて沈んで見えないときもある」

「でも、干渉してないでしょう」

「僕が、現実に?」

「あなたにそう見えてるだけということなのに、あなたのことを誰が責めるの?

 あなたは違っていることをちゃんと自覚している。あなたはあなたのことを精査しているし、苦しんでる。それだけ自覚的なら十分じゃない?」

「しかし妄執だ」

「差っていうのは外国語みたいなものじゃないかな」


 そう言った彼女はいっとき立ち止まった。


「なんでそんなこと言ったんだろう?」


 


 頭で理解しているものと目に見える世界が異なる。目だけがいかれているのかというとそうでもない。嵩の高い日は膝から下をびしょ濡れにしながら透明な事象をかき分けて歩く。

 視覚、聴覚、嗅覚、触覚に訴えかけるそれは認知の中にしかどうやら存在していないらしい。

 目の前の彼女と対話をするにも、全く同じ感覚器でもって認識しているというのに、彼女はいる。彼女には見えない。僕は見る。僕はいない。


 


 高校のとき物理の実験で居残りを食らった。斜面に車を走らせて加速度を測る実験だったが、何度やっても不明の要素で車の加速に抵抗がかかった。手順に誤りがないことは明白だった。でも僕の見ている前で、車は、坂道を下ると水面に叩きつけられ、ゆっくり沈潜して水底に横転した。打点した記録テープはおよそ僕の見た出来事どおりの値を残した。何度やっても変わりなかった。


 見かねて敬司君と塔子さんが現れた。僕は手順通りに再度車を走らせた。二人が見ていたから有用な実験結果を入手できた。大学入試に実技がなくて良かったと、冗談ではなく安堵した。


 


 夏の夕方の報道の水難事故に憧憬を向けたことがある。十字路のタイヤ痕は洗い流される。幼い子が頭のてっぺんまで沈み、笑いながら泡を吹く。

 高いところは正しいのかもしれない。水害はここには来ない。

 このレストランは正しい。


 


「漠然と、大人になったら終わると思っていました」


 彼女は微笑んだ。大人びていた。


「二十歳そこそこなんてまだ過渡期だよ」

「次は三十?」

「あんまり行き先を決めない方がいいよ」

「終わる気がしない。終わる、というか」、続けようとしたが、この先は倫理に反していた。

「ねえ、今更遠慮なんてすることないよ。今日は私たちだけでしょう」


 そういう彼女の方も、そう切り出すということは、遠慮があるのではないかと思った。僕は改めてフロアを見渡した。客のなかで僕らが一番若い。目眩を感じ、酔っていると気付く。ワインは身体に合わないようだ。ザムザは飲みたがっていた。


「ふたりだけです。でも、別件で」

「なに?」

「いままでの話と全く変わります。連続していません。僕の話ではありません。その、貴女の目に見えなくて、僕の目にも見えない話です」


 姿勢を正す彼女の在り方は澄んでいくように思えた。


「幽霊のような」

「ひとの話?」

「友人の話」


 ジョークかもしれないが、というかジョークと見てほぼ間違いないようだが、ザムザが見ているらしいものを話した。


「僕が見ているそれのように、」それを海と呼ぶべきか水面と呼んだら良いのか、それとも断定してはならないのかいつも悩み、代名詞でぼかした。


「ひとが見える人がいる、そこかしこにいる、いつも僕達がしていることを脇で見ている……」なぜ僕が語ると、こうも確からしくなくなってしまうのだろう。


 塔子さんは考え込む。「いない人を見ているの?」


「彼はそうらしいです」

「彼は友達?」

「恐らく」

「お会いしてみたいわ」

「塔子さん。やっぱり皆、区別がついていないのではないでしょうか」

「そうかもね、ここにいる私も嘘かも」


 僕は気の利いたことを言えない。

 でも彼女には本当のことを見ていてほしいと思う。彼女が本当のことを知っていればこの世の中は確からしくなりそうだった。少なくとも彼女が下す正誤判断は確からしい。きっと参考になる。彼女には灯台として毅然とそこで見晴らしてほしい。


 季節の果実のババロアが運ばれた。風向きが変わり、雨が窓ガラスを叩いた。


「思いのほか本降りだね」

「傘は」

「折り畳み」

「僕は忘れました」

「だと思った」彼女は笑った。


 街明かりの赤い光が、眼下の夜に沈んでいく。僕は真実を伝えたいと思う。ただ、僕が語ることは掴みようがないから、望むのなら出会えばいい。僕の知ったところではないという気持ちもあった。


 セレスタはどうだろう。彼女が女友達といるところを知らない。例えば彼女は、僕よりも甘いものの色艶を鋭敏に味わえるだろうし、一口ひとくちを口に含むたびに噓いつわりなく賞賛を贈るだろう。


 


「きょうはうちに泊まる?」と塔子さんが言った。「この雨だし、C駅まで帰るのも大変じゃない?」

「ご家族は」

「あれ、やだ忘れてるの。私うちを出たんだよ。叔母さんの持ち家の中野のマンションを借りてるの。パパはいつまでも過保護だから子離れしなきゃって」

「高橋さんに大切にされているんですよ」

「汐孝だってそうでしょ」


 彼女が箱入り娘でもこちらは保護観察だろう。


「この席、うちのマンションの方面にわざわざ向けて取ったんだけど、こんな天気じゃぜんぜん分かんないね」


 見えなくても、雨が降っていても、彼女の部屋は常に見下ろされている。暮らす彼女は視線を浴びる。視線を集める彼女は劇の成功を喜ぶ。


 スポットライトを浴びて彼女はぴんと背筋を伸ばす。舞台上の所作はしばしば「頭の天辺から糸で吊られるように」背筋を伸ばせと例えられる。見えない糸に吊るされて、彼女は堂々と鮮やかにそこに立つ。

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