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これは物語ではない  作者: 山川 夜高
act.5 141016の夜から朝へ
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眠りに着くまで 8

 同じ景色を見ようとして、目の高さを合わせてみたり、片目を瞑ったり、立ち位置を取っ替え引っ替えして、いつも落ち着きなくきょろきょろしていた。


 見えたものは一致せず、どころか「見える」という意味は目の持ち主によって定義を変えた。互いの視力や目の高さを互いの感覚で相談しながら、ああでもないこうでもないと手探りして近づけ合うよりも、はじめから、生まれたときから誰もが同じ辞書を用いて同じ言葉を覚えていく方が、同じ景色を見るためには遥かに簡単な方法だった。問題は、参照されるのが目の前の現実ではなく互いの手中の辞書になる点だった。仮に辞書が間違っていたら、せっかくのスムーズな伝達手段はもとの暗闇の手探りのなかに帰る。二者の辞書に相違を発見したとき、どちらが間違っているか当人たちには判断できないし、第三者による仲裁もかなわない、なぜなら彼の辞書もまた二人の語彙とは異なっていた。

 とはいえある程度の共通語(モジュール)の整備はおおむね成功している。片言で、身振り手振りを交えてどうにか。“辞書と呼ばれてる仕様書を使って君だけの言葉を作ろう!” 例えば物語を記述する言葉は、その類の片言の共通語だ。


 『赤い林檎』と書いたとき、頭の中で再生される赤い林檎の姿は、読者それぞれに異なる。


 意味の伝達は物体ではなく、影絵だ。ネガだ。オブジェクトに対する光源は誰しもみんな違っている。見て伝えるものは、影のかたち。


 


「どうして空気は透明なの?」


「難しい質問だな、調べてくる」


「おとうさんも知らないことあるの?」


「あるよ。覚えてないことも、間違って覚えてることもある。だから、本当のことを言わなきゃいけないときは、事前にちゃんと調べるんだ」


「でも、なんでトイレにケータイ持ってくの?」


 


「わかった、わかったぞ」


「なんでトイレに入ってたのにわかるの?」


「まあいいだろ。いいか、もし空気に、色があったらどうなる? 霧のとき、空気が白いと、見えないだろ? 空気に色があると困るんだ。

 だから、空気が透明に見えるように生き物の目は進化したんだ。空気の方が生き物よりも先に生まれたから、生き物が空気を利用するんだ。宇宙ができてから、生き物が生まれたんだから」


「みんな、空気が見えないの?」


「空気のなかに生きてる生き物は、みんな空気を見えないことにしたんだろうな」


「魚は? 魚は水が透明なの? 水は透明だけど、見える透明だよね」


「魚の視点は想像でしか分からないが、恐らく人間が見ている以上にクリアな水中を見てるんだろうね」


「イカはすごく大きな目を持ってるんだよ。ふつうの魚よりも目が良くって、ぜんぜんちがう進化をしたのに、脊椎動物の目に似てるんだよ。

 デメニギスって知ってる? 深海魚で、目が頭のなかにあるの。頭の部分が透明になってて、体のなかにある目が頭を透かして外を見てるんだよ。

 でもそれ水のなかだよねえ。水のなかだから水が透明に見えるんだよね。水槽って地球の空気があって、アクリルガラスがあって、その向こうに水があるけど、水槽を挟むと水のなかも見えるんだね。魚はどうなのかな、水槽があるから僕のこと見えるのかな。

 デメニギスは頭が水槽の壁になってんのかなあ。

 でもトビウオって水の上に出るけど、そうすると直接空気に触るよね。そのときってどういう風に見えてるのかな。ハゼも渚に上がってくるよね。ヨツメウオって知ってる? 水中も水の上も見えるように、目が横半分で分かれてるんだよ。テッポウウオも水の上を見てるんだよ。水の上の虫を狙うとき、ちゃんと水の屈折も計算して見てるんだって」


 


「おとうさん」


「まだ病院行かなきゃだめ?」


 


「どうだったの?」


 何も変わったところはなかったと彼は言った。彼は証言をためらっているようだった。例えば、何が分からないのか分からないという状態。傷むのにどこが痛いのか分からないから、分からないうちは何の病名もあり得ない。


 眼下の街明かりは曇っている。赤黒い靄に覆われて光は不確かに濁っている。私達は赤黒い夜の上空に机と椅子を並べ、コースのディナーを頂いている。


「かしこまりすぎちゃったかもしれない。どっか、カフェとかの方が良かったかもね」

「たまには、構いません、僕は」

「そう。たまにだから。次からはもっと軽くする。ドレスコードもなし」


 と言っても彼はマクドナルドにも同じ格好で現れる人だ。


 黒いタイの上に銀色の飾りがふと輝くのが見えた。


「タイピン?」


 魚のモチーフだ。


「何の魚?」

「たぶんアジです。稜鱗(りょうりん)がある」

「なに?」

「ゼイゴの部分」


 外して見せてくれた。まん丸の目の大きさとすっきりとした紡錘形は、見覚えのある魚の形だった。ゼイゴの部分も精巧だ。


「犬は、犬種を区別するのに、魚は一括りに魚ですね。人間に対しては個人の見分けもつくのに。自分の種から遠くなるほど判別は疎かになる」

「見慣れないから、何が固有の特徴であるかも見つけられないんじゃないのかな」

「見る目の細かさというか」


 魚のタイピンはふたたび彼の黒い衣装の上に収まる。


「どうしたのそれ、買ったの?」

「貰ったんです」


 視線は私にでもなく机上の料理にでもなく、降り始めた雨で遮られた眼下の新宿副都心に落ちた。


「最近」


 次のワインが運ばれた。


「友達……友達からです」

「どういう人?」


 都市へ落とす視線がゆらいだ。ほらあの人、とその友達を窓の向こうに探しているみたいだった。


「善い人です、たぶん」

「どういうプレゼントだったの?」

「どういう、とは」

「誕生日、とか、お祝いとか、日付のイベント」

「無かったんじゃないでしょうか。“なんとなく”だったんです。……そういう人なんです」


 白身魚のポワレ。紡錘形から切り出される前、生きているときの形は復元できない。


「そう」


 生きているのと同じように。


「いい趣味なんだね」


 レモンの断面。皿の上の白と黄と緑。薄暗く密かなフロアの照明。もっと、明るい色の衣装を着てくればよかった。


 彼に会うと決めていると、いつもモノクロームか紺色の服になる。彼には引きつける力がある。本人は望んでいない。けれども眼差しや態度や不随意なところで、彼は素敵だ。自信はなくていい。自然体の彼が良い。


「もし良ければ、今度」

「紹介してくれるの?」

「彼らさえ良いと言えば……不思議な人なんです」

「気難しいのかな」

「多分。でも、多分、会ってくれる気がする」


 あなたと同じくらい気難しいのだろう。


「なら今度、よろしくね」

「伝えておきます」

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