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状況は良くありません。とっても嫌な予感しかしません。交番に駆けこむのが一番安全だと思うのですが、こんな夜遅くに一人でいることを咎められるのは面倒です。私服だったら、まだ問題は少ないでしょうが、私は今制服です。この制服自体は学校指定制服ではありません。けれど、学生である事を知られたり、学校に知られるのはやっぱり嫌です。という訳で私は夜道を、何とか巻けないものかと小走りしているのですが……。
気配からして、駅前からのトレンチコートの男性は、まだ私の後を付けています。コートの下にズボンを穿いていません。恐らくその下も。四月とはいえ夜はまだ冷えるのに、よくやるなと感心しますが、現在私は当事者であるから、悠長な事を言っていられない。おまけに、私には行かなければならない所があります。そこにこの人が付いて来ると、とても不都合。
今晩、ある人と待ち合わせをしています。ただし正式な待ち合わせではなくネット上での約束だから、行っても誰も居ないかもしれない。不安定な約束。居ない九割、もしかしたらが一割。
そして待ち合わせた相手が善人であるかも分からない。ひどい悪人かもしれない。何せ「悪霊」を名乗っているのだから。待ち合わせの場所、公園に行ったら、私は悪霊に殺されるのでしょうか。取り憑かれて頭がおかしくなるのでしょうか。死ぬのはまだ嫌だけど、何故だか、それでもいいかなと思います。殺されるなら珍しい方法で殺されたい。霊に殺されるのならちょっぴり面白い。
悪霊の存在を信じつつも、私は悪霊を信じていないのでした。どうせ全てはデマであり、公園へ行っても誰もいないであろう事を、私は知っています。だから悪霊に殺されるなんてありえない。ありえないから、悪霊に殺されたら面白いんです。99%以上の安心と1%未満の最悪が欲しい。
だから、“可能性のある”不審者は、嫌いです。
いつの間にか私は夜道を走っていました。ふと前方に、ぽつんと灯りが見えます。人気も遊具も無く、さびしい公園。あの公園です。
私は真ん中にある、たった一本だけの街灯の下に立ちました。この公園の灯りは、これと、自動販売機と、トイレしかありません。四方は木に囲まれ薄暗い雰囲気です。悪霊のうわさが立つのもおかしくないような陰気臭さ。いや、うわさではありません。私が今から彼に会えば、うわさでは無くなるから……。そんな、わずかすぎる期待。走ったせいで息は切れて、頭が少しぐらぐらします。そういえば、あの男が居ません。
「celestaちゃん?」
突然、後ろから呼ばれました。男の人の声。振り返って、愕然としました。
だって、居たのは、さっきの男だから。
「驚いた? ボクが“悪霊”だよ。本当に来てくれるとは思わなかった。celestaちゃん」
嘘だ。じゃあどうして、さっきまでストーキングしてたんですか。本物の悪霊だったら公園にしか居ないはずです。
「ボクはホンモノの“悪霊”だよぉ。驚いて声もでない?」
違う。絶対に違うのに、何でそんな嘘をつくの?
「どうしたの、せっかくcelestaちゃんが会いたいって言うから来たんだよ? それとも今更怖気づいたぁ? それは無いよねぇ?」
男は、片手でコートのボタンを外しながら、じりじりと迫ってくる。
「そうだよ。こんな夜遅くに、女の子が一人で人気の無い所へ来ちゃったんだから。この意味分かるよねえ? celestaちゃんの自業自得だよ?」
逃げたい。逃げたいのに、怖くて足が動かない。
「celestaちゃんはボクに会いに来たんでしょ? 悪霊に会いに来たんだよねえ?」
男は、目の前に立ちはだかっています。下半身は、見ない。嫌だ。気持ち悪い。
「悪霊って、つまり悪い霊だよ? 無事におうちに帰れるとおもってたのぉ?
オレは、楽しみに、してたんだからさぁ……」
嫌だ。違う。嫌だよ。だってこの人、ただの人間だよ。こんな簡単な可能性だなんて。こんな、ただの変態とだなんて、嫌だ。こんな可能性に従うのは嫌。
「celestaちゃんはわざわざ来てくれたんだ。それ相当の“覚悟”は、出来てるよねえ?」
軽率だった自分に嫌気が差します。世の中はバラ色じゃなくても、緑か紫色くらいで、可も不可も丁度いいと思っていたのに。肝心な時でさえ声の出ない自分も嫌いです。
そして、この期に及んで、私は誰かの助けを信じている。夢を見すぎている私がいます。――
* * *
昨晩からの悶々とした心地が晴れない。違和感と言うべきか、釈然としないままであった。何故あの時、なにも疑わず「透明人間」に手を貸したのだろう?
いや、確かに自分は疑っていたのだ。説明付かない怪異を理性でなんとか説明付けようとした。だがあの現場では理性は追いつかなかった。怪異はあまりに良く出来ていた。第一にろうろうと聴こえた声、恐らくスピーカーボイスではない。あの場にザムザと名乗った本人が居たことは確かだ。自動販売機の作動は、機械自体を遠隔捜査。浮遊のトリックは分からないが、浮遊手品なら世に幾らでもある。そして時は夜だった。暗がりの中に「ザムザ」本人が隠れる事も可能。そもそも、「ザムザ」は手品師(か、その集団)、飛躍するならば超能力、更に飛躍させ……本人の言う「透明人間」。しかし手品師(か超能力者)の自己顕示であるなら、何故あの小さな公園で、しかも僕を相手にしたのか、何故わざわざ透明人間を名乗り透明人間の演技をしたのか、疑問が残る。
ともあれ昨日の接触だけでは「ザムザ」の正体は不明――と、今日はひそかにビデオカメラとボイスレコーダーを持参した。固形物への反応を見る為に、つまみと称してスルメ等。前日の約束通りに、冷やしたビール。表向きに言うならば、酒盛り。
思えば僕はこのビールを持ち去る事だって出来た。何を律義に守っているのだろう。「ザムザ」の話に付き合わず無視を決め込むことも出来た。だのに僕は彼の話に律義に付き合い、名まで教え(ザムザなんて、その場で考えたような、明らかな偽名ではないか)約束を守りまた公園へ向かうのである。つくづくお人好しだだ。鴨だとも思う。笑いたければ笑えばいい。僕は笑い返さない。
ポケットのレコーダーの電源を入れ、僕は玄関を出た。公園迄自宅から徒歩十分程。少々早く着くだろうが、透明人間はどうせ暇を持て余していることだろう。ビデオの電源を入れようと公園前の角で立ち止まる。するとまたも公園から男の声がする。しかし、それはザムザの声では無かった。酷く攻撃的な声、脅迫のように聴こえる。ただならぬ気配を感じ、僕はそっと覗き見た。
街灯の下に男と少女が居る。まだ学生らしい少女を、男が追い詰めている。男はどうやら露出狂、しかし露出狂以上に卑劣な行為に及ぼうとしているらしい。。
「……ちゃんはわざわざ来てくれたんだ……“覚悟”は、出来てるよねえ?」
笑みを浮かべ、男は少女に触れようとする。まずい、と直感した。ためらわず僕は飛び出した。
そして僕に注目する者は無かった。
僕が飛び出すと同時に、男が撥ね飛ばされたからだ。
男は鳩尾を抑え、よろめき立ち上がる。表情は完全に怒りに満ち、
「……クソガキィ、大人を蹴ろうだなんて、いい度胸してんなァ? そんなに思い知らされたいのかよ?」
しかし少女が反撃したようには思われない。男の言葉に返したのは、聴き覚えある男声だった。
「おい、クソ野郎。いい歳して女の子を襲おうだなんて、いい度胸してんなあ?
ここが誰の公園か分かってるのか?」
虚空から聴こえる声は低く囁いた。威圧する声に男は動揺を隠せないものの、とにかく平然を保とうとする。
「だ、誰の公園ったって、そりゃあ、オレの公園だよ! オレが悪霊様なんだからよぉ!
こそこそしやがって、隠れてないで出てこい!」
「お前こそ、大事なものしまえ!」
と、声が返される。聴くが早いか、鈍いうめき声をあげ男はうずくまった。
ほぼ全裸の相手に対し一方的な攻撃。そろそろ過剰防衛の域に達している。男は完全に腰砕けになり、がたがたと震えている。
「ま、まさか本当に、居るだなんて……」
暴力は僕の本望ではない。鞄からビデオカメラを取り出し、歩み寄る。なるべく事を荒げないように語った。
「先程までの貴方の行動は全て、証拠として録画しました」
うずくまり気勢を無くした男は、情状酌量の余地は無いが、何か気の毒なように見えた。
「この映像を僕が警察に提供するか、今自首するか。……僕は自首を勧めます」
顔面蒼白の男は腰を抜かしながらも
「ぽ、ポタージュ様ぁぁ!」
と悲鳴を上げ、逃走した。その足は確かに交番へ向かっていた。
「あいつ、前全開のまま逃げてったけど、大丈夫なのか?」
出し抜けに透明人間の声がした。
「……何とかなることでしょう。
それよりも、貴方こそ立派な暴行ですが」
「いやあ……ちょっと歯止めが効かなくなって……。すごく腹立たしかったんだよ。あの男はおれの振りをして悪事に及んだ。それが許せなかった。……ただやっぱ、ちょっとやりすぎたかな……。
そういえば帆来くん、いつから録画なんてしてたんだ?」
「初めからしていませんよ、すべてフェイクです」
思わぬ所でビデオカメラを使用してしまった。今晩の撮影は見送りだが、ボイスレコーダーはまだポケットの中で作動している。ザムザは、僕の魂胆に気付いているだろうか。
ともあれ、少女は無事だった。
「ああ、そう言えば……、お怪我はありませんか、お嬢さん?」
少女は、先程の格好のまま縮こまっていた。可なり明るい茶髪と青い眼が目立つ。恐怖は特に見られないが、きょとんとした様子で僕を見上げる。当然だ。目の前に声だけの男がいるのだから。
と言うか、声だけの相手に平然と会話をする僕の方が、少女には不審に見えるのではないか。
少女だけではなく、あの男にとってもそうだろう。いつの間にか僕も怪異の仲間入りを果たしていた。
「突然済みません……大丈夫でしたか?」
月並ではあるが僕も声を掛けた。少女はどちらの問いにも答えないまま微笑み返した。その微笑みに敵意は無いらしい。少女はポケットから小さなメモ帳を取り出した。少女が、か細い丸文字で書くことには、
『いると 思ってた』
少女は喋れないのだろうか。尋ねたが、彼女は愛想良く微笑むばかりでイエスともノーとも分からない。そしてノートをもう一度見せた。
「いると思ってた……誰が?」
恐らく僕の隣にいるだろう、ザムザが声を上げる。少女は声の聴こえた方を指差す。
「――え、おれ?」
ひどく驚いた様子である。興奮気味にザムザは尋ねる。
「あの、もしかして、おれのこと見える人?」
しかしその問いに少女は首をかしげた。つまり見えないらしい。透明人間は落胆した。
少女は携帯電話を取り出し、僕に画面を見せた。市の非公式掲示板らしい。最新のトピックが表示されている。
『××公園 悪霊だけど何か質問ある?』
「何コレ!?」
不意にザムザが携帯を取り上げた。彼女の携帯電話が宙を浮く、その光景を少女は大変に感心した風に眺めていた。ザムザも、別の意味で携帯に食い付いていた。
「何だよこれ、誰が悪霊だって? 誰がコーンポタージュだってえ? 何でこんなに広まっているんだ? おれは好きでポタージュばっか飲んでるんじゃねえ。一体誰がこんな事を!」
彼に任せても進展しないだろう、
「さっきの男でしょう」
僕は携帯電話を奪い返し続きを読んだ。そして画面を
28:celesta
今夜会いに行ってもいいですか?
で止め、少女に見せた。
「この、セレスタというのが貴女ですね?」
少女は頷いた。
「そして悪霊を名乗ったのが、先程の男」
少し首を傾げつつも、少女セレスタは頷く。
「あの男は悪霊に成りすましただけの愉快犯だった。初めから出会い目的で書き込んだのかは分かりませんが、貴女の書き込みを見て行為に及ぼうとし、序でに罪を本物の悪霊に着せようとした。企みは成功するかと思われたが、そこに“悪霊”本人による邪魔が入った。まさか本物の悪霊が居ると思わなかった男は恐怖し逃げ帰った……あらましはこうでしょう」
「おれは幽霊じゃない!」
ザムザが不服げに叫ぶ。
「もうポタージュ様で定着してますよ」
「だっせえー!」
『× ポタージュ様?』
彼女はノートに問いかけた。
「ああ……ええと、おれは幽霊じゃなくて、透明人間。ついでに、名前もザムザって言う」
『ざむざさん 透明人間』
不可視の存在を彼女はごく自然に受け入れたらしい(そもそも彼女は幽霊を目当てに来たのだから、今更透明人間だろうと変わらないのだろう)。そう書き込んでから、今度は僕を指差し首を傾げた。
「帆来です」……『ほらいくん』
セレスタは頁をめくり新たな一文を書き加えた。
『どうするの』
「どうすんのって、何を?」
セレスタは携帯電話を開いた。そして再び掲示板へアクセスする。本当はザムザに見せたいのだろうが、画面を僕に見せた。
「何か掲示板利用者に言いたい事はあるか……と言う事ですか」
「……透明人間アピールしても、それで見物客が来るのは嫌だからなあ……。
最初に書き込んだ奴はニセモノで、そもそもここに幽霊は居ないから、公園には来るなって書いてもらえればいいかな」
OK。とセレスタはジェスチャーした。
気付けば既に日付が変わっている時刻だった。
「あ……そういえば、時間遅いけど大丈夫? ご両親は心配してないかな?」
間髪入れずにNOのジェスチャー。驚いたが、すぐに『海外』と付け足しがあった。ザムザは拍子抜けしたようだが、
「いや、でもまた帰る途中に変なヤツに会ったりしたら……」
『ザムザさん 強いから OK』
「そういう意味じゃなくて……」
セレスタは、中々に強情らしい。
『今 ひとりでいるの 怖いし』
『せっかく会ったから仲よくなりたい』
末尾に花の絵を添え、彼女は笑った。僕達は顔を見合わせ(たのかは分からないが)ベンチに腰を下ろした。
そう言えば本来の酒盛りを果たしていないことに気付く。本来の? 僕の本来の目的は「ザムザ」を暴く事ではなかったか。僕も知らぬ間に、理性の上では疑っているつもりでも、ごく自然に透明人間を受け入れていた。何も言わず缶を差し出す。持たれる力を感じ、缶が浮き上がる。透明人間への手渡しは難しい。
「お前、まじで冷やしてきてくれたんだ? 冗談かと思っていたよ」
「冗談が分からない人間なんです」
「いや、別に悪い意味じゃないよ……帆来くん、本っ当に良いヤツだな」
つられてセレスタが笑った。彼女自身も、怪異と言えば怪異だ。彼女は立ち上がり、自動販売機で缶コーラを買って来た。つまみの品を広げる。缶コーラにスルメは合うのだろうか?
「それじゃあ、……“新しい友人”に向かって……乾杯!」
透明人間は騒がしく缶を掲げた。喋らない少女はスルメを手ににこにこと微笑む。深夜の公園、ささやかで奇怪な宴会。そして僕自身も奇怪なる一員であることは全く否めない。
しかし昨日と違うのは、まあ、それでもいいかと思っている所である。
ちびりと呑んだ後、何とはなしに木々を見上げた。一本だけの不十分な街灯に、まだ葉の付かない枝が照らされている。その中に、ただ一本だけ、
「桜が……」「え、どこに?」
セレスタが指差す。枝の先にやっとほころび始めたような花。
「花見、ですか」『少しはやめ』「風流じゃん?」
たまには、悪くない。
幕