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これは物語ではない  作者: 山川 夜高
act.5 141016の夜から朝へ
57/76

lull

 温かいなかに浮かんでいる。深く沈みながらゆれている。かつてなく好い気分だった。薄明るい光が辺りを満たしていた。水色だった。やわらかい。



 確かに憶えがあるのに思い出せない、ツンとした薬品のような臭がする。



 迷いがない。



 ここに留まっている限り明晰だ。



 温かさのなかで安心しきって四肢を投げ出す。痛みや不愉快であることが少しもない。包み込まれたままの己を肯定できる。



 あのときの感覚に似ている。あのときをなぞっている。それとも今まさに思い出す振りをして、記憶を新たに捏ち上げているのかも知れない。



 明晰さが語り始める。齢五歳にして、あれほどの光景と感覚を、果たして自覚していたのかと、疑問に思う。



 本当のところ、あのときはじめて現象を目撃した自覚を得たという記憶は、あとからの脚色だったに違いない。光景を見て自覚に至ったという経験は本物かも知れない。しかしそのときのことを記憶として再生する度に、図らずしも経験には手垢が付き、そこに無かったはずの秩序を付け加え、補強し、いつしか補強の構造体が経験そのものを乗っ取ってしまった。出来事はあったが、あの通りではなかった。見えたもの、思ったことは、それぞれをばらばらに自覚し、必ずしもこれを見たからこう思ったと意味同士が連結していることはなく、けれども人は知覚がばらばらであることに耐えられないから手元にある意味を繋げてしまう。



 本当は海に行かなかったのだと思うことはある意味正しい。



 あり得たのだろう。



 すべてが正しいと、このなかでなら思える。一歩外に出ると、そうはいかない。細くて強靭なワイヤーのような素材で、何もかもが連結し合い、順番と関連を強いられる。



 今は、きれいな色をしていて、明るくて、すべてほどけている。同じレベルに浮かんでいて、誰かが浮かべたというものではない。辺りのものは方向を欠いて漂っている。



 今は、温かい。時に対する終わりがすぐ傍まで見えるが、引き返せる。カーテンは開けない方がいい。



 一度開いた瞼はしずかに閉ざされた。寄せた波が返すくらい自然に。



 寄せて返す、意識のなかで、生活の上では思いもよらない思案が、浮かんでくる。



 何にも無ければいいのにと願いながら、触れるものは全て何らかの硬さを持ち合わせていて、建築に囲われた空間と日付は溶けて流れ出す兆しがない。



 誰しも、いなくなればいいのだ。誰しも、と言ったとき、思い当たる顔や名前や、想像できる他人の境遇が制止をかけ、自問と撤回を迫る。でも、そういった道徳心をこの場に持ち出して来ることこそ、自分を騙している証なのだ。憐憫など本当は身に備えていない。薄情どころか皆無だ。本当のところを取り繕ってはいけない。嘘をついてはいけない。



 そうして確信をもって無を願う。



 おだやかでいてばらばらでありたい。



 これぐらいの心持ちが一番無理なくいられる。楽な体勢で楽な温度だ。



 開き、閉じるを繰り返す。



 やがてごく自然に浮上する。



 目醒めの瞬間。確かさをもって開いた眼が、カーテンの隙間から差す光を受ける。



 陸上に引き戻されたその瞬間、電話が鳴った。目醒しのためのアラームではなく、着信だった。布団の中で電話を取った。



「ごめんね、朝早くて」と高橋塔子は言った。丁度起きたところだと僕は応じた。



「嘘。起こしちゃったでしょう」



 そうではない、丁度目醒めたら電話が掛かってきたのだ。丁度だったと僕は繰り返した。



 布団の中で収まりが悪くもぞもぞと姿勢を変える。沈黙のあいだ彼女はふふふと笑い、時間を流す。何か具合が悪い。目醒めてみると節々が重い。



「重力が重い?」



 以前もそう言ってからかわれた覚えがあると答えると、そのフレーズを最初に用いたのは僕の方であると指摘された。



「ゼミの度に言っていたし、学祭の時期なんて枕詞みたいにしてた」



 今だったら浮力が足りないとでも表すだろうと考えた。もしくは簡素に疲れたと言う。



 訊かれたことに答える。貴女はどうですかの構文で返す。互いに、これは訊きたいことではない。



 今夜の予定を尋ねられる。急な誘いになったことを詫びながら。



 今目覚めて、今日は用事も無いから、朝に会うにしても構わなかったが、彼女も彼女で理由があるのだろう。承諾し、時刻と場所を告げられた。既に席を取っていたが、諸般の事情で連絡が前後したので、僕にはこうやって朝一で電話をしたのだと彼女は言う。僕は全く構わない。約束など交わさないに越したことは無い。



 新宿である。十一時間後。



 要件を話し終えてしまったので、通話は締めの言葉へ向かう。



「それじゃあ」と。



「それでは」と返す。



 頷き合うだけの合間を経て通話を切った。四分三十秒経過していた。





 通話の最中から気付いていたが、枕が水を吸って冷たく濡れていた。頬、襟、髪も濡れていて、口許を拭い、端末を拭いた。



 その頃にはもう、さっき電話なんてあっただろうかと、批判的に記憶を思い返している。





 そして重力について語った相手は、彼女ではないと、不意に思い出し、また一滴が滴る。

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