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これは物語ではない  作者: 山川 夜高
act.4 知らない人々
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魚のヒロイン(3)

 名前が見えた。高橋塔子。間違えようのない彼女の名前。混乱している。彼女がここにいる訳がない。彼女は日本にいなかった筈だ。僕はちゃんと彼女を見送ったのを記憶している。「元気でね」と最後に告げられたのを思い出せる。彼女は丸一年不在だった。それとも彼女は茶番を演じていたというのか? 彼女は一年間潜伏して映画に出演していたのか? 皆が彼女を陰で庇って僕を騙そうとしていたのか? 馬鹿馬鹿しい。全く論が立っていない。ひどい妄想であるとは分かっている。でもこうでもしないと分からない。

 あるいは同姓同名、そうかも知れない。芸名かも知れない。だとしても彼女の名であることには変わりない。僕を混乱させるには十分な彼女の名前。分からない。彼女は僕の眼前に姿を現した。何故? 見られていた? 僕が死なないように。

 どうすればいいのか僕には分からない。ただ彼女がいた。それだけだった。そのほかに僕の知る人名はいなかった。彼女の名前。それとも見間違えだったのだろうか。スタッフロールを巻き戻すことは出来ない。見間違えかも知れない。高橋という名字の女性を見間違えたのかも知れない。分からない。尋ねようもない。どうしてこんな映画に。何を考えているのだろう。分からない。皆は僕にどうしてほしいのだろう。

 僕達は客席を立った。長く座っていたせいで少しふらつく感じがした。疑問は拭えない。

 ロビーや物販に少数人が屯している。腹が減っていない。どことなく胸が苦しい。ロビーの隅に立っている。「いや……」とザムザが秘かに語る。

「いや……あのさ……、どうだよ、アレ」

 溜息づく。

「貰い物のチケットなので文句は言えませんが」

「文句は言えないから……忘れようと思う」

 セレスタが携帯に打ち込む。

『ED曲が知ってるバンドでおどろきました』

「ほかは?」

 ごまかしの苦笑。

「そういうことだ」

 そういう映画だったのだ。学生のような映画。シーンは美しくても中身のない映画。

 どうしてここに彼女の名が?

 映画パンフレットには完全な配役リストが載せられているに違いないが、それだけのためにパンフレットを買うのはひどく馬鹿らしい。ロビー対角線上の、入口傍の物販エリアで、男がパンフレットを手に取ってしげしげと眺めている。彼が去ったら立ち読みしようと考えた。角を曲がった所にある手洗場から、長髪の女性が現れてその男に語り掛けた。彼女を待っていたらしい男。連れ立って劇場を出る。


 違った。

 あれが“彼女”だった。


 黒い長髪に暗色のスカートの彼女のイメージそのままの出で立ちで、彼女は映画館を去って行く。顔は見えなかった。でも彼女だった。男が誰だか分からない。分からない。どうして貴女がここにいる?


 思考が何一つ前進しない。

 違う。

 何が?

 どうして僕はこんなものを見ている?

 違う。


 彼女が誰かの手を取って、親密な距離で外階段を下る。

 夜が更けてひどく冷え込んでいく。通りの店は殆ど閉まっている。誰もいない通りを彼ら二人きりで行く。談笑も聴こえそうな位二人は親密な距離で並ぶ。踵の高い靴音が遠くに消えていく。取り返しのつかない光景だった。


「塔子さん!」


 追いつけずに階段から叫んだ。声は震えてまともに響かない。彼らは振りかえりもしなかった。聴こえなかった、あるいは聴こうとしなかった。二度目を叫ぶ力はなかった。悪心を催しその場に居すくまった。足元が滲むのを見て身体の限界を悟った。とても寒くて抱き込んで震えていた。隣を誰かが通り過ぎても息衝くのを抑えきれない。

 階段を二人分の足音が降りて来て、背をさすった。

 堪える間もなく涙が滴るのがどこまでも惨めで、それを拭うこともままならない。誰にも目を合わせられない。

「どうした」と尋ねる彼に答えられない。悪心が引かない。溢れる涙を晒したまま動けない。頭部から背にかけて彼らの手が幾度かなぞる。

「吐きそうなら吐いた方が楽だよ」

 それについては頷ける。

「少し落ち着いてから帰ろう」

 と、館内に引き返し、手洗場までザムザが付き添った。

「外でセレスタと待ってる。一人で大丈夫だよな?」

 頷く。

「お前さ」と相手の吐息が聴こえる。「あんま溜め込むなよ」

「寒い」

「一人で平気か?」

「いつもこうなんです」

 悪心の波が満ちてきた。「……あとでお話します」

「分かった」

 足音が去るのを見届けて個室に入った。観念する心地で膝をついた。なぜ、自分の身体とも折り合いが付けられないのだろうか。何に観念しているのだろう。僕が抵抗しているのか、僕に抵抗しているのか。でもじきに悪心が本物になり考え事どころではなくなった。

 鳩尾のあたりに空洞があって、体重が足りていない感じがする。空洞を液体が満たし、腹の中で渦巻く音さえ聴こえそうな時もある。

 逆流して目鼻口から溢れだした。唾液や胃酸の嫌な臭いはせず、塩を含まず、何の色も味もない。呼吸の為に何度か噎せ返った。全部吐き切ってしまいたかった。しかし腹の中が枯れる気配はなかった。一通り吐き出して落ち着いた後も腹の中にまだ残っている感じがあった。とめどないのだと思った。個室の床にへたり込んでしばらく気を落ち着かせていた。呼吸がまだ荒い。

 どうしてこんなにも動揺したのだろう。

 あの人物はきっと彼女ではない。見間違えだったのだ。スタッフロールの名も彼女ではなく、同じ名前の別人か、ただ見間違えたに過ぎない。僕が知る高橋塔子ではない。彼女の名前を見間違えて、姿まで見間違えたのだ。

 何でもない。そう思う。何ということはない。

 でもどうしてだろうと思考が一周して振りだしに戻る。どうして彼女の名前を見出したのだろう。


 ……。


 壁に寄り掛かって立ちあがった。まだ気分が優れなかった。でもいつまでもしゃがみ込んでいる訳にもいかない。穏やかな館内BGMが聴こえる。まだ寒い。温かい風呂に入りたい。

 レバーを引いて流した。流すのも流されるのも水だった。

 手を洗い鏡を見た。前髪が乱れていたから直した。でも根本的にもっと直すべき個所がある気がする。魚のタイピン。きちんと鏡で姿を見たのはこれが初めてだった。茫然と眺めていたが、もう夜遅いと気付いてロビーに出た。二人と共に、外に出た。通りはますます閑散としていた。言わなければならない事が沢山あったが、口を開く気になれなかった。結局C駅に帰るまで、事務的なことしか話せなかった。僕は帰りの電車で殆ど眠っていた。二人は何か語ったのかも知れない。僕はそれについて何も語らず、バスと徒歩のどちらが好いかと尋ねた。僕を気遣って二人はバスを選んだが、僕は歩ける程には回復していた。バスで、セレスタも僕もうたた寝して、ザムザが起こさなければ寝過ごしていた。

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