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これは物語ではない  作者: 山川 夜高
act.3 she/see/sea
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ブラックバード(2)

 名もない時間。

 髪はまだ少し湿っていて、最近何度目かの「そろそろ髪切りたいなあ」を思う。髪をなでつけたり背もたれに身体を任せたり欠伸に似た吐息をつきながら、皆それぞれ別のことを考えているんだろうと想像する。

 ふっと横を見るとセレスタがおれを見上げていて、「なに?」と尋ねると『なんでもない』とはぐらかされ、まあいいかと好きにさせると脇腹をつつかれる。くすぐったくもないから放っておくと残念そうな顔をされる。気付けば家主もこのやりとりを見ていた。そこで事を思い出したのか、それとも発言の機会を伺っていたのか知らないが、「そうだ」と小さな独白が聴こえ、おれたちは彼に注目する。


「映画はお好きですか」


 どちらかというとセレスタに向けた提言だった。突然の映画の二字にきょとんとなるセレスタだったが、


「知人から、映画のペアチケットを頂いていまして。僕も知らない小劇場なのですけど、宜しければご一緒しませんか。昨日の水族館も併せて」


 そうと分かればセレスタはにっこりして。


「いいじゃん。二人で楽しんできなよ」


 おれも賛同を示す。すると家主は一転、おれの予想を超えて、


「貴方も同行するんですよ」

「……え?」

「お暇なのでしょう。それに貴方は料金も掛かりません。利用しないのですか?」


 けろりとして真顔でのたまう。


「お前、悪知恵ついてきたな」

「誰のせいでしょうね」


 家主にセレスタが大きく頷く。結局彼ら、なかよしではないか。


『水族館』


 ノートの一ページに書いたそれを、セレスタは色ペンで何度もくくった。ハートと花を描き足した。標が確かにかたちを得た。


『どこ?』

「どこでもいいよ、っていうかおれは知らないから任せるよ」


 二人して家主に目を遣ると、彼は名前をいくつか挙げて(おれは何も知らない)セレスタと少し話すと合意したようだった。


『いつ?』を『水族館』の下に書いて家主に問うと、彼はうつむき沈黙した。セレスタにはただの思案に見えただろう。日付は彼に困難な質問だった。口を挟もうか話題を逸らそうか、考えているとそれよりも前に彼は言葉を発した。


「特に日付を決めなくてもいいのではないでしょうか」


 思ったよりも憂いのない、憂いを与えない発音だった。


「電車で二時間も掛からないでしょう。いつでもすぐに行ける距離ですよ。

 逆に日付を決めてしまうと、例えば天候不良や何らかの事故で約束が果たされないかも知れないから……僕はそちらの方が悲しいです。

 行こうと思えばいつでも行けます。だから特別に日程を決めずに、行きたい時に行けばいいと思います。映画も、水族館も」


 つまり彼なりにとても楽しみにしているのだろう。


『海』と書いた彼女の文字に家主は確かに頷いた。


「うん。海。いいなあ」


 口に出して見ると思っているよりもずっと“いい”ことのような気がしはじめた。晴れた日がいいと思った。


「水族館は、海の傍にあるの?」

「海の、傍にあります。すぐ目の前に砂浜を臨んでいます」


 静かな調子は変わらないが、きっと彼は根本的に海が好きで、それはきっといいことで、そこに壁は存在しないのだろう。

 平穏な調子を崩さないまま、


「貴方も、何か希望があったら教えて下さい」


 突然だったから驚いた。望みもしていなかった。


「おれ?」

「はい」

「今は……希望……無いなあ……はは」

「何故笑ったんですか」

「あ……いやあの、要望の希望が無いって意味だったんだけど、未来の希望も無いなあ……って」


 セレスタが笑いながら頷く。

「いや、認めんなよ」またも頷く。


「希望無しですか」

「そう言われると無理にでも希望を持ちたい」

「強制している訳ではありません」

「アマノジャクなの。駄目。考える」


 隣でセレスタは枕を抱えて欠伸して、家主なんかもう目をつむってうとうとしているように見える。彼ら、電車でうたた寝する様がかんたんに想像出来る。かく言う自分も眠いと言えば眠い。

 もう、今日は終わってしまうのか。今日もあっという間に過ぎ去ってしまった。日々を持て余しているのか置いてけぼりを食らっているのかおれにはもう分からない。たぶんどちらも変わりは無い。自分にはもうカレンダーは必要ない。たぶんもう人生で急かされたり待ち望むようなことも無い。だから希望は、明るくてささやかで日付に関係なく今にも叶うものがいい。


「あ……じゃあ、一遍、川の字で寝ようよ」


 希望を思いついた。


「川の字?」

「今晩、あっちの部屋で、雑魚寝することを希望する」


 家主は賛成とも反対ともつかない無表情だけど、セレスタは拍手したから多数決では合意している。賛成でも反対でも彼は従うつもりらしいが。


「シングルベッド二台なので、間のランプを退かせば」

「押せば動くよね? ベッドをくっつけちゃえばいっか」

「そうですね。僕の毛布も持ってきましょうか」

「うん」


 彼が自室に戻っている間に、おれは寝室のスタンドライトを脇にどかして、少し重いベッドも動かした。ぴったりくっつけたかったがどうしてもマットレスの間にわずかな溝が出来てしまう。こんなもんかなあと呟くとセレスタがやってきてベッドに座った。

「幼いよねえ」とぼやいてしまう。セレスタが目を上げる。


「やりたいことは? って訊かれて、添い寝だよ。お泊まり会みたいだね。毎日お泊まりしてるのに」


『わたしは たのしいです』とサイレント。それから紙とペンを出し、


『楽しければいっかーって思うのでザムザさんも好きにすればいいです』


「……そっか」


 セレスタが背中からベッドに倒れて、おれも脱力して隣に寝そべった。彼女は寝返りを打ってうつ伏せになり、枕に顎を乗せてノートに書いた。


『たのしい』

「そうだね」


 ずっと、役割も名前もない時間ならいいのにね。


「あのさ」と発言してみたが続く台詞が見つからない。


「うーん……

 言いたいことは、たくさんあるんだけど」


 はぐらかすとも勿体振るとも言えそうなおれの言い渋りの間に、毛布を抱えて帆来くんが帰ってきて、既に寝そべっているおれたちに「早っ」と小声で突っ込んだ。


「ああ、お構いなく」

「構いませんけど」


 セレスタが真ん中にいたから、おれと彼が両脇に寝て、間違いなく川の字になった。横になるとどっと睡魔に襲われた。セレスタが伸ばした手を、何も言わずに握り返した。その手は少し冷たかった。帆来くんが明かりを落とした。「おやすみなさい」と呟いた。カーテンの隙間からほの暗い外光が差した。


「ああ、外の方が明るいんだね」


 街灯やヘッドライトが混ざりあって、赤く濁った光だった。

 呼吸も窓の外もひっそりとして静かだった。

 でもおかしいな。何故固まって一部屋に寝ているのだろう。何故自分はここにいるのだろう。

 そうではない、何もかも自分が言い出しっぺではないか。

 性懲りもなく自分はこの世界に存在している。二人分のベッドに無理矢理三人を寝かせて、今、自分は夜の時間の中に、人数の中に含まれている。車が走る。どこかの誰かが起きている。窓の明かりが消える。誰かが眠りに就く。そういう、語られない、数え切れない誰かの中で、おれにはベッドという居場所がある。おれは壁の中にいる。世界に組み込まれている。暗い曇り空の夜の下に、無数のビルディングやマンションの明かりがまたたいている、そんな夜景を夢想する。隣に二人いる。手を繋いでいる。二人が目を開けているか、確かめず、おれは瞼を閉じる。


「聞こえる?」


 声に出したかもしれない。言った気になっているだけかもしれない。囁いているに等しい。聞こえても聞こえなくても答えは無い。


「聴こえなくてもいいよ。これは独り言なんだ。聴き流してもいい。でも聴かれるべき独り言だ。モノローグなんだ。だから言いたいように話す。

 ……結局、口に出そうが出すまいが、言葉や思いはいつだって向こうに筒抜けだし、時にはわざわざ解説もする。それは君達も同じことだけど、大丈夫。君達には聴こえなくていい。聴こえてもいい。どちらにせよ君達が思い悩む必要は一切無い。なにも分からなくていい。考えなくていい。ここでは全てをおれの咎と呼んでも間違いではない。だからもし君に何かあったらきっとおれのせいだから、君の為に出来ること全てを捧げる。とは言ってもおれたちも最後の最後は分かり合えないと思う。

 例えば、おれが透明人間なのではなく、皆がおれを騙しているのではないか。おれにはおれが歴として見えているのに、透明人間と呼ばれても易々と信じられないし信じたくもない。おれは皆が嘘をついていて、自分以外の者全員が“おれが見えない”筋書きの芝居を打っているのだと考えた。しかし君達がおれを騙す利点は何一つ無いだろうから、やはり自分は透明人間なのだと思うが、おれにそう確信させることが連中の目的で、君達だって陰では嗤っているのかもしれない。無限に疑うことが出来た。おれが妄想患者なのかもしれない。おれだけが目覚めているのかもしれない。ただし強い光に当てた時、おれの足下には影が無い。それが透明人間たる客観的証拠かもしれないが、自分の感覚が狂っているだけかもしれない。他人からすればおれは見えない、もしくは見えないように振る舞う対象なのだから、おれは結局透明人間として捉えられる。だが、客観を実現出来る奴が、果たしてどこにいるだろう? オーディエンスも個人個人の人格を秘めた主観だろう? 自分が傍聴者だ、客観的存在だと思っている奴がここにいるとしたらそれはとんだ驕りだ。三人称も主観に過ぎない。客席に座る者が人間である限り。コギトも、エルゴも、正しいものは一つも無い。主観は、見聞きしたものを納得して記憶する為に、出来事を組み替えてお好みの物語に変換する。出来事は何一つ残らない。記憶されるのは物語だけだ。

 物語は、継ぎはぎだらけのエゴの思いこみ、文字通り、虚構だ。

 コギトエルゴスムは揺らいでいる。けれども、君が存在しなくとも、君の生はそんなにお安い被造物ではない。

 だから呼吸を聴いていたい。分かり合えなくなる終着点までここにいて見届けたい。言葉にも表情にもなり得ない君それ自体の機微、物語に記されない些細な脈動をおれはここで捉えたい。出来る限り、許される限り。

 おれはいつか消えるだろう。今日までは声に出すことも触れることも君に届いた、だから明日も伝えられる、等という保証はどこにも無い。いつの日か君はおれの言葉を聴き取れなくなる。おれが触れたことにも気付かなくなる。生活の痕跡も薄らいでゆき、過去の思い出を疑い始め、じきにおれの全てを忘却するだろう。その時自分は本当の亡霊になる。

 それでもなおどうかここにいさせてほしい。おれの全ての感覚を失って君からおれの全てが消え失せて、おれが本当に見ているだけの観客以下の亡霊に成り下がったとしても、どうかここにいたい。これが思い当たる中で一番の希望だと思う。

 役割が無いと生きてゆけない役立たずな人間のエゴイズムで君達にまとわりついている。分かっている。醜い。だから、尽くしたくて、傍にいたくて、自分の存在理由が欲しい。

 君を安い物語にはさせない。一流の悲劇より三流の喜劇より、我流の即興を挺しよう。

 おれは存在しないけど存在している。君だってそうだ。君は存在している、けれども存在していない。存在しないまま存在している。だから何も心配することは無い。振る舞いたいように振る舞えばいい。存在しようがしまいが、存在それ自体は誰にも侵されない。だからおれは君が望むように演じる。おれが望むように為る。おれは存在しないけど、おれのことをザムザと呼んでくれて嬉しい。


 うん。


 ……おやすみ」

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