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これは物語ではない  作者: 山川 夜高
act.3 she/see/sea
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プスヌシル(3)

 ありあわせの献立を考えていたのに、冷蔵庫には主菜となり得るものが何も無かった。残っていた白飯と卵が目に付いた。卵かけご飯。あんまりである。僕ひとりならそれで済ませたこともあった。もう少し思考して、オムライスという結論に至った。玉葱とケチャップが十分量あることを確認した。ろくな具材が無い。出来上がりの質は問わないことに決めた。

 ケチャップライスは手際が悪くもそれなりを作ることが出来た。難儀なのは卵だった。一枚焼いたがフライパンから剥がせずに大きく裂けてしまった。二枚目も同じく酷い傷が出来た。けちに卵を一つしか使わなかったせいだろう。(卵六つに生クリームを加える高級なオムライス店をうろ覚えに知っている。……それも塔子さんに聞いたように思う)諦めて、無様に裂けた二人分のオムライスをテーブルに運んだ。


 ふと見るとセレスタは目覚めていて、ぼんやりとソファから身体を起こしていた。彼女が僕を見た。

「おはようございます」

 言うと彼女は頷いた。寝呆けているのかもしれない。

「寒くなかったですか」

 彼女は否定し毛布を置いた。僕は彼女の声を思いだそうとした。

 そうして僕がぼんやりしているうちに、彼女はソファを立って僕の向かいに座った。二人分のマグに緑茶を注いだ。彼女は不出来なオムライスをまじまじと見つめていた。目覚めたばかりで食欲も無いだろうし、見て呉れも他人に振る舞うにはあまりに無様だった。


「食べられますか」

「無理に食べる必要はありません」


 僕のことばを彼女はきょとんと聞いた。反応無しと思ったが、彼女はふっと笑みを見せた。僕の皿を手に取って、ケチャップで赤い線を描いた。笑顔の絵だった。


  :)


 そして自分の皿にも同じものを描いた。

 食べる、意志を示したらしかった。返答につかえた僕は小さく一礼した。そして手を合わせ、いただきます、を言う。


 黄色い顔の端からスプーンを入れていった。焦点の合わないケチャップの顔が笑っている。食べられる味だろうか、一抹の不安に締め付けられた。彼女は黙々、静かに食べ続けた。顔にスプーンを差し、彼女の描いた笑顔を歪めた。たんたんと薄焼き卵が消えていく。……そうして残さず食べて手を合わせた。ごちそうさま。


 彼女は机をノックし僕の顔を上げさせた。彼女は口の動きで四音を語った。サイレントのそれは、

『お、い、し、い』

と言ったらしかった。

 かすかな安心を覚えた。僕の一礼を彼女も真似た。


 僕は食器を洗い、彼女は二杯目の茶を注いだ。二人で残ってしまった家は妙に静かであった。一番喋る男が居ない。もしかして本当はこの場に居るのではないかとも考えた。しかしやはりあり得なかった。席に戻り茶を飲みながら、その透明人間と目の前の彼女を考えた。見えない彼、喋らない彼女、間に立つ僕は何と呼ばれるだろう。目線を落とせば、カップの水面に天井の電灯が映りこんで揺れていた。光の屈折現象、水底が近くに浮いているように見える。虚像である。差詰め、僕は、溺れた男。


 セレスタはソファに移り僕を呼んだ。彼女は『水の生物』を膝の上に開いた。補修を重ねてぼろぼろのたたずまいだった。僕もこれを抱いて眠ったことをかすかに思い出した。


「どこにありましたか」


 問うと、彼女は書斎を指した。あの雑然のなかにどうやら二十年近くも潜んでいたらしい。


「無くしたと思っていました」


『あなたの?』と彼女の文字が問いかける。頁には他にも今日までの会話の跡が記されている。断片的ながら、見れば過去の会話を思い出せる。今、ここには『あなたの?』という新しい会話。


「僕が幼い頃に呼んだ本です。小学校に入学して、一人部屋を与えられた時に、父に貰いました」


 “淋しがっていた”僕へのプレゼントだった。

 『大切』と彼女は言う。恐らく僕もそう思う。かつては願いを込めて図鑑をめくる日々だった。繰る日も繰る日も


「毎晩読んでいたように思います」


 頁をめくる。様々な名前と姿と生態を思い出す。


「何をしたという思い出はありません。けれどもこの図鑑の中の出来事は、幼い僕には未知の領域で、読書はとてもたのしかった」


 かつては毎日この世界に入り浸り、頁の中の彼らと戯れようとした。結局願いは叶わなかった。僕はいまだに淋しいままで、冷めきっていると言われたことを思い出す。僕が冷めているから淋しいのか、結果として僕が冷めているのか、それは分からない。


 彼女はウニの一種を指し示した。スカシカシパンだった。かつての僕も目を留めた名前だった。今見ても滑稽だと思う。名付けとはエゴだとも思う。

 カシパンの名の通り丸く扁平で棘が目立たず、花柄の模様付きだから、女性は好むのかもしれない。

『あんぱんみたい』と彼女は語った。『すき』であるとも。


 そういえば。

 思い出して、彼女を連れて書斎へ向かった。過去の収集があった。どこだったか。と、キャビネットの引き出しを探ってゆく。貝殻やシーグラスなどと一緒に仕舞っていた筈だ。見つけた引き出しをそれごと外して床に置いた。貝殻をまとめた箱の中にそれはあった。記憶していたよりも小さかった。セレスタに手渡すと、彼女はきょとんと分からないふうだった。


「前に拾った実物です」


 どこか海へ出向く度に何かを拾う癖がある。大抵は貝殻や不完全なシーグラスだが、たった一度だけスカシカシパンの殻を拾った。平均よりも小さいが完全に近い形で、大切に持ち帰って今ここにある。彼女は物珍しげにそれを見つめる。もし気に入ったのであれば、そのまま手放してもいい。そう考えていた矢先、彼女が僕を呼ぶ。


『生きものがすき?』と、彼女は問う。


 僕は回答を迷った。生物が好きだから拾ったわけではなかった。収集の癖を持ちながら、拾う行為そのものに満足してしまい、何をいくつ集めたとか、同定とか、レッテルを貼ることへの関心が無かった。『水の生物』で満たされなかった空虚の穴埋めが収集だった。そして本当はそれも叶わなかった。生物を求めていた筈なのに、手にしたものは死骸や漂着物や出来損ないのシーグラスばかりだった。生物もそういう漂着物も、けして嫌っている訳ではないし、少しばかりの知識も付いてしまったが、純真無垢に好きとは言えない。だからとてもあいまいにしか答えられない。


「分からないんです」


 嫌いではない筈だった。そう呟くと目の前の彼女はペンを握り、速い筆致でことばを投げかけた。


『きっとすき』

『すきじゃなきゃ拾わない』

『いろんなものがある』


 最後に『好き』と書いたのを、訴えるように僕に向けた。僕は塔子さんの同じ表情を知っている。「痛切」だった。


 嫌いではないことを好きと呼んでも許されるだろうか。ならば、と、躊躇いがちに回答する。


「海が好きでした」


 呼応するように雨音が響く。


「だから生き物のことも知りたかったんです」


 彼女が僕を見る。『何がいちばん』好き? と問う。僕はなるべく本当のことを答えようとする。


「何であっても嫌いではありません。魚も好きです。鯨も貝も好きです。

 ……でも、多分、水母が好きです」


 彼女が記録するのが見えた。

『ほらいくん 好き・くらげ』

『くらげかわいい』笑う。

「水母はかわいい」復唱してしまう。


 彼女は『水の生物』を僕に手渡した。口を開いた、それは確かに『ありがとう』だった。僕も礼を言う。この本を見つけてくれた事と、好きと教えてくれた事を。


 しかし、もしも水母が好きだとしたら、


「この図鑑では足りませんね」


 彼女も頷いた。子供の為のこの図鑑では頁が足りなかった。もう少し深みの本を持っている。『かわいい』と彼女が喜ぶかもしれない本を。

 僕は立ち上がって本棚を見た、そこに目当てのものははく、自室に置いていたと思い出す。彼女を待たせて取りに行くと、彼女はカウチに移っていた。僕は彼女の隣に座る。彼女はカシパンの殻を手にしていた。


「要りますか」


 スカシカシパン。彼女は少し驚いたようだが、小さなNOを示した。所持していても仕方の無いものだから当然だった。


『でもすき』


 手の平に白い殻を乗せて笑う、彼女はきっと僕よりもこれを愛することが出来ると思う。『水の生物』を台座にして殻を乗せた。彼女は満足げにほほえんで、僕の新しい本に目を向ける。水母の写真集。それを僕と彼女をまたいで膝の上にのせる。彼女と一緒に頁をめくった。


 僕の本に彼女はじっと見入っていた。彼女の読みたいようにしようとゆっくりと頁をめくった。本当にこんなものが『かわいい』のか、再度疑念を抱く。巨大なキタユウレイクラゲなど不快だろうし致死毒を持つ種もある。

 しかし、多分、彼女は嘘で『かわいい』とは言わない筈だ。隣に座っている彼女は。しかし僕が何を知っている。所属も年齢も、名前すらも知らないというのに。

 それでも彼女は頁の写真を記憶せんばかりに見つめている。


 ずっと雨が聴こえていた。僕達は静かだった。水を撥ねて車が走る。雨は長い糸のように降り止まない。


 肩をたたかれる。『何がいちばん?』と彼女が訊く。序列を気にしたことはあまり無かった。だから一番水母らしい水母を指差した。


「ミズクラゲです」


 沿岸で普通に見られ、無色透明、特異な形でもなく毒も無い。

『シンプル』、そう彼女が書き記したのに僕も頷く。

「だから、一番好きです」

 飾りの無い丸いだけの傘で口腕も短い。確かにきっと『かわいい』

『持ってみたい』

「たまに浜に打ち上げられています」

 そう言うと彼女はぱっと明るくなった。

『ほんと?』

「一度だけ見ました」

『もった?』

 持ち上げたことはなかった。いくら人間に無毒とはいえ、直接触ることには少々後込みした。文字通りつかみ所が無かったのだ。


「でも、突つきました」


 言うと、彼女は吹き出した。吐息だけで笑っていた。腹を抱えて足をばたつかせながらも声だけは忍び笑いだった。

 あれは僕も仕方なかった。背もたれに深く身体をあずけて吐息した。

 ひとしきりサイレントで笑った彼女は僕を見上げ笑い掛ける。


『おかしいね』

「おかしいですね」


 おかしいと思いながらもつついたのだからそれは可笑しい。


『つつきたい』

「面白かったです。乾くと、少し縮んでしまいます」


 砂の上に座礁している様は何かどうしようもなくあわれだった。しかしただの円い寒天でもあった。僕の水を分け与えたかった。


 不意にセレスタは立ち上がり僕の顔を覗き込んだ。僕は驚いた。手を伸ばせばすぐの距離だった。それ故に僕は硬直した。彼女の青い瞳が僕をじっと見た。青すぎる目だった。人工の青だ。視線恐怖症の気は無い筈だが、ここまでただ視られると、それも分からない。僕は逃れたくなった。「どうか、しましたか」と問うが、彼女は首を振って答えない。ただじっと大きな目があった。


 そうして、どれくらい向き合っていたのか分からない――実際は五分も経っていないだろうが、彼女の目はようやく僕を離れた。僕にメッセージを渡した。拍子抜けした。そこにはただひとこと、


『目がきれいです』


「……普通ですよ」

 少し苦しい。

『ふつうにきれい』

 と、彼女は言う。比喩なのか皮肉なのか判別出来なかった。

「褒めているんですか」

『ほめてます』

 何故そんなことを言うのだろう。僕は。

 いや、褒められることに慣れていないだけだ。返し方を知らないし、今ここで釈明する理由もない。


 彼女は再び隣に座り、僕の肩にもたれかかる。そしてノートにことばを書く。いつもよりゆっくりとした小さな字だった。


『こわい夢をみました』


 夕のことだろうと思った。あの声は、うなされていたのだろうか。


「大丈夫ですか」


 彼女は頷いた。無理をしているのかもしれないけれど、頷きは嘘ではないと思った。僕はそのまま居続けた。


 彼女が抱えるものがあって、それが何でどれ程重たいものか、僕が測ることは出来ない。詮索する気も無い。けれども人の重みを受け入れることは可能かもしれない。重圧で時に窒息しそうになることだけは、僕はきっと知っているから。重力に耐えられなくなった時にはこうして寄りかかってくれて構わない。


 だからこのままの格好で僕は呟いた。けれども声にはならなかった。


(ありがとうございます)


 口をついて出たそれが何を対象にしているのか、僕自身にも分からなかった。ただ漠然と名状し難い好意があった。

 この家に不自由も不快も無い。一人の少女と見えない男を迎えても、僕の視界に変化は無い。変わったことは消耗品の量が三倍になったこと、風呂や洗濯の順番を考えるようになったこと、毎食が美味くなったこと、喋らない日が無くなったこと。


 本はとっくに閉じていた。セレスタを肩に感じている。ただ水を聴いている。凪いだ海に浮かぶような、とてもおだやかな心地だった。目を瞑った。

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