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これは物語ではない  作者: 山川 夜高
act.3 she/see/sea
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プスヌシル(2)

 降りはじめた。今はまだ小雨だった。霧雨に近い程度だが、傘を差す姿をちらほらと見かける。鞄の折り畳み傘を取り出す。これが旧式の造りで、骨が自動に開かない為、人の手で間接を折らねばならず時間がかかる。知人からは買い換えを勧められているが、不便なだけで使用自体に不具合は無いから壊れるまでは使うつもりでいる。

 夜には本降りになると予想される。こんな日に外出すると言ったザムザは大丈夫だろうか。しかし遠方の塔子さんにも心配されるような自分に、他人を案じる資格などあるのだろうか。ましてや彼。きっと虫よりもしぶといのだろう。


 駅までの長い橋を歩いている。この界隈はかなり早くから橋化した地区で、自動歩道や雨避けが無い。ビルとビルの透間を縫うように橋が繋ぐ。土地不足ゆえである。しかし繁華街やオフィス街を抜けて住宅地に出ると、こういう橋は殆ど見られない。T市はC駅前のみ橋化しているが、丘陵地帯の為郊外にも架橋されている。父は橋の技師である。そして僕もいずれはそう成る。


 眼下の水面はビル風でさざ波立ち、現実の雨の干渉に震えていた。橋の下の車道は低地で水が流れ込むらしく、さながら運河のように思った。見慣れた光景だった。平常より水位が増しているらしい。雨天のせいだと思ったが、はたして両者の関係を知ることは出来ない。

 風景を嫌いにはなれない。悲しむことはあっても憎むことは出来ない。悪いのは僕ひとりで、僕はそれに黙従している。

 視界の隅に水面を臨みながら歩く。街は霧雨で白く霞み、すべてが遠くにあるように見えた。どこまでがほんとうの景色なのだろう、と、ぼんやり考える。肌寒い。ビル風に背中を押される。靴が少し濡れた。


  * * *


 ずっと長雨が続いた。C駅からの帰り道も白く霧雨だった。傘はささずに帰ってきた。悪い気分ではない。霧を浴びて、妙に穏やかな心地だった。夕食はありあわせのもので簡単に済ませることに決めた。

 丁度家に着いた頃に雨は強さを増した。鍵を開ける。革靴が一足隅に寄せられていた。しかし物音はせず部屋は暗かった。気配が無かった。明かりを点けて、僕ははじめてソファに眠る彼女に気が付いた。


 セレスタは制服のまま眠っていた。軽く身体を屈してソファに小さく収まっていた。人形と見誤りそうな程に彼女は深く寝入っていた。そして胸には一冊の図鑑を抱きかかえていた。『水の生物』、僕が幼い頃に読み耽った、僕自身も所在を忘れていたとても古い本だ。何故彼女がこれをもっているのか分からない。


 幾度か寝返りを打ったらしく衣服は少し乱れていた。短いプリーツスカートの腿は白く寒そうに見えた。直すか否か躊躇ったが、僕は密やかに裾を正した。

 不図「髪を触ることが好き」と言ったことを思い出した。眠る彼女を見た。瞼に掛かっている髪を指で払った。そのまま手櫛で軽く調えた。そして止めた。まるで人形のように扱ったことにひとなみの罪悪感が痛んだ。彼女は少し震えるように脚を屈めた。やはり寒いのだと思った。僕は寝室から使われない毛布を引っ張りだした。結局あの部屋で寝る者は居ない。僕はそっと障りの無いように毛布を掛けた。


  ん


 その時声を聴いた。声ともつかないような微細さであった。それは、僕が毛布をかぶせた瞬間、眠る彼女が無意識に発したものらしかった。僕はどきりとし、沈黙し、彼女の次のことばを待った。何も無かった。彼女はまた微弱な寝息をたてて毛布の中に顔を(うず)めた。


 僕は確かに彼女の声を聴いた。眠る彼女を盗聴した。


 しばらくカウチの傍に立っていた。意識せずとも、眠る彼女の呼吸を聴いていた。

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