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これは物語ではない  作者: 山川 夜高
act.3 she/see/sea
22/76

greysky(後)

 温度と光と物音に目が覚めました。カウチに横たわったままぼんやりとしていましたが、そのときはじめて毛布の中にいることに気がつきました。ずいぶんと長く眠っていたのかもしれません。開けっぱなしのカーテンの、外は暗く室内は明るいです。コンタクトが目に貼り付いて不快でした。身体を起こして目薬を挿します。あふれた滴がほおを伝いました。わたしはまだ図鑑を手にしていました。


 ごとり、という陶器の皿を置く音がして、目を向けると彼がいました。二人分のスプーンを置いた彼は目覚めたわたしに気がつきました。


「おはようございます」


 わたしはただ頷きました。何か言おうともしましたが、何と言っていいのか分からなくなりました。それに帆来くんには文字しか伝わりません。


「寒くなかったですか」


 わたしは首を振りました。毛布の熱は名残惜しくありましたが、それをたたんですみに寄せて、その上に図鑑をのせました。わたしたちは向かい合ってダイニングの席に座りました。彼は温かいお茶を注ぎました。わたしのマグは水色と白の水玉模様で、彼のは白地に群青色が塗り分けられています。ちなみにザムザさんのは細い金のラインが入った白色です(ずっと使っていなかった貰い物のカップだそうです)。皿は水色と紺色と灰色のおそろいで魚の模様です。今は灰色を使いません。今日はオムライスでした。

 彼の料理は滅多にないので、わたしは皿の上のオムライスを少しものめずらしく見ていました。何の変わりのないケチャップライスに、ふわふわにはほど遠い、中央が大きくやぶけてしまった薄焼きたまごが乗っています。彼の皿も同様です。彼は手を付けず、わたしを少し窺うふうです。


「食べられますか」

「無理に食べる必要はありません」


 寝起きのわたしを気遣ってくれたのでしょう。ですが確かに空腹だったので、ことばの替わりに少し笑ってケチャップを取ります。そして彼のオムライスに笑顔を描きました。


  :)


 そして自分の皿にも同じものを描きました。

 彼はぺこりと頭を下げました。きっととても真面目なんだと思います。好意が伝わればいいなあと思います。

 わたしは手を合わせました。彼も手を合わせます。いただきますを言いました。


 ケチャップは少ししょっぱかったのですが、ご飯はあたたかく十分でした。わたしは時々彼の食べる様を盗み見ます。黙々とたんたんとスプーンをはこびます。食事中は基本的に無言です。そう習ったと前に帆来くんが言いました。時に厳格な家庭だったとも言いました。すこし、うらやましかったです。あたたかいお茶を飲みながらわたしたちはとてもしずかでした。食べ終えたわたしたちは再び手を合わせます。ごちそうさま。


 わたしは伝わるように努めて『お、い、し、い』と語りました。

『お、い、し、い』

きっと伝わったのか、彼は神妙に一礼しました。わたしも深々とおじぎしました。

「ありがとうございます」――『ありがとうございます』


 二杯目のお茶を飲みながらわたしたちは向かい合っています。彼はカップに目を落としています。前にもこういう夢を見た気がします。わたしはソファに移りました。彼を呼んで隣に座りました。わたしは『水の生物』を手渡しました。彼は、それをふしぎに見つめていました。


「どこにありましたか」

 わたしは書斎を指さしました。

「無くしたと思っていました」


 わたしはノートに、あなたのものかと尋ねました。ノートももうかなりのページを使いました。二冊目が近いです。次は大きい大学ノートかスケッチブックにしようと思います。


「僕が幼い頃に読んだ本です。小学校に入学して、一人部屋を与えられた時に、父に貰いました」


 彼は考えながらすこしずつことばをつむぎます。だからことばが丁寧なんだとも思います。


『大切』にしてたものですか?


「毎晩読んでいたように思います」


 そう言いながら、ぱらり、ぱらりとページをめくります。


「何をしたという思い出はありません。けれどもこの図鑑の中の出来事は、幼い僕には未知の領域で、読書はとても楽しかった」

 はじめて読んだわたしもおなじ感想です。わたしはウニのページでスカシカシパンを指さしました。花のように五つの穴があいた、まん丸でトゲのないウニです。あんぱんのような形です。わたしは好きです。そう伝えると、彼は首をかしげて思案し、席を立ちました。わたしもついてゆきます。


 書斎のドアを開けて、電気をつけて、彼はキャビネットのひきだしを開けていきます。そのうち一つを外してしまって床に置きました。箱によっていくつかに仕切られたなかに、白や水色のガラス片や貝殻が入っています。それらにまざって白くまるいものがありました。彼はそれを手渡しました。図鑑で見たとおりのスカシカシパンでした。


「前に拾った実物です」


 真っ白いそれは(死んだ後の殻だそうです)片手におさまる大きさでした。本当の花の模様も五つの穴もしっかりありました。本物です。それを拾うなんてすごいと思います。わたしはただ感嘆していました。


 帆来くんの肩をたたいて呼びかけました。

『生きものがすき?』

 わたしの文を見て、引き出しに目を伏せて、彼は分からないと言いました。


「嫌いでは、ないと思います」


 彼は自信がなさそうに言います。

 けれども、『きっとすき』だと思います。だってその殻も『すきじゃなきゃ拾わない』です。貝殻だとかグラスとか『いろんなものがある』のは、『好き』だからですよね?


 わたしはあなたのことをもっと知りたいです。


 ふたりっきりの沈黙ののち、やがて彼はぽつりと言いました。


「……海が、好きでした」


 海?


「だから生き物のことも知りたかったんです」


 わたしははじめて彼の好きを知りました。

 そしてふたりきりでゆっくり話すのも、これがはじめてだと思います。


『何がいちばん』ですか?

 彼はしずかにていねいに語ります。

「何であっても嫌いではありません。魚も好きです。くじらも貝も好きです」

 ことばを探して、真黒の目が揺れ動きました。

「でも、多分、くらげが好きです」


 くらげ。

 わたしもくらげが好きです。この本を読んでくらげが好きになりました。わたしはあなたと同じものを好きになりました。だからわたしはとてもうれしいです。


 帆来くんはくらげが好きです。


『くらげかわいい』と思います。そう伝えます。彼もそれを読み上げます。

「くらげはかわいい」

 くらげをかわいいと思うこともかわいいと思います。くらげが怖いことも知っています。致死毒を持つと知りながらも、くらげが好きです。教えてくれたのはあなたの本です。持ち主に本を返します。『ありがとう』とわたしは言います。ありがとうと彼も言います。ありがとうは、伝わります。


 でもこの本は、きっかけにはなるけれど、

「この図鑑では足りませんね」

 そう、たしかにくらげのページが物足りないのです。


 彼はまた思索したふうで、そびえる本棚に目を向けると何かを探しはじめました。どうやらここにはないみたいで、彼は「ちょっと、待っていて下さい」と、おそらくは自室に向かいました。ここで待っているのも変な気分だったのでわたしはまたカウチに戻ります。ことばを見せるのに、向かい合わせに座るよりも隣同士の方が便利だからです。それにカウチはとても居心地がいいのです。


 持ってきたのは図鑑よりももっと薄くて小さな本でした。カウチに座った彼にわたしは近づきます。隣同士です。わたしはまだスカシカシパンを持っています。


「要りますか」


 不意に彼は尋ねました。わたしはびっくりして首を振りました。だめです。だってこれは帆来くんが拾った帆来くんのもので、わたしが貰っていいものではありません。わたしより帆来くんの方がものを大切にするひとです。だからわたしは受け取れません。

『でもすき』です。うれしいです。気持ちだけとても大切に受け取ります。

 『水の生物』の上にカシパンを乗せました。台座のようです。かわいいです。


 彼の持ってきた本を見ます。青い背景に赤いくらげが尾を引いている表紙です。それはくらげだけの写真集でした。彼と一緒にページをめくります。


 水は青黒く、からだは無重力に浮かんでいます。青白いもの、赤いもの、黄色みのもの、紫色、水玉模様、しま模様。岸辺の浅瀬に棲むもの、外洋の深海に棲むもの、水面を漂って暮らすもの、一生岩や海藻にくっついて暮らすもの。顔もなく前後もない姿で、波にまかせるままに生きています。わたしにはそれがとても自由な存在に見えました。


 ゆっくり、静かなペースでページをめくります。雨の音が聴こえます。

『何がいちばん?』

と、もう一度訊いてみました。彼はページをめくり探し、最初の方に戻ると、一つの写真を指さしました。


「……ミズクラゲです」


 透明で、足は短くて大きくも小さくもなく、特別に特徴のないくらげらしいくらげでした。かさにはうすく花の模様がありました。四枚の花弁のようで、四葉のクローバーに似ています。

『シンプル』だと思いました。

「そうですね」と彼も言います。「だから一番好きです」


 ミズクラゲはあまり毒がないようです。ゼリー状の体がひんやりと心地よさそうです。傘の外側をつまんで『持ってみたい』と思いました。それを見て彼が教えてくれます。


「たまに浜に打ち上げられています」

『ほんと?』

「一度だけ見ました」

『もった?』


 彼は首を振りました。


「でも、突つきました」


 そう言ったのがなんだかおかしくて、声には出せないけれど、私は笑います。とても笑ってしまいます。悪く笑っているのではありません。なぜだか、とてもうれしいからです。

 当の本人は笑いも怒りもしません。表情はゆるみません。ただ背もたれに身体をあずけ、ふっと息を吐きました。彼にならってわたしもソファに深くかけます。


『おかしいね』

 わたしは笑いかけます。

「おかしいですね」

 彼も答えます。

 そっか、つついてしまったのか。

『つつきたい』

「面白かったです。乾くと、少し縮んでしまいます」


 ほほえむだとか、表情に変わりはなく、ぼんやり天井を見上げて言います。


 わたしはソファを立って彼の目を覗き込みました。何を見ているのか知りたかったのです。彼は少し驚いたようにわたしを見ます。目と目が合います。

「どうか、しましたか」

 わたしを見上げたままの彼に、わたしはいいえと首を振ります。

 わたしの影が彼にかからないようにしながら、彼の目を注意深く見つめました。わたしが堪えられないと感じた目です。わたしが負い目を感じた目です。真っ暗闇に見えた目です。


 その目の中に、黒目の中に、わたしは瞳孔と虹彩を見いだしました。褐色の虹彩を発見しました。虹彩に走る筋も見えました。すべてがガラス球の向こう側のように遠くに見えます。


 わたしはことばを書いて彼に贈ります。


『目がきれいです』


 彼は呆然としてわたしを見て、

「……普通ですよ」

 じゃあ、『ふつうにきれい』です。

「ほめているんですか」

『ほめています』


 わたしは笑いかけることしかできません。彼はまた吐息でした。そうして口をつぐみます。でも不快なわけではなさそうで、痛みのない沈黙にわたしは安心します。まだ当分の間重い身体のわたしは彼の肩によりかかります。彼はわたしを少しだけ見、なにも言いません。許してくれます。やさしいひとに甘えてしまいます。


 わたしはペンをとります。打ち明けようか迷いながら。


『こわい夢をみました』


 彼は小さく頷きました。夢の中のあなたを思い出します。ああいう夢を見るわたしがいけないのです。

 ……わたしは、ときどき、あなたのことがわからなくなってしまいます。ときどき黙ってしまうあなたが、気を悪くしてるんじゃないかって、わたしはとても邪魔なんじゃないかって、こわかったのです。だからそういう夢を見てしまうんです。

 今、ここにいるあなたは、変わらずしずかな声でわたしを心配してくれます。


「大丈夫ですか」

 だからわたしはちいさく頷きます。

(もう、大丈夫です)


 しばらくずっと彼にもたれかかりました。そうして静かにしていました。開けっぱなしのカーテンと、ガラスに反射するわたしたちの向こうに、黄色く陰った雲が広がっています。冷たそうな空です。雨は強さを増し、いつまでも降り続けていそうです。

 このままずっと雨で、あした目が覚めたらいちめんの海になっていればいいのにと思います。公園が砂浜になって、そこにくらげがやってきたらなあと、願います。

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