no moon/no room
「バツ」
突然の声に不意を打たれ、見ると浮いていた本がパタンと閉じた所で、一瞥するだけで深い詮索は入れない。いつものことだった。声の主は本を投げ(るように机に置いて)冷蔵庫を漁る。缶チューハイ二本が取り出される。一本は僕の前に乱暴に置かれ、もう一本はソファまで浮遊し、プルタブが開いて缶が傾く。中身は宙に消える。僕は活字に伏せていた目を上げ彼の微妙な好意を受け取る。同じくプルタブを開けて一口。すると斜めに座っていたセレスタも本を置き、冷蔵庫からジンジャーエールのボトルを取り出す。彼女なりの晩酌だった。
「バツ?」
読み終えたその本を指したらしい。
「マルバツを付けている」
多少荒れた口調で男が言った。口調が荒れているということは全てが荒れているんだろうと解釈する。セレスタは依然として淡々と『変身』の頁をめくる。ここにいるザムザは騒々しい。しかし彼は沈黙の方が恐ろしい。その時彼の存在は完璧にゼロになる。本当に拗ねた時はそうなり、回復が面倒くさい。多少自暴自棄とは言え口数が減らないうちはまだ健康なのだった。
「前例もクソもないけど前例を調べてんだよ。それと、何に認知されて何に無視されるのか」
「どうだったんですか。『透明人間』」
「文学は辛辣だね」
それで透明人間が×だったと言いたいらしい。今までに虫と虎と棒が彼の言う×だった。前例の取り方がおかしいとは思うが、そもそも彼がフィクションのような存在なので口出しはしない。それにそれ以外の前例を知らない。
ちなみに例に挙げた全冊がうちの書斎にある。父の蔵書だったが、両親は家を離れるときに全てをここに置いていった。三部屋のうち一室は本の海と化し、僕はその海に浸かって育った。
自室以外の二部屋を物置に潰している。……否、蔑ろに潰しているのではなく、人が去った部屋は物置としかならない。この家は三人で住む為の家であり、ここは僕の家ではない。
「マルってあったんですか」
尋ねると男は「ない」と即答。
「認知されるのは声だけらしい。持ち物は見えるけど衣類装飾品は不可視。ポケットに入れた物は見えない。体内に入った食物も同じく。猫をかまってみたけど出来なかった。鳥もバツ。自動ドア無視。赤外線にもシカトされてるんだろう。あと何があったかな……。水の中に入ったら、見えるのかな」
トンと机を叩く音がして、セレスタがノートを見せる。
『公開入浴』してみたら、と、少し意地悪く笑う。
「キモチワルイよ、見えないって分かってても。おれは、自分のこと見えるから」
「そうなんですか」
「言ってなかったっけ? 自分で自分のことは見えるんだよ。……それも見えなかったら倍ぐらい不便だと思う」
いよいよ人体構造が分からない。僕達は暫定的に見えない彼を透明人間と呼んでいる。あるいはザムザとしか呼べないのかもしれない。彼に架せられた不条理さなら毒虫のザムザに似ている。
彼が世界に映らないなら、彼の目に世界はどう映るのか。
「存在を認知されないんでしょうか。まず人体が見えないから透明人間と呼ばれる」
「視覚以外もなかったことになってる気がする。犬はどうなんだろう」
『お酒くさくない』よね、とセレスタ。
「嗅覚も無視なのかな……声だけ?」
レコーダーの話を切り出せない。それは僕が録音していたという負い目だった。
「あれ、五感って何があったっけ」
「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」
「味覚って、やだな、何か」
「自分では分かるんですよね」
「味、分かるよ」
「触覚……触れますよね?」
「おれを?」
「はい」
ソファの缶はふわりと立ち上がり、つかつかとダイニングテーブルの僕へ寄った。何をするかと見えないなりにそれを見ていた。何かを持っていなければ、そこに何者かがいるようには思えない。
グッと側頭部に力が掛けられ身体が傾いた。体勢を持ち直した。
「なにするんですか」
「……透けてはいないよな」
すると上方から押さえつけられる感覚があった。僕は座り見えない男は立っている。事象の予想はつく。彼は僕の頭を悪意なく叩く。
「おれからは触れるんだよね」
僕が払った手は虚空をかすめるばかりだった。当てずっぽうだから仕方がない。僕は彼を見上げたと思う方を見た。
「実はまだ触られたことないんだよね」
「構ってほしいんですか」
「暇なんだからいいだろ」
視線をセレスタに向けても彼女は苦笑いを浮かべるばかりだった。そして正しい『変身』の方へ再び目を遣った。僕のことは無視して。贋作のザムザがしつこい。態度の冷静さを大人であると呼ぶなら、セレスタの方が大人だった。
「だからさあ、こういうことでしか、分からないんだよ」
話だけは聞き続けた。テレビもラジオも点けていないしセレスタは語らない。夜間だから音もない。止まない波音が僕へと伝わる。夜、水は黝い。深い。だからカーテンを閉める。
「自分じゃ見えてるつもりでも人から見えないからさ、喋ったり触ったりしないと分かんなくなるじゃん」
宙に浮かぶ缶がぐっと持ち上がり、傾き、空になって軽く机上に着地する。
「さみしいっつーか」
僕の頭は小突かれ続けた。身体が揺れた。
「……ヤじゃん」
「……はい」
「女々しいなーとは思うんだけどさ」
「はい」
「いつまでこうなんだろうとか思うんだよ」
「はい」
「どうしたら戻れるかなって」
「はい」
「でもきっといつまでもこうなんだろうなあって、おれは何となく分かってるんだよ」
……答えられない。
「分かって欲しいっていうのは絶対無理だと思うし、それは図々しいし、おれだって自分のことが分からないから分かりたい」
「……そうですね」
僕にも貴方を理解することは出来ない。それなのに僕は彼を認めている。不確かなものを好きこのんで招いている。そのくせ僕は何もしない。救わない。
僕は異常者なのだと思う。
見えない男は僕の缶まで手に取って、ぐっと持ち上げて傾け、水嵩を半分に減らした。こういう所は図々しかった。滴が降りていた表面に五本の指の形が残り、人間がそれを持った事実を証明した。どんなに理解出来なくても彼はただ存在している。
「座ったらどうです」
頷いたか頷かないかは分からない。
「全部飲んでいいですよ」と言うと缶は今度こそ空になった。その辺りに遠慮は無い。
隣に立ち尽くす男の姿を思い浮かべる。
セレスタが大きく伸びをし、なにか晴れやかにこちらを見る。ぱたんと文庫本を閉じて横に遣る。
「読み終わった?」
ふと、ザムザの問いに彼女は頷く。
「ごめんなさい、騒がしくして」
彼女は首を振る。隣の空席をひいた。
僕も言った。
「座って下さい。ザムザ君」
すこしの沈黙の後椅子が前後に微動した。彼が座したことを理解した。
語らない彼をセレスタはじっと見た。そしてしずかに手を伸ばし、きっと彼の背中の辺りを触れた。彼は前傾して机に伏しているらしかった。
『さわれますよ』
彼女は無音で語り掛けた。グレーゴルにいたという妹を思い出した。
彼女はもう少し上部に触れた。頭部だろうと思った。
『ながい』
と言って後頭部の何かを引っ張る。
「髪ですか」
頷く。
「伸びきってるんだよ……切らなきゃだなあ」
見えない手櫛を通す彼女はなにか満足げというかたのしげだった。
『髪の毛いじるの好きなんです 頭なでるの好きです』
男も従順だった。眠たいのだろうか。いや。
「酔ってますね?」
「……うーん?」
「吐くならここで吐かないで下さい。ちゃんとトイレまで行って下さい」
「いや、まだ二杯だからまだへいきだけど、そんときは連れ添ってくれるとウレシイなあ」
「行きたいんですか?」
「……吐寫物って透明かな!」
「止めて下さい」
「まだ吐かないけど、吐きそうになったらぜひ確認を」
「お断りします」
「……手遅れって言ったら怒るか」
「怒る前に殴ります」
「冗談だって!」
「殴りますよ」
「殴られたらやっぱ痛いよなあ」
ひひひ。と、見えない男は悪趣味に笑った。
ふと全くの憶測が頭に浮かび、気付いた時には口に出していた。
「貴方、そんなんだから、透けてしまったんじゃないですか」
ザムザは笑うばかりで答えない。
彼は再び僕の頭部に手を乗せた。今度は正面から。
「本当に、まだ酔ってないぜ」
押したのち、反動を付けてぱっと手が離される。笑いの吐息が漏れるのを聞く。
「もうちょっと飲もうよ。話したいことが色々見つかった」
目の前に、見えない笑みを浮かべる男を見た。
「……飲みましょう」
深く椅子に掛け直した。
次にやることも見つかった。海鳴りがうるさいのは今日が新月だから。
* * *
空き部屋があるんです。
ぽつりと帆来が切り出したのは、だいぶ夜も更けた頃だった。セレスタが疑問符を投げかけると、家主は書斎の隣の扉を指した。一度も入った事は無く、帆来くんでさえ立ち入った所を見たことがない。彼は立ち上がり、ドアを開け放ち、おれたちを招いた。
まあまあの広さの洋間にベッドが二つ。間にランプ。クローゼット。広い窓。ダークブラウンのフローリングに、白いラグ。アイボリー色の壁に掛けられた小さな絵画。整えられた調度品。これだけ見ると洗練されたホテルの一室のようだった。
しかしベッドにはマットレスしかない。窓のカーテンは開かれたままだった。何者にも触られず、室内のすべてがうっすらと埃を纏って古ぼけていた。生活の痕跡だけを遺して人間は消えてしまった。そんな印象を受けた。
ベッドのスプリングも触ってみるとしっかりと弾力のある良品だった。贅沢だ、と思ったのは、長らくの路上生活に慣れきったせいだろうか。自分にはソファでさえ非常に快適だった。
「ここを掃除して貴方達に、と思ったんです」
帆来くんは箪笥の埃を指でなぞった。
先日感じた妙な予感を思い出した。
「誰が、使っていた?」
「……僕の父と母です」
神妙な沈黙が辺りを包んだ。セレスタが男を見上げる。何があったの、と。
整然としながら古ぼけた室内、に立つモノトーン姿の男、は、何か映画のワンシーンのように場に映えている。永久の聴衆となったおれはそれを見ている。彼はただ淡々と語った。
「二人とも母の実家に居るんです。母が倒れて、向こうで療養していて、父はその看護をしています」
「……病状は?」
「決して悪い訳ではありません。環境による病なので、ここよりも静かな場所で治療を受けるべきだった、それだけです」
セレスタが何かを書き始めるのを帆来は待った。どう言うべきか悩んでいるようで、彼女は幾度も書いては消しを繰り返した。しかし結局首を振り、『つづきを聞かせて』と手を差し伸べた。
男はマットレスに腰かけておれたちにも席を勧めた。
どこを見るでもなく目を伏せている。癖らしく、他人と目を合わせて話す姿は少ない(もっとも、おれかセレスタと話す所くらいしか見たことはなく、セレスタは文面での会話だし、おれに至っては相手に見えない)。見上げる動作より見下ろすことの方が多い。
「僕は家に残りました。高校の時で、大学進学を控えていたからここに居た方が都合がよかった。
それに借家ではなくて購入した家なんです。父が買って、僕が生まれた時からここに暮らしていました。
愚かなことだとは分かっています、ですが、離れられなかったんです。馬鹿みたいにずっとここに住んでいます。この部屋もそのままにして。僕だけ残って。
僕は馬鹿です」
消えいるようにでもなく、ただ事実を述べようと、淡々と発音がこぼれ落ちた。
言語っていうのは空気よりも重くて、言ったそばから足下に溜まっていくんだと思う。上に向かって投げたことばは弧を描いて遠くまで飛んでいく。下に落とせば雨のように降りつもる。おれの空想。昔はみんな空に向かってことばを投げていた。
吐き出されたことばは寝室の底に埃のように薄いヴェールを張っている。見えないけれど。それを指でなぞった。
「別に、馬鹿じゃねえだろ」
なぐさめている訳ではない。
「普通だよ」
おまけに説得力も無い。おれが普通を語るなんてそっちの方が馬鹿馬鹿しい。
相手は眉一つ動かさない。笑いもせず泣きもしない。思い悩みすぎて表情まで手が負えない、なんて言いそうな顔だった。
そんな顔のまま、伏せていた目をしずかに上げた。
発言はなかった。また新しい思考と新しいことばを巡らせているようだった。
迷っていたセレスタが、新しい紙を差し出した。
『お留守番でしょ
私もお留守番です』
男は声には出さず頷いた。
『ひとりでいたの淋しかったから、
一緒でよかったです』
「……ありがとうございます」
礼をしたところで後ろから押さえつけてやった。多少、癪に障ったらしく、無言でおれを振り払った。本当はその後掴みかかってぶん殴るぐらいは出来なきゃいけないと思う。あくまで、おれの意見。セレスタがちょっと笑った。
「で、ご家族の部屋を使っちゃって、いいのか?」
今度はより確かな目で頷いた。
「本当はもう使わないって分かってるんです。父母がここに帰ってくることはきっとありません。分かってるんです。だったら、もっと実質的に使おうと思いました」
「実質的?」
「今居る人の為に」
優しいと、困る。
「……いいの?」
「貴方達さえ良ければ」
「住み着くぜ?」
「僕は構いません」
「一生おまえの背後にまとわりついて、搾取できるものは全部取るし、居着くし、好き放題するし」
「その分働いて貰えるのなら」
互いに全く冗談を含んでいない。
優しくされるのが怖かった。自分が普通じゃないことを忘れそうになる。おれは路上で朽ち果てるべきだった。あの時に。
見えないとは分かっていても頷いた。
「正直ソファで本当に十分なんだけどさ」
「自由にして下さい」
「おまえはそれでいいのか?」
「それでいいと思っています」
造作なく言ってしまう。そういうのは悲しい。
悲しい? 甘えているのは自分の癖に。
「おまえ、もっと自分のこと、大事にしろよ」
口を付いて出たのはなんて力無い台詞。
「……貴方こそ」
……見破られてるし。
しょうがない笑いが零れてくる。バレないように笑う。でも何故かバレている気がする。そしてバレることが普通なのだと思い出す。
「風呂入ってくる」と立ち上がった。
「僕達も行きますか」と帆来くんとセレスタ。
「どこに?」
「公開入浴」
「……止めろよな?」
「する訳ないじゃないですか、気持ち悪い」
『気持ち悪い』
「あ、なんか逆に傷ついた」
こうして今日も甘えて過ごす。
もう誰かにすがらなくては生きていけないって知っている。自分ひとりで生きていけない自分はもう生き物じゃないのかもしれない。
でもいつか恩を返せたらいいなと、全くの夢想だけど考えている。
だからとりあえず生きることを決めた。今はまだこのまま。