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これは物語ではない  作者: 山川 夜高
act.2 Day&Dream
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voice

 放課後、教室に二人の生徒が残っている。教室掃除の班だった。本来はもっと人数がいるはずなのだが、みんな部活やバイトで散ってしまい、結局ここには男子一人と女子一人。


「マジだるい」


 女子生徒が箒を手に嘆いた。つやのある黒髪の短髪だが、髪型は左右非対象でエキセントリックな印象を受ける。性格もさばさばとした方で、“よくある”女子高生とは一線を画していた。


「なんでホズミしかいないんだよ」


と言われ、黒板清掃をしていた男子は顔をしかめた。


「荻原に言われたくねえよ」

「あたしだってホズミに言われたくないし」

「つーか、荻原仕事しろ」

「やってる」


 荻原というその女子高生は大げさなため息をついた。ピロティからチア部の練習が聴こえてくる。彼らは二人とも帰宅部だったが、


「あたしだって帰宅部インターハイに向けて頑張んなきゃいけないのに」

「……はぁ?」

「いかに帰宅路を有意義に寄り道しながら帰るか。帰宅部の活動。今日は活動日だからとっとと寄り道したい」


 二人とも雑な割に手は遅かった。すこし蒸し暑い教室で、残された二人はぼやいていた。「青木先生、筆圧強くて、蛍光チョークが消えないんだが」

「ほんと青木さんの筆圧何とかしてくれないかなあ。授業中もチョークめっちゃ折れてるし。板書雑だし。

 あーあ糸川先生ならこんなことなんないのに」

「荻原、まだ糸川先生好きなのか」

「あたし糸川先生の嫁になるから」


 荻原は窓を開けはなって風をあびた。制服のスカートが空気をはらんでふくれた。カーテンがゆるやかなリズムの深呼吸を打っている。同じく開いた教室のドアへ、室内を循環して吹き抜けてゆく。そろそろ毎日暑くなってきたから、この風は心地よい。


「糸川先生超かっこいいじゃん。ロマンスグレー、紳士! って感じ」

「でもそれつまりオッサンじゃん」

「オジサマです」

「はいはい」


 ホズミは荻原の趣味をかいま見た。分かるけど、分からないな、と苦笑した。ホズミの知る限りでは、荻原の嗜好は変化していない。年上趣味なのである。

 そうそう、と荻原が切り出した。


「読書課題やった?」

「ああ、一応、昨日に読み終わった」

「本当?」


 荻原の一言にホズミはどこかぎくりとした。


「あたしまだ読んでないから」

「まじで? やばくね」

「だから今日はやく帰宅部してブックオフ寄って買おうと思ってたから、正直掃除とかしてる暇ない。あたし最初図書室で借りようって思ってたんだけど、全部貸し出し中だったし」

「そりゃみんな借りて済ますよ」

「ブックオフにも無かったらどうしよう。

 だからホズミ、読み終わってるなら貸してよ」


 彼の嫌な予感は的中した。やっぱり、とも思った。荻原は訝しんだ。


「もしかして、貸したくない」

「いや、そうじゃないけど」

「あたし自分の持ち物はきたないけど、他人の物は絶対汚さないよ」


 それは真実だった。ホズミは頷いた。


「イヤ、読み終わったんだけど……」

「まだ書いてない?」


 ホズミは言い渋る。しかし荻原の追求からは逃れられそうにないし、特別自分に負い目がある訳でもない。彼は、もういいや、と呟いた。


「……本をなくした」

「……はあーっ?」


 荻原の視線が刺さった。やっぱり、そういう反応だよ。ホズミは何かを諦める心地だった。どうにでもなれとも思っている。


「家の中で?」

「……外」

「なんで?」

「外で読んでたら、たぶん置いてきたっぽい」

「なんで外で読むの?」

「……読みたかったから?」

「いつ?」

「日曜の、朝。五時ぐらい」

「なんで?」

「……読みたかったから?」


 荻原は突如として黙りこみ、箒をロッカーに戻すと、つかつかとホズミの方へ歩み寄った。

 笑ってるのか怒ってるのか無表情なのか、ホズミは荻原を形容出来なかった。


「ホズミってさ」


 真面目なのか冗談なのかも分からない。


「……ロマンチストでしょ?」


 そう言われると笑うことも怒ることも恥じることも出来なかった。いったい荻原はどういう顔をしているのだろう。いったい自分は荻原にどう見えているのだろう。ホズミは

「……知ってる」

と、力なくぐにゃぐにゃに頷いた。

 はじめて荻原は笑った。吹き出すようだった。晴れやかでもあった。


「変わんないよなー。ホズミんのロマンチスト」

「荻原だって、年上好きとか変わんないだろ。おまえ、ミナトさんに初恋……」

「ちょ、うるさいっ! ホズミだって中一の時占星術にはまって……」

「ばっ馬鹿やめろ! そうだよロマンチストだよどうせ!」

「知ってるし!」


 言い争いが結局楽しいことを彼らは分かっている。


「……ホズミ、まだオカルトやってんの?」

「まだやってるよ、全然」

「今は何やってる?」

「……幽霊、調べてる」

「ふうん」

「でも、荻原、幽霊信じてないだろ」

「あたし科学的なので」

「そうか?」

「ねえ、もうそろそろ帰らない? あたしはブックオフ行くし、ホズミんも、本探すんでしょ」


 いつの間にか荻原は鞄をまとめていた。ホズミも黒板消しを置いた。

 帰るか、とホズミは鞄を背負った。黒板にはチョークの残り粉でまだ白くくすんだ所がある。サボりと妥協の結果だった。よく見れば壁際にほこりの吹き溜まりがある。教室の清掃は中途半端に終わった。掃除係二人は、久しぶりにC駅までの帰路をともにした。


  * * *


 鞄の整頓をしていると、底の方で異質な物を発見した。引っ張り出すと長さ十センチ強の電子機器で、同時に思い出した。ボイスレコーダーを入れたままにしていた。

 数週間前に録音したそのデータを、彼は未だに再生していなかった。盗撮した対象が家に居着いたために室内での再生は出来なかったし、翌日になって他人の会話を録音したことが馬鹿馬鹿しくなり、数日間、再生する気にならなかった。更に今に至るまではレコーダーの存在自体が忘却の彼方だった。

 それが思い出したようにここにある。

 ここは研究室。彼を除いて誰も居ない。

 ただし「誰も居ない」ということが非常に不確定、不安定の上で成立していることを彼はいたく学習していた。でもここは本当の意味で誰も居ない。あと数時間は誰も来ない。

 盗撮行為への後ろめたさを思い出しながらも、彼は電源をいれて再生ボタンを押した。イヤホンを所持していないことが悔やまれた。ひっそりとあの日の記録が再生される。


 ノイズ。

 自身の歩行。走る車の音。聞き流していると、雑音の中ふいに男の声。


『……ちゃんはわざわざ……たんだ……覚悟は、出来……』


 その場に居た彼は展開を知っている。そろそろか、と構える。現場の不快さを思い出す。音量は最低にして、聴こえるか聴こえないかを聞き耳立てていた。

 間。聴こえないが男は尻餅をついた。怒りに声が上がる。


『……大人を蹴ろうだなんて、いい度胸してんなァ? そんなに思い知らされたいのかよ?』


 ノイズの中に、間。うわずる男の声。


『……こそこそしやがって、隠れてないで出てこい!』


 その瞬間にうめき声。

 彼はふと違和感を覚える。この間にあった筈の言葉が聴こえない。マイクが遠いせいだろうか。


『……ま、まさか本当に、居るだなんて……』


 ガザッ、とマイクの側で大きな雑音。録音者の動作である。


『先程までの貴方の行動は全て、証拠として録画しました』

と言った自分の声が意外と大きく、ボイスレコーダー越しで普段と感じが違うことに、彼は二重の不快を覚えた。


『この映像を僕が警察に提供するか、今自首するか。……僕は自首を勧めます』

と言うと、

『ぽ、ポタージュ様ぁぁ!』

と、あの時の不審者は逃げ出した。彼と後の居候二人はそのまま公園に残る。男の記憶では、ザムザの会話が始まる。少々の空白の後、聞こえたのは自分の台詞。


『……何とかなることでしょう。

 それよりも、貴方こそ立派な暴行ですが』


 ザムザの声が続かない。やはり、おかしい、と男は気付いた。自分はもう公園の中央に居て、マイクで彼の声は拾える筈だ。なのになぜか、彼の言葉は空白だった。背後に風や車のノイズがする、しかし彼の語りはそこだけ音声を抜き取られたように、ぽっかり穴が空いていた。


『初めからしていませんよ、すべてフェイクです』


 ここで会話は区切られ、ザムザはしゃがみこんでいたセレスタに声を掛ける。

 その間、レコーダー上ではすべてが空白だった。一人ははじめから喋らず、もう一人はことばすら認知されないらしい。男自身の声だけが断続的に聴こえ続けた。つまりはそこで起こった事の三分の一しか録音されてなく、これを会話と呼んでいいのか疑わしい。端から見れば延々と録音された独り言だった。

 まるで徒労だ、と男は思った。

 諦める心地で男は電源を切り、また鞄の奥底へ押しやった。


 call.

 携帯にバイブレーション。

 発信者名は「c」。コードネームのようだと思った。彼女の携帯からの発信はリズムを変えてそれと分かるようにしていた。

「はい」

「もしもし?」

 発信者の名前と実はいつも違う。名義は少女、電話に出るのは男声。

「どうしましたか」

「セレスタが、うちに本はあるか、って」

 “うち”と呼ばれたことに今更驚くが、今更驚かない。

「電話台の横の扉。閉まってると思いますけど、そこが物置になってる書斎です」

「書斎?」

「本棚に積んであります」

「……あ、ほんとだ。かなり有るな」

「ところで、何の本なんですか」

 と言うと、電波の向こうの男は一瞬詰まり、

「……カフカだそうで」

 男の言わんとすることは分かった。

「あります」

「セレスタに代わってもいい? 直接言った方が分かりやすいんじゃないか」

 セレスタさんが? と、驚いたが、「そいじゃ、代わります」と向こうの男は少女に代わった。らしい。少女は喋らない。

「セレスタさん? 代わりましたか」

 反応は無い。

「代わってるよ」と遠くから男の声。さてどうやって会話をするかと思索する。

「『変身』ですか」

 答えは無いがたぶん正解、と彼は確信した。

「恐らく左側の棚にあります。文庫本です。その部屋の物は自由に使って下さい。物置なんです」

 頷く気配だけでも感じ取りたい。

「ついでに『透明人間』もあります」

 パチンと指を鳴らす音が聞こえた。肯定を示すことは十分に分かったが、

「おい」

と唐突に男の声。帆来くんは顔をしかめ、

「いつから居たんですか」

「はじめから、スピーカーフォン」

「貴方への信用を無くしました」

「信用してたんだ?」

「ゼロからマイナスへ下がりました」

「だってこうでもしないとお話が成立しないだろ?」

 パチン、とセレスタの相槌。

「という訳で、『お借りしますありがとう』とのことです」

 まるでお便りを読み上げるラジオ・パーソナリティ。小さな声でも発声が良く、聞き取りやすさは抜群だった。彼の声は、姿が見えないことへのハンデだろうか。

「了解しました」

「じゃあ」と向こうが切ろうとしたのを、

「待って下さい」引き留めた。

「……なに?」

「電話は、聞こえるんですね」

「……確かに」

 ボイスレコーダーはどうですか、と直球には言わない。言える訳が無い。ハンデだとしたらなぜ電話は出来て録音は出来ないのか。

 何なんだろう? 想像に思考が及ばない。

 ただ一つ言えるのは、

「電話口だと、」

「貴方はとても自然です」

 それが彼の実感だった。

「……そうだなあ」

 電話の向こうの男も同じ実感を抱いていた。

「買う物はありますか」

「いや……足りてる……あ、セレスタが、ジンジャーエールって」

「分かりました」

「じゃ、また」

「切ります」

「はーい」


 通話時間を見て、予想以上の長電話だったことに気がついた。

 結局あまり片づいていない鞄を眺めた。隠していたレコーダーは荷物の一番上に露わになり、彼はそれを縦に奥へと押しやった。

 施錠して帰らなければならない。だというのに鍵はまだ鞄の中に眠っている。作業効率が悪い。

 伝えるべきだろうか。ザムザに。あるいはセレスタに。自分が知った事実を。でもきっとそんなに急ぐことでは無い筈だし、本人だって既に知っているかもしれない。

 やっと捜し当てた鍵を指でつまんで弄んでみた。勝手に作られた合鍵を思い出した。


  * * *


 電話口だと、貴方はとても自然です。


 なんて言われた為に、彼はなんとも言えない気分になっていた。根本的な解決には繋がらないが、見えないことが支障なのだから、初めから声だけとして在るなら違和感は何も無い。

「確かにねえ」と、見えない男は反芻した。

「なにも問題じゃない」

 男は少女の携帯を握ったまま、カウチの定位置に腰掛けていた。

 では何が問題なのか? 男は思考を巡らせた。彼はわずかに希望を抱いていた。声には問題は無い、と暫定的に結論付けた。


 二冊の文庫本を小脇に抱えて少女はリビングに帰ってきた。カウチの隣のダイニングテーブルに腰掛ける。椅子は四つ。明るい木目調。

 広い家だった。一人暮らしでは持て余すような、三四人の家族で暮らしよい間取りだ。これだけの広さのお陰で今の日々が成立しているのだが、やはりこの広さは不自然だった。前にも誰かが住んでいたのかもしれない、と勝手に憶測を立てた。

 家族が暮らせる3DKがある。そんな物件を買うのは、これから家族になるであろう男女二人。しかし今、ここに暮らしているのは男が一人。

 ……あれ、それって。

 空想がよからぬ方向へ向かってしまった。とりあえず、詳細は訊かないに限る、と、存在するであろう深い事情には目を瞑った。


「携帯、こっち置いとく」


 少女は本の表紙から目を上げて、唇だけで『ありがとう』と言った。男も『どういたしまして』と返したが、言ったあとで「そっか、見えないんだった」と自分の身体を思い出した。彼は立ち上がりキッチンへ向かった。

「なにか、飲み物いる?」

 グラスを二つ出した。少女はサイレントで短い単語を発する。二文字の連想ゲームをする。

「お茶?」

 頷いた。

「麦茶でいいかな」

 頷いた。

「氷は?」

 頷いた。

 だから氷を三ついれた麦茶を二杯。ダイニングテーブルに置いて、男は少女の斜め向かいに座った。声に出さない『ありがとう』を受け取った。二冊の本のうち、少女は『変身』を手に取った。


「読書課題?」

 頷いた。

「大変だねぇ」

 より深刻に頷いた。冒頭から飽きちゃった、というような顔もちだった。彼女は傍らのノートに彼女の丸文字で書いた。


『読みにくいです』

「まあ、古い本だから」


 それをセレスタは否定した。口元にペンを当てて、何を言おうか思考している。少し言いにくそうだった。書きにくいと呼んだ方が適切かもしれない。彼女はふきだしを一つ、『読みにくいです』の前に描いた。


『あなたが思いうかんでしまって』読みにくいです。


 そんなことを言われても。ザムザは苦笑を禁じえなかったが、声を殺した笑いだったからセレスタには分からない。


「そればっかりはどうしようもないっていうか」

『虫』? と彼女は首をかしげる。あなたは虫?

「ちがうよ。たぶん、同姓同名。おれはこっち」

 彼はもう一冊を宙に浮かせた。『透明人間』。

 読んだことないよと彼女は首を振った。

「おれも無いよ」

 ぱらぱらとめくってみたページはみな日に焼けて黄変していた。物置と呼ばれた書斎にあるのは老いた本ばかりだった。

 少女は活字よりも、透明人間の手で遊ばれる『透明人間』をまじまじと見つめていた。男は視線に気付いて肩をすくめ、

「楽しい?」

『見あきない』「おれはもう飽きちゃったよ」

 彼女は、初対面の時のようにきょとんと透明人間を見た。

『つまらない?』透明な生活は。

「みんなが思うほど面白いものじゃない」

 男は本を閉じた。

「羨ましいものでもないし」

 セレスタのペンを一本取り、右手でくるりと回旋させた。彼女はそれをよろこんで見た。

『うまい』『とてもきれい』

「そう言われると悪い気はしないけどね」

 無言ではあるけど彼女は表情豊かで、彼女が透明人間に飽きないのと同じくらいに、彼にとって喋らぬ少女は飽きない存在だった。

 彼は同居人二人を愛した。同時に彼らを案じていた。

 他人を心配する余裕が出来た。


 傷つけることになるかもしれないからと、なるべくやわらかいことばを努力した。でも切り口の苦さは避けられなかった。


「つらくない?」

 唐突にそう問われて、少女は「?」を浮かべる。

「しゃべれないこと」

 しゃべらない、かも知れなかった。

 少女のペンは黙り込んだ。描かれるのは文字ではなくくるくるに戸惑ういたずら書き。それに目が生えた。虫になった。

「気を悪くしたなら、ごめん。気にしないでくれ」

 少女は驚いて、そんなことない、と首を振った。ページのすみに『大丈夫』と走り書いた。

 私は大丈夫。

「大丈夫?」

 彼女はにっこりほほえみ頷いた。大丈夫なんです。

『私は、』

 机に伏せた睫。

『今おはなしできてます たのしいです

 テンポがわるいけどぜんぜん大丈夫です。

 ありがとう』

 ノートを反転させ、ザムザに向けてほほえんだ。

「……そっか。

 ならいいんだ。ありがとう」

 彼も笑いかけた。


 吐息を一つして、男は口を開いた。

「喋らないでいるとさ、結構つらくなった」

 彼女はペンを持たずに聞いていた。男はあくまでもらくな口調だった。本当に笑っていたのだ。今となっては。


「こんなだからさ、しばらく誰とも会話しない時があって」

「その時は二ヶ月くらい喋らなかったのかな」

「人に話しかけても、本当に見ないフリされたり、たまに悲鳴あげられたりで」

「誰にも話しかけられないから、街のすみっこの所を人にぶつからないように歩いて、たまにCD屋とか図書館のすみっこにいたりして」

「食事が一番困ったけど、これは聞かない方がいい」

「出来ることがなくてずっと歩いていた。そのうち誰か気付いてくれるって思ってたけど全然駄目だった」

「……って感じで、まったく喋らない生活を何ヶ月か続けてたんだよ」


「で、そうやって話さないままでいるとさ。気が付くと、話せなくなってたんだよね」


「自分の声に対して違和感しか感じなくなって。ことばも思いつかなくなって。喋りたいことが喋れなかった。とっさに物が言えなくなった」

「あと、頭の中で考えてることも、なぜか文章として出てくるんだ。口語じゃなくって、小説みたいな文章で思考してるんだよ」

「どんどん変になっていった」

「やばいなーって思った」

「このままじゃ戻れなくなるな、って」


「だから昔覚えたことばとか、台詞とか、歌とか、ひとりでずーっと口に出すようにした」

「とにかく誰かへ話さなきゃ駄目だって思った」

「街中で、だよ」

「だってほかに場所もないし」

「ついでに気付いて貰えないかな……ってね」


「……で、今ココ」

 男は机をかるく叩いた。そして多分笑みを見せた。

 最後の軽い口調に少女は安心した。


『大丈夫だった?』

「うん、おれはもう大丈夫」


「だから、まあ、こういう経験があるからね。君が喋らないのが心配だったんだ」

 頷いた。

『気をつける』

「出来る限りでね」

 そう言って、すっかり氷が溶けてしまった麦茶を飲み干した。

「おれも出来る限り力になるよ」


 少女は再び課題図書のページを開いた。男ももう一冊を手に取った。互いに読書に耽りはじめた。部屋はずっと静かだった。

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