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これは物語ではない  作者: 山川 夜高
act.2 Day&Dream
10/76

Good Morning

 夢を見た。やけに現実味を帯びていて、目覚めてはじめてこれが夢だったと気付いた。気付いたはいいものの、内容については一切を思い出せない。よい夢か悪い夢かも手応えが無い。携帯のディスプレイを見ると4時半。一瞬夕方と見間違えたが、そうではない、朝だ。ただしあまりにも早朝だった。昨晩眠りに就いたのは1時だったというのに、今日は日曜日だと言うのに、どうしてこんな時刻に起きてしまったのか。とにかく一度目覚めてしまったものは仕方なく、アラームを止めて布団を出た。僕は二度寝が出来ない。身体は睡眠を欲しているだろうけど、目は冴え冴えとして得るべき睡眠を認めなかった。カーテンを開けると外は夕暮れのように暗かった。日の出前だもんなと思う。外にも内にも何も気配はなく、寝静まるということばが似合っていた。


 ふと、夢の断片を思い出した。ような気がした。

 女性に抱きついて泣いていた。薄闇の中だった。


 フロイトが喜びそうな話だが著書も解説書も別に読んだ事は無く全くの偏見だ。しかし夢の中の時刻と現在はちょうど同じだと気付く。日暮れか夜明けの青い暗がりの中だったから。

 時刻とともに場所も思い出せないものかと考える。思い出せない。舞台は、外、中、どちらでもよかった。相手の顔も分からない。

 所詮は夢だから無駄な詮索は止めることにする。こうしている間にも断片はどんどん消えていく。夢は啓示でも何でもない、と割り切り考察を遮断した。さてと今行うことを考える。面倒くさいのでもう着替えてしまう。そしてメールチェックをするが返信はなかった。彼女はまだ寝てるんだろうなあと思う(彼女は僕のカノジョではない)。


 とにかく部屋着は脱いでしまったからなにか活動しなければと思いはじめる。しかし家族もまだ寝てるだろうに、何をすればいいんだろう。携帯で天気予報を見ると最高26℃で一日中快晴。少し暑くなる。ついでに掲示板を見るが進展は一切なく、ネタとグダグダのまま終了し、悪霊の話題は完全に失われていた。彼女は多分もうそこには現れない。


 携帯を戻すと、机の上の読みかけの課題図書の、目と、目が合った。本の表紙に人の顔を起用するのはいかがなものか。ましてや真顔。その表情には指さして笑える所が一つもない。真面目でありふれた顔立ちだった。もし朝のC駅で出会っても何も違和感無い。事実外人はありふれている。

 ある朝男が商社のスーツに身を包み僕を訪ねる。こんにちは、私はこういう者ですと名刺を差し出す。

 受け取ると、そこにはカフカとある。


 かくのごとき課題図書の〆切は今週末。読了後、証明のために要約文を提出しなければいけない。すでに88ページ(本全体の三分の二)まで読んでいるから造作ないのだけれど。


 家に居てもやることなんて高が知れていて、日はまだ昇っていないのに僕はすでに退屈していた。今僕にたのしく出来ることを考える。四畳半の自室は朝をもてあますためにはひどく狭い。外はさっきよりも明るみはじめ、比較的明るい紺色だった。望まなかったにせよ、早起きしてしまったのだから、この時間を有意義には過ごせなくてもせめて浪費はしたくない。何とかならないかと窓の外を見ている。真下に団地の駐車場が見える。そしてふと思った。


 そういえば。

 最近、崖へ行っていない。


 思えば小学生の時以来崖を訪れていない。中学も駅も坂の下だから坂を登ることもなくなった。そして崖へ行くためにかつて早起きしてまでしていたことも忘れていた。今の僕は完全に夜型。


 日の出を見に行こう。


 なんとなく脳裏が晴れわたる様を感じた。宇宙の晴れ上がりを想起する。右ポケットに鍵と携帯を入れ、左ポケットに課題図書をむりやりつめこんだ。家族を起こさないよう出来る限り静かに戸を閉めて、僕は早朝の街へ歩み出た。空気の冷やかさに僕は驚いた。ここはまだ夜の延長なんだと実感する。目指す坂まで十分の散歩。心持は夜よりずっと健康だ。


 見上げると頭上には雲ひとつかかっていなかった。僕はかすかに興奮している。思考は晴れて透明になった。


  * * *


 まどろみの中もう夜明けが近いことに気付く。目を開ける気はしない。時間を確かめる気もしない。けれども瞼の向こうが青みはじめている。屋根無しの生活は自然と太陽に鋭敏になる。それは今日明日の気候が命取りの生活だから。さいわい今の季節は昼も夜も過ごし良い。……寝返りでもうちたい気分だ。背中が硬い。しかしおれが居るこのベンチには寝返りうつ程幅の余裕は無い。寝る為に設計されていないからだ。妥協して腕の位置をかえ目を塞ぐ格好をとる。自作の暗がりにほのかな安心を覚える。とにかくもうひと眠りしていたい。わずかな温もりに甘んじていたい。せめて六時までは「ホ――、ホケキョ。」……屋根無しの生活は寛大だ。そもそも侵入者の概念が無い。鳥のさえずりを聴いて目覚めるとは、風流と言えば風流だ。疲れ切った現代社会にいかがですか。鳥の声で目覚めるとはロマンチッ「ホ――、ケキョッ。」……うるさいな。朝っぱらから。こっちはまだ眠いんだ。ちょっと向こうに行ってくれな「ホ――――、ホケキョ。」「ツツピーツツピーツツピー」「ピィ――ヨ、ヂュンヂュン」お前別の鳥だろ。便乗しやがって、今何時だと思って「ホ――、ホケキョッ。」……今何時だと思っ「ケキョケキョケキョケキョケキョケキョケキョケキョ……」


「――う、うるせえぇ!!」


 とうとう怒鳴り散らして目が覚める。ただどんなに怒り心頭に発してもお話の通じる相手ではない。しかしそれにしても近所迷惑(ただし、その点に関して自分を棚に上げることはできない)。

「ホ――、ホケキョ。」

少し遠くへ飛んでいったらしい。姿は見えない。さっきまで、恐らく、ベンチに寝ているおれには気付かず、ほとんど耳元で騒いでいったのだろう。鳥にさえ気付かれないのかと思うと何か不健全な一人笑いがこぼれてくる。言いようも無く生ぬるいやるせなさに苛まれる。仕方なさというのは本当に仕方ない。

 ベンチから身体を起こし伸びをする。ついでに両手を空にかざし、いつも通りであることを確認する。その手で腕、膝、首筋から顔にかけて触り、脈拍とか体温、自分の姿を確かめ、深呼吸する。普通。普通ではないのにいたって普通だ。これではじめて安心する。まだ、自分は存在している。ここまで朝の動作を済ませてしまうともう眠る気にはなれない。

 空は紺色に変わりはじめているものの街灯はまだ灯り薄暗い。肌寒いし夜と言って通じる時刻だ。鳥自体はだいたいこの位から鳴き始めるけれど、こんなにうるさいのは今日が初めてだった。

「ホ――、ホケキョ。」

 まだ鳴いている。交番の方に移ったのかな。

「ホ――、ホケキョ。

 ケキョケキョケキョケキョケキョケキョケキョケキョ……。」

 よく息が続くものだと思う。それと、早朝はボリュームを一つ落とすといい。

「ホ――、ケキョ。」

 これほどの大音響なのに姿はまるで見えない。声ばかり聴こえる。それが少し気になり、ただ単純に姿を見てみたいを思った。(できることなら、とっちめたい。)公園を出て声を追ってみることにした。こういうことが前にもあった気がする。小さく咳払いして声を整え、夜明けの街へ、歩いて行く。


  * * *


 久々に昇る崖への坂は、思い出の中よりも急斜で予想よりも僕を疲れさせた。軽く汗ばむ。体力低下が著しい……やっぱり運動部に入るべきだった。遠く、おそらく坂の下から、ウグイスの声がする。他にも色々鳴いている。こんな早朝にも鳥が起きているとは知らなかった。


 坂といっても崖まで一本の道が通じている訳ではない。ここを登りきると踊り場のような坂の突き当たりに出る。そこが住宅街の終わりで、先は林めいた遊歩道に続いている。僕の住む団地は踊り場までの坂の中腹に建っている。この坂を下ると派出所があり、その角を曲がると、例の、公園がある。そう、僕は当事者と言っていい距離に住んでいる。だから一連の事件については人よりも詳しい方だと思う。


 世の中の、ほとんどの怪談は匿名の上で語られる。知人の知人による体験とか遠方での出来事、だから物語としての距離は保たれている。だがこの出来事は僕の眼下で起こる事実である。僕は、というと、まだそれに出会いたくない。これ程までに隣合わせの出来事だと、もはや怪談とは呼べないのではないか。怪談というのは、結局、聴いている自分と怪異は絶対に出会わないように出来ている。怪異自体がいくら凶悪だろうとその手が画面から伸びてくることは無い。

 しかし今、僕は"それ"と地続きに立っている。怪異は僕の徒歩圏で引き起こされている。現実だ。今僕は公園を少し避けている。


 ただ、"それ"と地続きに立っているからこそ、とも、画策しているところはある。あれが自爆霊かポルターガイストかイタズラなのか、それとも別の者かは知らない。しかし、それは確かに存在している。ここに立っている僕はそれが何であるか、解き明かすことは出来なくても、末端を掴むことは許されている。手を伸ばしつま先立ちになればそれは掴める。僕は単純に(恐れていながらも)それを知りたいと願っているだけだった。


 そして僕はたった一枚だけジョーカーを隠し持っている。

 彼女がこの出来事唯一の鍵。


 踊り場に着くとまたウグイスが鳴いた。日の出前に頂上に着きたくて足を速める。そろそろもう空が水色だ。手すりが錆びて赤茶けて溶けていた。汚いな、と思いつつも、僕はこれが少し好きだった。独特の湿気が僕をつつむ。道の脇にマムシに注意の看板が立っていて少し笑った。意外にもたくさんの気配を感じた。足元でガサッと物音がして見るとカナヘビの尾が覗いていたりする。あいかわらずウグイスが聴こえる。よく息が続くものだと思う。他にもたくさん鳴いている。驚くほど。スズメとかカラスとか。いっそ鳥しか聴こえない位だった。そして、頂上にたどり着く。


 簡素な、やはり錆びた柵が立っているだけで、他には何も無い。広場めいてはいるもののせいぜいカードゲームの広さである。柵も膝位の高さだからすぐ乗り越えられる。乗り越えた先にあるのが、コンクリの硬い崖。その下に別の住宅街。落ちたら死ぬか死なないかあいまいな高さである。確実な自殺にはお勧めできない。

 日はまだ昇っていなかった。しかし、もう朝と言っていい位空は明るかった。市北の川まで見渡せた。旧地区に架かる隣町への橋にもう車が渡っているのを見た。ただ静かに僕だけがこの街を観ている。

 なぜ僕はこんな時間に起きているのだろう。今一度考えた。たったひとりここに立っていることがひどく不思議でさみしい。何もしないで僕は崖っぷちにつっ立っている。ただこの眺めを見続けている。身体が溶けて景色と同化していくような錯覚を起こす。ひどくばからしい空想だと分かっている。なのにこの空想のさみしさが僕になじんで心地よい。そして空想が僕になじむこと自体がひどくさみしい。僕の妄想癖については薄々気付いていたけれど、ここまでさびしいとは思っていなかった。


 東の高層ビルディングのすき間を、薄桃色の光がぬっている。光の帯。あたらしい予感を感じ僕はじっと光を見つめる。ちょうどそのスリットの合間から、顔を出した。朱い光。


 朝日。


  * * *


 早々に見失った。戦意も喪失。

 丁度交番の前に立っている。ずっとホーホケキョの声は聴こえているが、方角は完全に見失った。公園と言えば、で、あの男のことを思い出す。結局事態がどう収拾ついたのか、おれはあまり把握していない。明るみに出なければ何だっていいのだが、矛盾があると後々面倒くさい。そもそも事態がこんなに広がるとは予想だにしなかった。おれもうかつではあったけれど正直いまだに勝手が分からない。

 実は交番まで足を運んだのはこれが最初だった。だからその交番の向かい側に上り坂を発見したのも初めてだった。ゆるやかに蛇行し先が見えず、けっこう長い。暇つぶしには良いかもしれない、と上りはじめた。時間はありあまっている。馬鹿は高い所に上るということばが身にしみる。

 傾斜はまあまあにきつく長さもあった。両脇の樹木が葉を広げ右手には団地が並んでいる。やっぱり鳥がうるさいのは、木々が充実しているからだろう。駅前のビル街とは全然違うなと思う。雨上がりのような匂いがする。嫌いじゃない。

 ひとりで歩くときはいつも物思いに耽ってしまう。昔からの癖だった。歩行の、単純作業のリズムがそういう気にいざなわせる。たんたんと自分の歩調を聴き続ける。メトロノームを思い浮かべる。


 だいたい中腹辺りまで上ったところで、前方から向かってくる人影に気がついた。四十に満たない位の男で、こんな早朝から出勤と思われる。男は眠そうに腕時計を覗いてはあくびした。

 ご苦労様だと軽い気持ちで会釈した。男は全く一瞥もせず、ため息をつき歩調を速めた。要するに気付かれなかった。当然と言えば当然の結果だが、その時感じた冷徹なさみしさにはっと息を呑んだ。相手があいさつ返してくれることに期待していたんじゃない。路上ですれ違ったら会釈するのは全く普通のことなのに、それさえお前には不可能だ、と、改めて思い知らされる。その事実の、氷のような冷たさ。今日に限ったことではないからもう珍しくはないけれど、いつまで経っても慣れそうにない。それでもまだ声が残っているだけしあわせだったのかなあと思う。糸はギリギリの所でつながっている。という訳で多少かなしくも続きを上る。それ以上通行人に会うこともなかった。


 上りきると駐車場めいたコンクリ敷の空き地に出た。下の公園とかわらない広さだが、そこ以上に何もない。道は笹で茂った雑木林に伸び、更に上へと通じていた。足を進める。再びホーホケキョを聴いた。道はずっと日陰で湿っていたが、けして不快にはならなかった。街の裏手にこんな林があったのかと少々感嘆せざるを得ない。道脇の雑草の具合を見るとほとんど人が通らないようだった。久々の土の感触はたのしかった。鳥はあいかわらずさわがしく、背後をカラスの羽音がかすめて驚いた。

 そして頂上へたどり着く。そこは展望台めいた小さな広場だった。


 そこには先客がいた。年格好十六七の少年。セレスタと同い年と見える。まさかこんな朝方こんな場所に人がいるとは思っても見なかった。少年は、当然おれには気付かず、ずっと景色を眺めている。けっこうな高さと展望に驚いた。ずいぶんと上ったものだ。

 景色の向こう側はずっと平地で、川向こうの別の街とか、さらに向こうには山脈までうっすら見えた。空はもう水色だったけど、昼の青空より淡い色だった。

 きれいだ。早起きする価値ある風景だった。素晴らしい隠れ家。少年、センスいいよ、と陰ながら激励を送った。もちろん届かないし、それは構わない。彼がひとりでいるのを邪魔したくはない。


 少年から二三歩離れた辺りに立った。足下にはいささか頼りない柵が立っている。足を掛けて靴紐を結ぶのにちょうど良さそうだった。言い換えれば単に危ない。落ちたら死ぬかなと一瞬考えが過ぎったが、すっ転がって全身骨折が関の山だろう。苦しいのは避けたい。だいたい病院にかかれない身なのだから怪我も病気もおそろしい。


 少年も何だか白い顔で病弱な印象だった。小柄で顔も細面、と、顔を堂々と観察してみる。こういう図々しさが透明人間の利点だと思っている。おれが黙っている限り相手には永久に認識されない。気付かれないと分かっているからやましさも次第に薄れていく。


 東の方が白みはじめる。おれも彼も黙りこくる。同じようなことを思いながら同じ景色を見ている気がする。いや違う、それは、そうだったらいいなあという只のねがい。

 結局おれは諦めきれずにいる。今でも願い、あがいている。まるで叶いそうにない。けれども永遠に捨てきれそうにない。そして永遠というのがいつまで続くのか、まるで予想がつかない。いつまで、なんて永遠に知りたくないとも願っている。永遠の中に閉じ込められている。それは箱というより、四方に迫り立つ巨大な壁。かろうじて天窓が開いている。あれが閉まるときが本当のおしまいなんだと思う。おしまいがそんなにかなしいとは思わない。だって今の方が色々かなしい。


 気付けば、東のビル街の上空、そこだけが特別明るみを帯びていた。きっとその真下に太陽がある。妙に静まった心地でそれを見据えている。耳に聴くのはさっきから鳥ばかりだった。人は少年とおれしかいない……おれを、人と数えていいのかな?


 光は暖色を帯びてふるえている。にわかにビル群の隙間から、光の塊が現れる。

 朱い光。


  * * *


 炉から出したばかりの鋼のようだった。

 朱々とした小さな光が波間のようにゆらめいていた。


 光はじょじょに上昇して、地平の向こうからだんだんと円型をかたちづくる。

 まばゆさも増してゆく。

 鳥はざわめき、声をあげつづける。開演前の客席のようだった。一つのベクトルへ向かう混沌。

 ひとの気配がしない。あんなにさわがしかった機械の街も今だけは眠りに就いている。


 剣山のように空へ伸び続ける途方もない街並み。スリットを一筋の光が差す。見下ろす光。はじめの朱さはもはや嘘のようだった。日はすでに金色にあふれた全円の光の単結晶。


 瞳孔を焦がす金色の光。

 眩すぎるまんまるの光。

 太陽は大きなスポットライトだった。


 加法混色の円い影が網膜に灼けつきはなれない。耐えきれずに眼を伏せる。緑と紫が視界のあとをちかちかと追いかけた。


 息がまだ白くて密かに驚く。今更寒さと空腹を思い出す。


 足元の雑草も光に照らされている。そのつめたさにふと気が付く。ほのかに濡れている。わきあがるそよ風と寒さの正体を知る。


 葉に、朝露がおりていた。


 その一つ一つをスポットライトが差して、橙や紫の光がさざめいていた。葉はみんな金色の光子をまとっていた。


 夕焼けよりもずっと静かな光景だった。

 人々はまだ眠りに就き、辺りには鳥の声ばかりする。人間はどこへ行ってしまったんだろう。


 何でこんなことしてるんだろうとバカらしくなる。そんなに奇跡的なことではない。「日が昇った」ただそれだけのお話。


 なのにどうして、たった独りで、立ち尽くしているのだろう。


 目の前で夜は明けた。一瞬の出来事だった。めくるめく速度で夜闇は藍に青に白に朱に変貌し、燃えさかる鋼は冴え冴えと視界を刺すピンライトだった。

 今もなお焦げついている緑と紫の影。容赦なく眩いスポットライト。瞳が灼かれる。

 けれども、どんなに眼を伏せても眼を逸らすことはできない。太陽はこの街をみんな照らした。


 それはあまりにもきれいだった。


  * * *


 こうして夜が明けた。

 一体こんなに早いものだっけと少し奇妙に思っている。さっきまであんなに暗かったのに、今はもうこんなに明るい。

 僕が見ている目の前で夜は朝になった。僕はことばを失っていた。頭がぼんやり浮いているなか、目だけが眩しさにチカチカしていた。わずかに空腹感、それと、乾いた汗で背中が寒い。薄着で来たことを後悔した。ポケットに手を突っ込んで暖をとろうとして、その中身の硬い違和感に気付いた。それが何であるか今更思い出した。


 カフカ。忘れていた。


 なぜ持って来たんだっけ。今朝目が合ったからだった。朝日の待ち時間にと持って来たが、実際待ち時間なんてものは無かった。でも持って来たものは今読むべきなのかも知れない。どうせあと三分の一だし、上手くいけば今日中に課題を終わらせることも出来る。柵の内側に適当に腰を下ろした。朝露に少し濡れた。栞をはさんだ89ページ目を開いた。


 ――「さて」とグレーゴルは考えて、あたりの暗闇を見まわした。――


 ……。


 ……。


 それから11行で主人公あっけなく死亡。

 物語自体はそれから8ページ足らずで終了し、残りのページが何かというと作品と作者についての注。つまり本の四分の一は解説文だった。金返せと言いたい。百円くらいは解説代だったと思う。金返せ。


 主人公が死んでも家族は全く無頓着で清々したふうにさえ見えた。男の存在は完全になかったことになっていた。変身の理由とか顛末は何一つ明かされず、ひどい突っ掛かりを覚える。こんなんでいいのか。救いようのなさに僕は呆れる。

 とにかく多重の意味で拍子抜けしてしまった。さっきまでの空気のすがすがしさが、今少し苦々しい。


 突然足にやわらかいものが触った。

 僕はこわばりハッと足下を見た。


 ただの猫だった。僕にすりよっていただけだった。


 白地に黒ぶちで若い猫ではなさそうだった。尾をたてて僕の靴の上でしきりに体をすりよせていた。人慣れしてるんだなあと思った。猫に乗っかられていて僕は身動きがとれない。どうしたらいいのか分からない。猫とか動物を飼ったことがないというのもあるし、単純に少し苦手意識がある。

 猫はときどき僕を見上げて鳴いた。どうしろと言うのだろう。

 少しだけ親しみを持って僕は首元をなでた。白い毛はやわらかであたたかく、毛並みが指に気持ちよかった。でもなですぎると気に入らないのかナァと鳴き、その度に僕の指は止まった。おっかなびっくりだった。


 体をすり寄せてくる猫の胴に、何か異物が付いているのを発見した。直径10センチの、カサブタのような乾いたガムのような、異質なものが貼り付いていた。それから耳の傷にも気が付いた。少し赤い目にも。清潔で健常な猫ではなかった。一度気付いてしまうと違和感から目を離せなくなり、申し訳ないような一抹の不快感が生まれてきた。でもどうしてかこの猫を嫌いになりたくなかった。理由はどうあれ、猫は僕を好いてくれている。だからカサブタ付いた胴体はあまり見ないことにした。

 僕は白い首周りをひかえめになでた。これでいいのか、よくないのか、分からないけど。


 ……何なんだろう……


 ばく然と、ふと、考えてしまう。何に対して何なんだろうと思うのだろう。何なんだ一体。胸の寒さ。


 さっきから自分がどんどんズレていくようだ。自分の中の思い浮かぶことばに追いつけない。僕はこんなにロマンチストじゃなかったはずなのに、訳が分からない。だって、そもそも僕は、何でここにいるんだ。……。

 考えてもしょうがないのかな。猫のカサブタみたいに、気付かない方がよかった問題なのかもしれない。気付かなければもっと好きになれたのかもしれない。あるいは、気付かないふりをしていれば僕はもっと楽な気持ちでこの光景をたのしめたんだろう。

 あの公園についても同じことが言える。もしも誰も本物の怪異に気付かなかったとしたら、僕達はもっとたのしく恐怖を論じあえたに違いない。


 ずいぶん日も高くなった。そろそろ家族も起きてくる頃だと思う。外出が家族にばれたら面倒になりそうだ。

 少し強引に足をずらして猫をはがした。猫はなごりおしそうに一鳴きしたけど、これ以上かまっていたら僕にノミでも移るかもしれない。


 じゃあね。と僕は小さく手を振って猫と別れた。猫は少し追いかけて来たけど、二三歩歩いただけでまたしゃがみこんだ。目やにのついた瞳が僕を見た。

 また会えるだろうか。

 遠くない未来に会えそうな気がした。一方で永久に出会わないような気もした。どちらともとれない、でも、もしも次に会ったら、またこの猫を好こうと決めた。


 僕はちょっと笑い返した。そして崖を足早に下りた。


  * * *


 こうして改まった形で夜明けを見届けたのは久しぶりだった。

 ただ見ているとあっという間の出来事だった。考える暇もなかった。でもまだ光が網膜に残っている。緑と紫で視界が眩しい。


 街は活動を始めて、眼下に人影も現れはじめた。橋を電車が渡って行くのが見えた。すっかり朝だ。今更ながら空腹感を覚える。時々一日一食の日とか、絶食の日もあったけれど、公園の一件以来酒と肴を定期的にもらうようになり、最近はそこまで凄惨ではない。おれには相当悪運がついているらしい。


 隣の少年はいつの間にか読書しはじめていた。おれひとり暇を持てあましている。もう帰ってしまおうかと思ったけれど、下にいてもやはりすること無いし、今から家に押し行ってもまだ寝てるだろうし、無理に起こしたら怒って閉め出されて出入り禁止になりそうだ。彼ならやりかねない、と思うと笑える。あいつと仲良くなったことも(おれは仲良いと思ってるよ)よかったと思っている。今の所事態は好転こそしていないけど、絶対に最悪という訳ではない。

 ゆったりと風景を眺め空腹感をまぎらわせる。七時八時位にお邪魔すればいいだろう。


 ニャウ、と、小声が聴こえた。振り返ると林の下から猫が来ていた。黒ぶちの入った白猫だった。公園では見たことない。もともとここをなわばりにしているのか、まっすぐ歩いてくる。足取りは少年に向かっているけど少年は読書中で気付かない。


 ふと思いついて猫の邪魔に入ってみることにした。猫の動線の上にわざと立ってみた。猫はおれにぶつかるだろうか?


 結果。まっすぐ進んでた猫は何食わぬ顔で迂回し、おれにはぶつからなかった。おれを認知したのか無視したのかは分からない。おそらく無視だろうが、もしかしたら、と少しだけ希望を持つ。

 猫はまっすぐ少年の足下へ行き頬ずりした。ひどく驚き一瞬硬直する少年。猫でこれだけの反応だからおれが話しかけなくてよかったと思う。猫はおかまいなしに少年にまとわりついている。マーキングされているのかな。しかしまんざらでもなさそうな少年。でもその表情は少しだけ曇っている。


 早朝の崖の上で、少年にたわむれる猫。ひかえめになでる少年。それを見ている、透明人間のおれ。

 少年がぽつりと呟く。


「……何なんだろう」


 本当だよ。何なんだ、この状況。何なんだ自分。何故ここに居る。……またはじまりそうな堂々廻りに閉口する。でも、手がかり無き今、無闇にでも考えるほかはじまらない。


 (問題はただ一つ――解決策。)


 少年はそろそろ猫をひっぺがしにかかった。猫もけっこうしつこく、なかなか離れない。もしかして、今まであまり人に甘えられなかったんじゃないか……そう思うと少しあわれみが湧いてくる。

 猫をはなし、少年は道を引き返そうとした。猫は、二三歩ついていったが無駄だと分かったらしく、その場にしゃがみこんだ。


「……じゃあね」


 少年はちいさく手を振った。その相手は猫だったけど、おれはそれに振り返した。けして目の合わない偽コミュニケーション。しょうもない自己満足だけど、坂のサラリーマンとよりずっとしあわせだった。やがて少年は手を下ろして、林の奥へと消えていった。


 さて、


「二人きりに、なりましたね?」


 と、猫に話しかけてみる。猫、無反応。毛繕いの体勢に入る。よく見るとけっこう傷があってお世辞にもきれいとは言えなかった。野良猫なんだろう。それもかなりの間。玄人って奴か。玄猫。毛並みは割と白猫だが。


「なあ、おれたち、けっこう似てない?」


 無視。


「野良生活だよ、全く……。聞いてる?」


 毛繕いが終わり落ち着いたところで、ちょっと首元をなでてみた。


 猫、


「フニャーッ!!」


 と滅茶苦茶に飛び上がり、脱兎のごとく逃げ去った。


「……あー」


 何か、ゴメン。いや、でも、人間相手じゃなくてよかった。猫は言いふらさないから放っといてもいい。猫、バツ、と頭の中にチェックマークを入れた。全く、何で人間は何でも言いふらしてしまうのだろう。


 がらんどうになった広場、少年のいたところに何か落ちていた。拾い上げるとそれは一冊の文庫本だった。さっき読んでいた方に違いない。落としていったんだろう。しかし、


『変身』カフカ


 あー……。

 ちょっとノック・アウトされてしまったが、ページをめくる。読んだことはある。読んだ上で、無断使用している。……なんだよ、「ザムザ」って。自嘲する。

 栞のあった89ページを開いた。


――感動と愛情とをもって家の人たちのことを思いかえす。自分が消えてなくならなければなら

ないということにたいする彼自身の意見は、妹の似たような意見よりもひょっとするともっ――


――そして鼻孔からは最後の息がかすかに漏れ流れた。――


 冷徹に未来を暗示するようだ。いっそ明示かも知れない。考えてみると、


虎になった場合(ボツ案):戻れない。

棒になった場合(選外):ポイ捨て。

虫になった場合:死。

透明人間:未読の為不明。


 救いある変身 はこの世に無いらしい。

 ……とにかく落とし物だから、と、一応名前を探す。名前が分かったところでどうにもならないけど、自己満足的な気休めだ。

 裏の扉の下に、ボールペン字で書かれていた。


 八月一日 夏生


 はちがつついたち なつうまれ。


「……誕生日?」


 首を捻っても分かるはずがない。本当に、今日は一体何なんだ。やりすぎだ。作意的過ぎやしないか。


 本は元の場所のそばに目立つように置いといた。多分持ち主は取りに戻って来る。さっきの猫が動かさなければいいのだけど。

 そろそろ良い時間かなと思う。ずっと俯瞰していたこの街ももう活気に包まれている。でもいつもより静かだ、と不思議に思う。八月一日、日付……。

 今日、日曜日か。

 日付感覚も狂っていた。苦笑する。曜日なんてろくに気にしていなかった。こういう些細な所から人間らしさが失われていくんだろう。すぐにでも自分が本物の化け物になってしまいそうな気がする。


「ホー、ホケキョッ」


 頭上から久し振りに声を聞いた。藪の中。やっぱり姿は無い。高らかに鳴いていて、何だかとてもたのしそうだった。脱力した笑いに包まれる。声だけの生き物に。


「君も、透明か」

「ケキョケキョケキョケキョ……」


 鳥、バツ印。今の所バツ印しか無い。けれど……いや、単純に事実だ。どうという事は無い。まだ大丈夫。まだ、生きてるんだし。ちょっと危ういけど、まだ自分は人間だ。


 鳴声の中、おれは坂をゆっくりと下った。



引用元

『変身』

フランツ・カフカ

高橋義孝 訳

新潮文庫

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