十年片思いした幼馴染の騎士様に「君は恩人の娘だから」と振られたので、身を引いて見合いを受けることにしました
「……すまない。君は、恩人の娘だから」
十年ものあいだ大切にあたためた恋は、その一言で終わった。少し涼しい風が吹く、夏の夜だった。オルコット男爵家の小さな庭で、月と夜に咲く花が、私たちを見ていた。
アルヴィン・グレイル、二十五歳。王国騎士団第二隊副長。剣を取れば王国で五指に入ると謳われる騎士様。
月明かりの下でも、彼は憎らしいほど絵になった。夜に溶ける黒い髪を短く整え、上背は私が見上げて首が痛くなるほど。騎士団の制服の上からでもわかる、無駄のない体つき。よく研いだ剣身みたいな灰青の瞳は、いつもは静かで、剣を握った時だけ底光りする。
対する私は、なんの特徴もない男爵令嬢。蜂蜜を薄めたような亜麻色の髪はまとまりが悪く、目は素朴なパンのようなありふれた茶色。背は低く、鼻の頭には消えないそばかす。社交界で三歩歩けば忘れられる顔だと、自分でもよく知っている。
釣り合わないことなんて、鏡を見るたび思い知っていた。それでも言わずにいられなかった私の告白に、彼はまるで斬られたような顔をした。
傷ついたのは私のほうなのに。振ったのは、あなたのほうなのに。
「……そう、よね。うん、変なこと言ってごめんなさい。忘れて!」
泣かずに、ちゃんと笑えていたと思う。十年も隠してきた思いだ、百回も二百回も、断られる予想はしてきたのだから。
「セシリア、俺は——」
「いいの。言わないで、あ、そういえばじいやに呼ばれていたんだった。じゃあね!」
その先を聞いたら、きっと泣いてしまうから。私は淑女の礼をして、彼に背を向けた。背後で彼が何かを言いかけて、やめた気配がした。
そして、アルヴィンは、追ってこなかった。
彼は、そういう人だ。一度決めたことは曲げず、突き進む。だからこそ騎士として大成した。私の恋は、最初から負け戦だったのだ。
* * *
アルヴィンがオルコット家に来たのは、私が七つの冬だった。王都の裏路地で凍えていた孤児の少年を、父が拾ってきたのだ。
「セシリア、今日から家族が増えるぞ! お前と同い年だ!」
父、ライオネル・オルコットは捨て猫をすぐに拾ってきてしまうような人だった。男爵といっても領地は猫の額ほど。財産らしい財産もない。あるのは多少の剣の腕と、呆れるほどのお人好し。
拾われてきた少年は痩せていて、目つきが鋭くて、差し出されたあたたかい野菜のスープを毒かと疑うように睨んでいた。
「食べないの?」
少年はぼそりと言った。
「……タダで施しを受ける理由がない、なにかの罠だ」
「罠をしかける理由もなくない? じゃあ〜、私、友達が欲しかったの! 私と友達になって! それが、施しの理由」
七つの子供の謎理論だった。でも少年は、しばらく黙ってから、スープを飲んだ。空っぽの胃に染みたのか、少しだけ泣いているように見えたけど、見ていないふりをしてあげた。
それが、アルヴィンとの始まり。
父は彼に剣を教えた。彼は乾いた砂が水を吸うようにどんどん強くなっていった。父が「儂の若い頃より筋がいい、しかしまだまだ負けるわけにはいかん!」と笑うたび、アルヴィンは生真面目な顔で「旦那様のおかげです」と返した。
「はっは!旦那様じゃないだろう。父と呼べと言っとるだろうが〜!」
「……命の恩人を、そんな、父となんて呼べません」
「本当にアルヴィンは頑固じゃ」
命の恩人。
彼はいつもその言葉を使っていた。まるで自分の過去を忘れないように。
* * *
私が十五の年、父は流行り病であっけなく逝ってしまった。剣では病気と戦えなかった。
葬儀の日、アルヴィンは棺の前に膝をついて、誰よりも長く動かなかった。夜、皆が帰ったあと、彼が声を殺して、肩だけ震わせて一人で泣いているのを見た。私は何も言わずにそっと隣に座った。
「……俺は、お、おれはっ、旦那様に何も返せなかった」
「生きて……立派になって。父さまはそれだけで喜ぶから」
彼は首を振った。その横顔を見て、恋心を確信した。いや、もっと前から恋をしていたのはわかっている。ずっと、知らぬフリをしていただけで。
* * *
それから彼は騎士団に入り、瞬く間に頭角を現した。入団三年で隊長候補、五年で武勲章、七年目には平民出身として史上最年少の副長。王都の新聞が「野の剣聖」などと呼び始めた頃には、社交界の令嬢たちが彼の姿を追って黄色い声を上げるようになっていた。
同じ夜会に出席した時のことだった。
男爵家にも義理で招待状が来る、年に一度の王宮の大夜会。父もいなくなり、誰と話しても長続きしない私が壁際で暇を持て余していると、目の先にアルヴィンはいた。眩いシャンデリアの下、伯爵令嬢や侯爵令嬢に囲まれて、礼儀正しく微笑んでいて。
とても遠く感じた。
同じ広間にいるのに、うちの食堂でスープを睨んでいた男の子は、もうどこにもいなかった。あの人の隣に立つのは、ああいう、絹と宝石の似合う人たちなのだろう。着回しのドレスの襟を、私はそっと直した。
帰ろう。そう思って踵を返した時。
「セシリア!」
人垣を割って、真っ直ぐに彼が来た。令嬢たちの視線が一斉に突き刺さるのはこっちなのに。
「なんで隠れる。来ているなら、声をかけてくれればいいものを」
「か、隠れてなんかないよ。忙しそうだったから……ほら、おしゃべりしたい人たちが順番待ちしてるよ」
「はぁ?忙しくなんかないぞ」
彼は声を落として、私にだけ聞こえるように喋り始めた。
「……そのドレス。似合ってるな。たしか、三年前にも着ていただろ? あの時より、似合うな」
褒めているのか、着回しがバレているのか。多分、両方なんだろうけれど。父から、レディの褒め方も学んでくれればよかったのに。
「一曲、いいですか?」
差し出された手を、衝動的に握ってしまった。踊るつもりなんてなかったのに。
だって、勘違いしてしまうでしょう。曲の間じゅう、壊れ物みたいに丁寧に扱われて、「足元、段差がある」「疲れたら言えよ」といちいち囁かれて、勘違いしない方が、どうかしている。いつのまにこんなに大きくなってしまったの、ダンスに誘えるようになったの、そんなに凛々しくなってしまったの。ふっくらした少年の顔は、もうどこにもない、見目麗しい青年になってしまった。
曲が終わると、彼はまた令嬢たちの海に呼び戻されていってしまった。私は馬車の中で一人、手袋越しに残る手の熱を、ずっと握りしめていた。
恩人の娘だから、長年一緒に過ごした“友達”だから、優しくしてくれる。天国にいるパパが、私をみて『ひとりぼっちじゃないか!』と心配しないように一緒に夜会で踊ってくれた。
消えない恋心を"勘違いするな"と押さえつけるのは、なんて苦しいの。
* * *
父が亡くなった時に、この家を出たアルヴィンだったけれど月に一度、必ずオルコット家に顔を出していた。手が届かない場所の掃除や屋敷の修繕、じいやの腰痛の薬まで手配して、私とお茶を飲んで帰っていく。
「近々、街に出ないか?セシリアに見せたい店があるんだ」
「私に見せたい?なんだろう、あ、わかった。甘味屋だ」
「ちがう。まぁ、それもいいけど、似合いそうな帽子屋ができてたんだ」
「アルヴィンはいろんなことを知ってるのね」
彼が帰った後の玄関で、私は毎月、同じことを思う。この穏やかな月に一度の訪問は、恋心を出せばきっと壊れてしまう。
わかっていた。十年、そうやって黙っていた。なのに、なのに。
告白してしまったのは、彼が結婚するという噂を聞いたからだった。侯爵家が彼を婿にと望んでいる、断れる話ではない、と。結局それは根も葉もない社交界の噂だったのだけれど、流石の私も、黙って見送れる自信がなかった。だから、言った。そして、終わった。それだけの話。
「アルヴィンも、そろそろお嫁さんをもらう歳じゃない?」
一度だけそう、聞いたことがある。彼は少し黙って答えた。
「……する資格なんかないから、しないよ。それよりセシリアだろう」
「私は、私は……私に見合う人がまだ、いないから?」
「はは、なんだそれ」
結婚する資格とはなんだろうか。私の結婚も気にかけてくれたから、もしかしてアルヴィンも、と期待してしまった期待の果てが、あの夜だった。
『君は、恩人の娘だから。』
なぁんだ、最初から、私は恋の相手として数えられてすらいなかったのか。この十年の恋心はもう、空の星か、海の藻屑になるしか行き場がない。
* * *
告白の翌朝、私はいつも通りに生きた。
朝起きて、予定を確認して、じいやと領地の相談をして、庭の手入れをし、夜は刺繍をして本を読んで眠る。意外にも涙はあまり出なかったが、ずっとぼんやりと靄がかったように前が見えにくい。
そして、月に一度の彼の訪問日に、彼は来なかった。
初めてのことだった。十年間、遠征の時ですら代わりの手紙を欠かさなかった人が、何もなく来なかった。
ああ、やっぱり、壊れちゃったんだ。
伝えたら壊れると、わかっていたのに言ったのは私だ。だからこれは、正しい結末。そして、一番辛い結末。あの夜に振られたことよりも、月に一度玄関に訪れるあの笑顔がなくなったことが、こんなにも辛いのか。
夜、刺繍の針が止まる。空になった父の書斎に久しぶりに足を踏み入れると、アルヴィンと二人、父さまの昔話を聞いたことを思い出す。壁には彼がつけた剣のあとがいくつも。この家には、思い出がいっぱいありすぎる。堰き止められていた涙が、大きな泣き声と共に溢れた。
* * *
「セシリア様、ハワード伯爵家から縁談のお申し込みです」
告白から一月後、家令のじいやが持ってきた話を、私はそれををあっさりと受けた。
ハワード伯爵は三十半ばの穏やかな人で、先の奥方を病で亡くしていた。「派手なことは何もできませんが、静かで温かい家庭を」という手紙の文字は、誠実さが滲み出ていた。
いい話だ。没落寸前の男爵家には過ぎた話ですらある。なにより——もう、この家にいたくなかった。
庭を見れば木剣を振る少年がいて、食堂を見ればスープを睨む男の子がいて、書斎には小さな二人の寝息が響き……玄関の鏡を見れば月に一度の来訪を待ちわびる馬鹿な私がいる。
全部、置いて、嫁いでしまおう。
「本当に、よろしいのですか?」
いつも私の決めたことに反対しないじいやが、一度だけそう聞いた。この家の全部を見てきた老人は、私の恋のことも多分ずっと前から知っていたのだろう。
「ええ。とても、いいお話だもの」
「お嬢様。老いぼれの繰り言とお笑いくださって結構ですが……旦那様は昔、こう仰いました。『うちの娘と、うちの倅は』」
「じいや」
私は、少しだけ強く遮った。
「その話は、もう終わったの」
じいやは深々と頭を下げて下がっていった。閉まる扉の音が、やけに大きく聞こえた。
その夜、私は自分の部屋で小箱をひとつ開けた。
中身は他愛のないものばかりだ。彼が遠征のたびに「土産だ」とぶっきらぼうに寄越した、押し花の栞。異国の硝子のペン。子供の頃、稽古で私が泣いたときに「やる」と押しつけられた、彼の唯一の私物だった古い銀貨。
十年分の、勘違いに勘違いの上塗りをしてきた証拠品。
ひとつずつ布に包んで、箱の底に仕舞い直す。こんなことになっても捨てられないのが、我ながら情けない。でも、嫁ぎ先には持っていかない。この箱は思い出ごと鍵をかけて、この家に置いていく。
* * *
見合いの三日前、まさかのアルヴィンが屋敷に来た。私が振られてから初めてで、二月ぶりに見る彼は、……少し痩せていたように見えた。
「……見合いを、するそうだな」
じいやから聞いたのだろう。彼の声は、いつもより低かった。
「ええ。ハワード伯爵様と」
「……そうか」
沈黙。彼は手袋を握りしめて、それから、絞り出すように言った。
「いい方だと、聞いている。伯爵は……誠実な方だと」
「ええ。私には過ぎたお話」
「そんなことはない。君は——」
彼はそこで言葉を切った。
「君は、世界で一番、幸せになるべき人だ」
ならどうして、と叫びそうになる。
ならどうして、あなたじゃ駄目だったの。どうして、あなたの隣で幸せになってはいけないの。どうして、どうして、恩人の娘からのお願いを聞いてくれないの。
「ありがとう。あなたも元気で、アルヴィン」
叫ばない、泣かない。心を無理やり押し込めたら、まるで今生の別れみたいな挨拶になってしまった。実際そのつもりだ。嫁いだら、もう会わない。会ってしまったら、私はきっと何度でもこの恋を拾い直してしまうから。
彼は何か言いたげに口を開いたが、何も言わず一礼して帰っていった。その背中を見送って、私は自分の恋のお葬式を、ひっそりと終えた。
「パパに会いたいなぁ……」
* * *
見合いの日は、笑っちゃうぐらい晴れていた。
伯爵邸へ向かう馬車の中、じいやが選んでくれた若草色のドレスの膝の上で、私は手袋の指を組んだり解いたりしていた。そして、窓の外を騎士団の詰所の塔が流れていくのを見た。
ああ、私はまだ探している。王都の雑踏に、あの黒い髪を。
馬鹿ね、と自分を笑う。棺桶に仕舞って、土に埋めて、お葬式は済ませたのに。恋というものは、どうしてこう往生際が悪いのだろう。土葬だから、何度でもゾンビになって出てきちゃうのかな。大丈夫。今日が終わればちゃんと終わる。一目見た伯爵に惚れてしまうかもしれないし。
そして、ハワード伯爵邸の応接間に到着した。
「オルコット嬢。今日は来てくださって、ありがとうございます」
「こちらこそ。身に余るお話をいただいて」
伯爵は噂通りの人だった。物腰が柔らかく、亡き奥方の話を隠さず、「あなたにも、忘れられない人の一人や二人、いらっしゃるでしょう。それでいいのです。ゆっくり家族になりましょう」と言ってくれた。
そうね、この人となら、きっと静かに幸せになれる。燃えるような恋じゃなくていい。暖炉の火みたいな、穏やかな毎日。それで十分。それがいい。
「では、正式に婚約の運びということで——」
伯爵がそう言いかけたその時、屋敷の外が、ドタバタと騒がしくなった。
「お待ちください、困ります! 旦那様は今、大切なお席で……!」
制止の声と荒い足音が廊下に響き渡り、応接間の扉が開いた。
「……アルヴィン?!」
そこに立っていたのは、騎士団の礼服のままの、アルヴィンだった。肩で息をしている。いつも取り乱さない人の髪は乱れ、目だけが真っ直ぐに、私を見ていた。
「な、何をしているの……あなた、どうして」
「取り込み中、失礼いたします。ハワード伯爵」
彼は伯爵に向かって、深く、騎士の礼をした。
「王国騎士団第二隊副長、アルヴィン・グレイルと申します。この場をお借りすることの非礼は、いかようにも償います。ですが、ですが、どうしても、彼女の返事の前に、渡さなければならないものがあるのです」
「……渡さなければ、ならないものとは?」
伯爵が静かに問う。アルヴィンは頷いて、懐から一通の手紙を取り出した。古びた封筒は端が擦り切れて、何年も持ち歩かれたのだと一目でわかる。しかしその封筒の封は、切られていなかった。
「ライオネル・オルコット男爵が、亡くなる前夜に俺に託したものです」
パパ……? 心臓が、跳ねる。
「宛先は俺です。ただし『開けるのは、儂の娘を任せられる男になったと、お前が自分で思えた日にしろ』と……そう、言い残されました」
「父さまが……?」
十年彼が肌身離さず持っていた、開かずの手紙。
「俺は……今日まで開けられなかった」
アルヴィンの声が、震えていた。
「拾われた命だ。旦那様に貰ったものを数えたら、両手じゃ足りない。剣も、字も、飯の食い方も、人の信じ方も、全部あの人に貰った。その恩人の忘れ形見を、俺が欲しがるなんて、恩を、仇で返すのと同じだと思った」
「アルヴィン……」
「だから、資格を求めた。爵位を得れば、武功を立てれば、いつか釣り合うんじゃないかと。……違った。どれだけ積んでも、俺の中の借りは減らなかった。君に想いを告げられた夜ですら、俺は……自分が釣り合うわけないと思ってしまった」
『君は、恩人の娘だから』
あの言葉にそんな想いがあったの。
「でも、君が嫁ぐと聞いて、わかった。釣り合わないという言い訳を盾に逃げているだけだった。……ようやく目が覚めた」
彼は封筒の端に、指をかけた。
「今朝、開けました。セシリア……読んで」
差し出された便箋を、私は震える手で受け取った。懐かしい、父の悪筆。
『アルヴィンへ
これを読んでいるということは、お前はようやく素直になったんだな。遅い。遅すぎるぞ馬鹿者。
言っておくが、儂はお前に恩を売った覚えなど一度もない。寒そうなガキがいたから拾った。それだけだ。恩だ借りだと騒いでいたのはお前だけだ。
だがまあ、律儀なお前のことだ。どうせ「恩人の娘には手を出せない」などと辛気くさいことを言って、セシリアを泣かせるのだろう。目に浮かぶわ。
だからこの手紙を残す。
儂の最後の頼みだ。この手紙をもって、お前への貸しは全部無しだ。
セシリアと、幸せになれ。
娘を頼む。父より』
文字が、滲んで読めない。ああ、父さま。あなたは全部、お見通しだったのね。十年も前から。私の恋も、彼の意地も、こうなることも、全部。
「セシリア」
アルヴィンが、私の前に膝をついた。騎士が主君にだけ捧げる、最上の礼だった。
「十年、遅くなった。……いや、違う。俺は多分、あの日、あたたかなスープを出してくれた時から、ずっと君のものだったんだ」
顔を上げた彼の目は、あの葬儀の夜と同じに、濡れていた。
「愛している」
夢にまで見た愛しているの言葉が耳に入り、ぽろぽろと温かい涙が溢れてくる。
「君が誰かのものになると聞いた瞬間から、呼吸の仕方も思い出せない。恩でも借りでも義理でもなく、ただの一人の男として、君が欲しい。セシリア・オルコット、どうか、俺と結婚してください」
棺桶に仕舞ったはずの恋が、箱を蹴破って飛び出してきた。
「……っ、遅い……!」
「ああ」
「遅すぎるわ、馬鹿……!私がどれだけ……っ!あの夜に断る必要なかったじゃないっ!」
「ああ。本当に……すまない。残りの人生を全部使って、償う」
気づけば私は、彼の胸の中にいた。礼服越しの心臓が、壊れそうな速さで鳴っている。ああ、この人も、私と同じで、怖かったのだ。
「……ごほん」
咳払いに我に返る。そうだった!ここは、私のお見合いの席だった。慌てて胸の中から飛び出て頭を下げる。
「も、申し訳ございません、伯爵様、私……!」
真っ青になる私に、ハワード伯爵は、笑っていた。声を上げて、可笑しそうに。
「いやはや。断られる見合いは三度目ですが、こんなに気持ちのいい負け方は初めてだ」
「伯爵様……」
「オルコット嬢。先ほど言ったでしょう。忘れられない人がいてもいい、と。……ですが、忘れる必要のない人がいるなら、話は別です」
それに、と伯爵は目尻に皺を寄せた。
「実を言えば、あなたが部屋に入られた時から、少し引っかかっていたのです。あなたの笑顔は、とても綺麗で……とても、上手だった。諦めている女性の笑顔だ。だから先ほどから、どうしたものかと考えていたのですよ。その点、今のあなたはひどい顔だ!泣き腫らして、鼻も赤い。……ですが、先ほどまでの百倍、生きた顔をしていらっしゃる」
伯爵は立ち上がり、アルヴィンの肩を叩いた。
「副長殿。彼女を泣かせたら、次こそは私が攫いに参りますぞ!」
「……命に代えても、一生、守り続けます」
騎士様は、大真面目に答えた。この人のこういうところが、私は昔から、どうしようもなく好きなのだった。
* * *
婚約の届けを出した日の夜、アルヴィンはオルコット家の居間で、例の小箱を見つけた。じいやの仕業だ……。
「これはなんだ……?」
「ちょっ!見ないで!」
遅かった。彼は栞を、ペンを、そして古びた銀貨を見て、長いこと固まっていた。
「……俺が、渡したもの……?ゴミみたいなものも、とっておいたのか、全部」
「わ、悪い?」
「いや」
彼はごそごそと自分の胸元を探ると、色褪せた刺繍のハンカチが出てきた。……それは……十二の私が生まれて初めて刺繍して、あまりの出来の悪さに「捨てておいて」と彼に押しつけた、あの失敗作!
「捨てておいてって、言ったのに」
「捨てられるわけがないだろう」
戦場にも持っていった、お守りだった、と彼は言った。十年間、私たちはお互いの欠片を、後生大事に抱えて生きてきたらしい。
「……ねえ、アルヴィン。ひとつ聞いていい?」
「なんだ」
「もし私が今日、あのまま伯爵様と婚約していたら、どうしてた?」
彼は真顔で少し考えて、遠くを見ながら答えた。
「国境の最前線に転属願いを出して、二度と王都に戻らないつもりだった」
「どうしてそんな、ゼロか百みたいな!重い!」
「だいぶ、寝かせたからな。悪いが、この先はもっと重くなるぞ」
それから、半年後。私は白いドレスを着て、小さな教会にいた。
オルコット家の菩提教会。参列者は少ない。でも、じいやが泣いて、騎士団の同僚たちが冷やかして、ハワード伯爵が(あんなに失礼なことをしたのに、来てくれて豪華なお祝いまでくれた)穏やかに拍手をしてくれる、いい式だった。
「セシリア」
誓いの前、アルヴィンが小さく囁いた。
「なあに?」
「旦那様の墓前に、報告してきた。……そうしたら、森が鳴いた。多分あれは『遅い』と言われたな」
「ふふ。間違いないわね」
「ああ。……なあ、セシリア」
彼は少しだけ目を伏せて、それから、十年分の不器用さをかなぐり捨てた顔で、笑った。
「俺の恩返しは、もう終わった。これからは、君の横で生きていく」
「ええ……ずっと、二人で!アルヴィン!」
あの冬の日から始まった物語の、十年の片思いはこうやって終わった。ここから先は、両思いの話。それはまた、別のお話。




