第3回:詰みの盤面、法の発動
「さて、佐藤君。これより君の『ゴミ処理』を執り行う。……ああ、誤解しないでくれたまえ。これは、会社という神聖な組織を浄化するための、単なる『手続き』だよ」
帝都重工本社、四十二階。
普段は重役しか立ち入ることが許されない『特別応接室』。
正面に座るのは、この会社の絶対権力者の一人、大浦専務だ。
彼は趣味のゴルフで焼けた顔を歪め、高級な葉巻の煙を私の顔に吹きかけた。
「手続き、ですか。随分と仰々しいですね。私一人の懲戒解雇を決めるのに、専務自らお出ましいただけるとは光栄です」
私は、わざとらしく深々と頭を下げた。
隣には、前回の『退職強要』に失敗して顔を青くしている人事の武田、そして会社お抱えの強面弁護士、さらには中島部長までが並んでいる。
まさに、一人の平社員をなぶり殺しにするための「処刑場」の趣だ。
「謙遜したまえ。君が辺境のアーカイブセンターで、岡庭のジジイと共謀して何やらコソコソ動いているのは把握している。社内の極秘ファイルを外部に持ち出そうとしただろう? これは立派な窃盗であり、背任行為だ」
大浦専務が机を叩く。
その上には、数枚の写真が散らばっていた。
私が岡庭さんから受け取った『十年前の不正記録』を、カバンに入れている瞬間の写真だ。
あの廃校舎、監視カメラだけは最新式だと言ったが、隠し撮りまでされていたらしい。
「ああ、それですか。窃盗だなんて人聞きが悪い。私はただ、社内の『歴史資料』を、より安全な場所へ避難させようとしただけですよ。なんせ、あそこは雨漏りがひどいものですから」
「黙れ! 往生際が悪いぞ。……いいか、君が告発しようとした『ボルトのデータ偽装』など、この世には存在しない。すべてのデータは昨夜、サーバーから完全に削除された。君の手元にあるコピーも、偽造されたものとして処理済みだ。……つまり、君にはもう、武器は何一つ残っていないんだよ」
中島部長が横から口を出す。その顔には「勝った」という確信が満ち溢れている。
大浦専務が冷たく告げた。
「佐藤君。君には本日付で懲戒解雇を申し渡す。もちろん、退職金はゼロ。それどころか、会社の信用を失墜させた損害賠償として、数億円の請求を準備している。……今なら、君の全ての『証拠』とやらを差し出して、土下座して詫びれば、賠償額をまけてやってもいいぞ?」
部屋の中に、下卑た笑い声が響く。
彼らは、私が恐怖に震え、涙を流して許しを請うのを待っているのだ。
私は、ゆっくりと椅子に座り直した。
そして、カバンの中から一冊の本を取り出す。
何度も読み込み、付箋だらけになった『改正・公益通報者保護法』の解説本だ。
「大浦専務。……一つ、質問してよろしいでしょうか」
「何だ? 命乞いか?」
「いえ。……あなたは、二〇二二年にこの法律がどう変わったか、ご存知ですか?」
私は本を机の上に置いた。
相手の弁護士が、一瞬だけ眉をぴくりと動かした。
「改正法では、従業員数三百人を超える事業者に対し、『内部通報に適切に対応するための体制整備』が法的義務となりました。その中には、『通報者を特定しようとする行為の禁止』も含まれています」
「それがどうした。我々は君を『泥棒』として処罰するんだ。通報者として扱っているわけではない」
「いいえ。私が社内窓口にボルトの不正を通報したのは事実です。その直後に私を辺境へ飛ばし、さらに今、こうして『通報を理由とした不利益な取扱い』を行っている。……専務、あなたが今やっていることは、会社を守ることではなく、会社に『行政処分』を招き入れる行為そのものなんですよ」
「行政処分だと!? 笑わせるな! 消費者庁や国交省が、たかが一社員の言うことを真に受けて、この帝都重工に手を入れるとでも思っているのか?」
大浦専務は鼻で笑った。
古いタイプの経営者だ。
「お上」とのコネがあれば、法律なんてどうにでもなると信じている。
「ええ、真に受けるでしょうね。……だって、私が昨日『外部通報』を行った相手は、単なる役所の窓口ではありませんから」
私はスマートフォンを取り出し、画面を見せた。
そこには、送信済みのメール。
宛先は、消費者庁の『公益通報受付窓口』だけではない。
証券取引等監視委員会。
そして、複数の大手新聞社の社会部記者。
「……君、正気か? そんなことをすれば、君のキャリアは本当に終わるぞ!」
人事の武田が、絶叫に近い声を上げた。
「キャリア? そんなものは最初から捨てていますよ。……それより、専務。あなたが先ほど誇らしげに言った『データは削除済み』という発言。それこそが、私が待ち望んでいた最高のプレゼントです」
「……何だと?」
「もしデータが残っていれば、あなたは『単なるミスだった』と言い張れたかもしれない。しかし、組織的にデータを消去し、通報者を社会的に抹殺しようとした。これは改正法が最も厳しく禁じている『通報者への報復』であり、隠蔽工作です」
私は立ち上がり、大浦専務の目の前まで歩み寄った。
彼は思わずのけ反り、葉巻を灰皿に落とした。
「私が外部通報に踏み切ったのは、社内での自浄作用が期待できないと判断したからです。……その証拠として、中島部長とのやり取り、武田さんによる退職強要、そして今、この部屋でのやり取り。すべて……」
私は胸ポケットの万年筆を抜いた。
それは、超高性能の指向性マイクを内蔵した、特注の録音デバイスだ。
「リアルタイムで、外部のサーバーにストリーミング配信されています。……ちなみに、視聴者の中には、先ほど申し上げた新聞記者の方々も含まれていますよ。今頃、社説のタイトルを考えているんじゃないでしょうか。『帝都重工、組織的な不正隠蔽と通報者への弾圧』……なんてね」
静寂。
部屋の中の温度が、一気に十度くらい下がったような気がした。
大浦専務の顔から赤みが消え、土気色に変わっていく。
弁護士は、すでに自分の資料を片付け始めていた。彼はもう、この船が沈むことを察したのだ。
「あ、ああ……。ま、待て。佐藤君。これは、少し誤解があったようだ」
大浦専務の声が震えている。
「誤解? いいえ、何も誤解はありません。……あなたは私を『ゴミ』と言いましたね。ですが、法というフィルターを通せば、ゴミなのはどちらか、明白です」
私は六法全書を、机の上にドスンと叩きつけた。
その衝撃で、専務が大切にしていたクリスタルの灰皿が床に落ちて砕け散る。
それは、帝都重工という砂上の楼閣が崩壊する、前奏曲のように聞こえた。
「専務、あなたは先ほど『法は使いよう』と言いました。……その通りです。法律は、弱者が強者を殴り倒すために磨き上げられた、人類史上最強の『武器』なんですよ」
その時。
遠くから、サイレンの音が聞こえてきた。
一台や二台ではない。
複数の車両が、猛スピードでこちらへ近づいてくる。
私は窓の外を見下ろした。
本社ビルの正面玄関に、黒塗りの車が次々と横付けされていく。
車から降りてきたのは、腕章を巻いた男たち。
消費者庁の調査官、そして――国交省の監査官だ。
「……おや、予定より少し早いですね。さすがに事態を重く見たようです」
私は、腰が抜けて座り込んだままの大浦専務に、優しく微笑みかけた。
「専務。本日付での『懲戒解雇』。……謹んで、拒絶させていただきます。その代わりと言ってはなんですが、あなたの『強制捜査への同行』。……そちらを優先された方がよろしいかと」
中島部長は泡を吹いて倒れ、武田は震える手でどこかへ電話をかけようとしているが、ボタンがうまく押せないようだ。
私は、カバンの中に六法全書をしまい、背筋を伸ばした。
空気は冷たいが、どこか清々しい。
「……さて、地獄の蓋が開きましたよ。準備はいいですか?」
ドアが勢いよく開かれ、捜査官たちがなだれ込んでくる。
私は、彼らに軽く会釈をすると、混乱の極致にある応接室を後にした。
エレベーターホールに向かう廊下で、私はスマートフォンを取り出した。
画面には、辺境のアーカイブセンターにいる岡庭さんからのメッセージが届いていた。
『花火の火種は、確かに受け取った。……あとは、風向き次第だな』
私は、窓から見える青空を仰いだ。
ビルを囲むサイレンの音は、今やオーケストラの歓喜の歌のように、私の耳に心地よく響いていた。




