第2回:孤立無援の「防壁」
「おい、佐藤。死ぬ気はあるか?」
廃校舎の三階、かつての図書室だった場所で、老人は唐突にそう切り出した。
彼の名は岡庭。かつて帝都重工の法務部長を務め、十年前の不祥事の際、すべての責任を押し付けられてこの『墓場』に流された男だ。
「……いえ、全くありません。私は住宅ローンの残債が二千八百万ありますし、来月には最新型の全自動コーヒーメーカーが届く予定ですので」
「ならいい。この場所で生き残るための、唯一のルールを教えてやる」
岡庭は、山積みにされた埃を被った段ボールの一角を指差した。
「ここに来る奴は二種類だ。絶望して一ヶ月で辞めるか、虚無に呑まれて廃人になるか。会社が君に与える『仕事』は、ただ一つ。――『何もしないこと』だ。これを八時間、週五日、完璧に遂行してみろ。精神がボロ雑巾のようになるぞ」
私は、自分が置かれた状況を改めて見回した。
広大な図書室。窓の外は鬱蒼とした森。Wi-Fiも届かなければ、携帯の電波も一本立つか立たないか。
机の上には、電源すら入らない化石のようなデスクトップPCが鎮座している。
中島部長が「整理の仕事」と言ったのは、要するに「ここに座って腐って死ね」という意味だったわけだ。
「なるほど。現代日本における『座敷牢』ですね。ですが岡庭さん、私は暇つぶしの天才ですよ」
「ふん、強がりを。……一週間後、君が自分の指の数を数え始めた頃にまた声をかけてやる」
岡庭はそう言うと、奥の棚に隠された自分だけの『秘密基地』――高機能な自作PCと、複数のモニターが並ぶ異様な空間――へと戻っていった。
初日。
私は宣言通り、完璧に「何もしない」を実行した。
……が、三時間で限界が来た。
静寂は、時として物理的な圧力を持って鼓膜を攻撃してくる。
時折聞こえる「カサカサ」という音。それがゴキブリなのか、それとも会社の未来を象徴するネズミなのかは分からない。
二日目。
私は私物のタブレットを持ち込もうとしたが、校舎の入り口で監視カメラ(なぜかこれだけは最新式だ)に見咎められ、本社からわざわざ派遣されてきた警備員に没収された。
「私物の持ち込みは情報漏洩の観点から禁止です」とのことだ。
情報漏洩も何も、ここにあるのは昭和の時代の領収書の束だけなのだが。
三日目。
ついに出た。
本社の『人事部』からの刺客だ。
「やあ佐藤君。元気かな? ここの空気は体にいいだろう?」
やってきたのは、人事部の若手ホープ、武田。
高級なスーツに身を包み、このカビ臭い部屋には似合わない爽やかな笑顔を浮かべている。
彼の傍らには、一人の無骨な男。法務担当を自称しているが、どう見ても「揉め事解決」を専門にしている風貌だ。
「武田さん。わざわざこんな辺境まで、私の健康診断に来たわけじゃないですよね」
「ははは、鋭いね。実は君に、素晴らしい提案を持ってきたんだ」
武田は私の前に、一通の書類を置いた。
そこには『早期退職優遇制度の適用に関する合意書』と書かれている。
「今ここでこれにサインすれば、退職金を三割増しにしよう。君のような有能な男が、こんな場所で燻っているのは忍びない。……どうだい? これは会社なりの『情け』だよ」
「情け、ですか。データ偽装を告発した社員を山奥に監禁しておいて、よく言いますね」
「人聞きが悪いな。これはあくまで配置転換だ。そして、君が不祥事を起こした疑惑がある以上、妥当な判断だよ」
武田の目が、蛇のように細くなる。
「サインしなければ、次は『懲戒解雇』の手続きに入る。そうなれば、退職金はゼロ。再就職も絶望的だ。賢い君なら、どちらが得か分かるだろう?」
私はゆっくりと、胸ポケットから一つのデバイスを取り出し、机の上に置いた。
シルバーに輝く、最新型のICレコーダーだ。
「武田さん。今の発言、しっかり録音させていただきました」
「……なんだと?」
「『サインしなければ懲戒解雇にする』。これは立派な強迫、および退職強要に該当します」
武田の顔から、爽やかな笑みが消えた。
「君、それがどうした。こんな山奥での会話、証拠としての能力は低いぞ。それに、社内規定で録音は……」
「『公益通報者保護法』の第十条をご存知ですか?」
私は、頭の中に叩き込んだ条文を淀みなく口にした。
「事業者は、通報をしたことを理由として、当該通報者に対して解雇、その他不利益な取扱いをしてはならない。……武田さん。あなたが今やったことは、この法律に対する真っ向からの挑戦です。さらに、厚生労働省の指針によれば、通報者への退職勧奨は『不利益な取扱い』の典型例として挙げられています」
「……っ。屁理屈を!」
「屁理屈ではありません。これは生存戦略です。私は、このアーカイブセンターに配属されてから、自分の行動、発言、そして本社から届くすべてのメール、警備員による私物没収の記録を、秒単位でログに残しています。このレコーダーの中身は、すでにクラウド経由で『外部の信頼できる場所』に自動送信されるよう設定済みです」
嘘だ。ここは電波が届かない。
だが、武田にそれを確かめる術はない。私のタブレットが没収されたことを彼は知っているが、私が「独自の通信手段」を持っていないという保証はない。
「……君、本気で会社を相手に戦うつもりか?」
「戦う? いいえ、私はただ『守られている』だけですよ。法律という、最高に頑丈な盾にね」
私は武田を真っ直ぐに見据え、ニヤリと笑った。
「お帰りください。次に私と話したいなら、弁護士を通じて、書面でお願いします。ああ、交通費の請求を忘れないように。……会社のお金なんですから」
武田は顔を真っ赤にし、吐き捨てるように「……後悔するぞ!」と言い残して立ち去った。
校舎の入り口で、彼が乗った高級車が砂埃を上げて走り去るのが見えた。
「……やるじゃないか、小僧」
いつの間にか、岡庭が背後に立っていた。
その手には、温かいコーヒー(インスタントだが、今の私には最高のご馳走だ)が握られている。
「録音をクラウドに送ったというのは、ハッタリだな? 電波増幅器を使っているのは俺の端末だけだ」
「分かっていましたか。……でも、奴らの顔、傑作でしたよね」
「ああ、久しぶりにスカッとした。……だがな佐藤。奴らもバカじゃない。正面から潰せないと分かれば、次は搦手で来る。……例えば、君が告発した『ボルトの偽装』そのものを、なかったことにするようにな」
岡庭は、私を自分の秘密基地へと手招きした。
モニターには、複雑な家系図のような図解が表示されている。
「君が告発したS型ボルトの件。あれは氷山の一角だ。見てみろ、この書類の山を」
彼が指し示したのは、棚の一角に並ぶ、色褪せた青いファイル群だった。
そこには『特機事業部 廃棄記録』というラベルが貼られている。
「これは……?」
「十年前に俺がここに流された原因だ。……帝都重工はな、佐藤。組織的に『失敗を消す』システムを持っているんだ。君が告発したデータは、今頃本社のサーバーから消去され、君のPCに残っていたバックアップも、先ほどの警備員によって消されているはずだ」
私は背筋が寒くなるのを感じた。
正義を証明するための「物証」が消されれば、法律という盾もただの紙切れになる。
「……じゃあ、私は詰んでいるんですか?」
「いや。奴らは一つだけ計算違いをしている。……この『墓場』には、シュレッダーにかけられ損ねた、生々しい『死体』がまだ残っているんだ」
岡庭は、ファイルの一冊を開いた。
そこには、今回のボルト偽装と全く同じ手口、全く同じ承認ルートで記された、十年前の不正報告書があった。
そしてその承認印の欄には、現在、帝都重工を統括する『専務』の名前がくっきりと刻まれていた。
「これは、単なる報復人事の問題じゃない。……この会社そのものが、偽装を糧にして育った怪物だということだ」
窓の外、雨音が激しくなる。
私は、自分が手に持っているICレコーダーを強く握りしめた。
この小さな機械に刻まれた武田の暴言と、岡庭が守り抜いてきた過去の証拠。
これが合わさった時、化学反応が起きる。
「岡庭さん。……この『火薬庫』、全部使わせてもらってもいいですか?」
「好きにしろ。……どうせ俺は、もうすぐ定年だ。最後にどでかい花火を見てから死ぬのも悪くない」
私は確信した。
この孤立無援の廃校舎は、今や世界で最も危険な「武器庫」に変わったのだ。
翌朝、私のデスクには一通の封筒が置かれていた。
本社からの「最終警告」だ。
だが私はそれを開くこともなく、岡庭から手渡された一冊の古いノートに目を落とした。
そこには、中島部長、そして専務が、決して表に出したくないであろう『真実』が、血の通った文字で綴られていた。
「……さて、次はどの『魔法』で、あの人たちの顔を青ざめさせましょうか」
私は静かに、反撃の第二フェーズを開始した。




