第1回:告発、即、地獄行き
「で、佐藤君。これは一体、どういう『ジョーク』なのかな?」
帝都重工・品質管理部。
部長の中島が、私の差し出した報告書を指先でつまみ上げた。
まるで、汚物か何かに触れるような手つきだった。
「ジョークではありません。中島部長。我が社の主力製品である『S型高強度ボルト』、その耐久テストデータが改ざんされています。実際の強度は設計値の六割しかありません。これ、大型建築物に使われたら、数年で破断して大惨事になりますよ」
私は努めて冷静に言った。
目の前の中島部長は、脂ぎった顔を歪め、ふんぞり返る。
彼の背後の壁には『誠実・信頼・技術』という社是が、黄金の額縁に入れられて輝いている。笑えないギャグだ。
「佐藤君。君は、真面目すぎて損をするタイプだね」
「損得の話をしているのではありません。コンプライアンスの話をしています」
「コンプライアンス! ああ、いい響きだ。私も大好きだよ。だがね、現実というものを見なさい。このボルトはすでに全国の高速道路の橋脚、タワーマンション、果ては国立の競技場にまで納品されている。今さら『データが嘘でした』なんて言ってみろ。我が社は倒産、数万人の社員とその家族が路頭に迷う。君は、その全責任を取れるのかね?」
出た。
日本のサラリーマンが使う、最強の魔法の言葉。「責任取れるのか」。
この呪文を唱えれば、あらゆる不正が浄化されると彼らは信じている。
「責任を取るべきなのは、改ざんを指示した人間です。私は品質管理部として、事実を報告する義務があります」
「義務、ねえ。……いいかい、これは『現場の知恵』だよ。理論値と実測値には常に乖離がある。それをうまく調整するのが、プロの仕事なんだ。君のような『融通の利かない若手』にはまだ早い領域だったかな」
中島は報告書を机の引き出しに放り込み、鍵をかけた。
まるで、私の正義感ごと物理的に封印したかのような、重々しい金属音が響く。
「この件は私が預かる。君は余計なことを考えず、次の案件に取りかかりなさい。……これは命令だぞ」
私は静かに立ち上がった。
中島部長の瞳の奥には、どす黒い保身の炎が燃えている。
この男に何を言っても無駄だ。
私の脳内にある『公益通報者保護法ガイドブック』のページが、パラパラと音を立ててめくられる。
第一段階、社内窓口への通報権。
私は部長室を出ると、そのまま一階にある『コンプライアンス推進室』へと向かった。
推進室のドアを開けると、そこには暇そうにネットニュースを見ている定年前の職員が一人。
「あの、内部通報をしたいのですが」
「ああ? 通報? ……ああ、そこに紙があるから、適当に書いて箱に入れといて」
職員は画面から目を離さずに言った。
箱を見ると、中には食べかけのガムの包み紙が入っていた。
なるほど。これが帝都重工の「自浄作用」というやつか。
翌朝。
私はいつも通り、八時五十分に出社した。
フロアに入った瞬間、空気が凍りついた。
昨日まで冗談を言い合っていた同僚たちが、一斉に目を逸らす。
自分のデスクに向かうと――そこには、私の私物が入ったダンボール箱が一つ置かれていただけだった。
パソコンも、電話も、椅子さえない。
「……これは、どういうことですか?」
私が尋ねると、背後からあざ笑うような声がした。
「おはよう、佐藤君。いや、元・品質管理部の佐藤君かな」
中島部長が、数人の部下を連れて立っていた。その手には一枚の紙がある。
「君には『重大な就業規則違反』の疑いがかかってね。取引先への機密情報漏洩、および経費の不正受給だ」
「なっ……。そんな事実は一切ありません!」
「調査中だよ、調査中。だが、潔白が証明されるまで、君をここにおいておくわけにはいかない。これは会社を守るための『適切な措置』だ」
中島は勝ち誇った顔で、辞令を突きつけてきた。
「本日付で、君を『辺境アーカイブセンター』へ出向させる。……いやあ、あそこはいいぞ。空気も綺麗だし、仕事も『整理』だけだ。君のような真面目な人間にはぴったりだ」
辺境アーカイブセンター。
社内では通称『お化け屋敷』と呼ばれている。
本社から電車を三回乗り継ぎ、さらにバスで一時間。山の中にある、廃校になった小学校を利用した、ただの紙屑置き場だ。
そこへ送られた人間は、二度と本社に戻ることはない。
まさに、令和の時代の『島流し』である。
「部長。これは明らかな、内部通報に対する報復人事ですよね」
私が低い声で言うと、中島はわざとらしく肩をすくめた。
「通報? 何のことかな。私は君の『不祥事』を問題にしているんだよ。……ああ、それから。公益通報者保護法、だっけ? あれを盾にするつもりなら無駄だよ。会社側は、君が『正当な目的』ではなく、『会社を強請る目的』で通報したという証拠も、これから……おっと、すでに揃えているんだ。法なんて、使いようだよ。素人が振り回すと怪我をするぞ」
取り巻きの社員たちが、クスクスと笑い声を漏らす。
彼らにとって、私は「正義を振りかざして空回りし、自爆した愚か者」に過ぎないのだろう。
「荷物はそれだけか? 早く行きなさい。バスの本数は少ないんだから」
私はダンボール箱を抱えた。
中には、昨日中島が没収したはずの報告書のコピーと、ボイスレコーダーが入っている。
私は彼らの嘲笑を背中で受けながら、エレベーターに乗り込んだ。
鏡に映る自分の顔を見る。
絶望しているか? いや。
私の口角は、わずかに上がっていた。
「……法は使いよう、ですか。その言葉、そのままお返ししますよ」
数時間後。
私は、鬱蒼とした森に囲まれた木造校舎の前に立っていた。
錆びついた鉄門。剥げかけたペンキ。
聞こえるのはセミの声と、風に揺れる木々のざわめきだけだ。
ここが、私の新しい「職場」らしい。
校舎の入り口には、手書きの看板があった。
『帝都重工 文書管理部 第三分室(辺境アーカイブセンター)』
ドアを開けると、埃の匂いが肺に突き刺さる。
廊下には天井まで届くほどの古い書類箱が積み上げられ、迷路のようになっていた。
「……誰か、いるんですか?」
声を出すと、廊下の奥から不気味な足音が近づいてきた。
「……新しい生贄か?」
現れたのは、ボサボサの白髪に、ヨレヨレのシャツを着た老人だった。
目は鋭く、まるで獲物を狙う鷹のようだ。
彼は私の抱えたダンボール箱を一瞥し、鼻で笑った。
「君も中島にハメられた口か。それとも、専務に盾突いたか?」
「……どちらも、正解かもしれません」
「ふん。ここは墓場だぞ。何もすることはない。一生、過去のゴミを眺めて腐っていく場所だ」
老人はそう言って背を向けた。
だが、私は見逃さなかった。
彼の背後の机に、山のように積まれた『判例集』と『六法全書』。
そして、最新のタブレット端末に表示されている、帝都重工の裏帳簿らしき複雑なエクセルシートを。
「……面白い墓場ですね。ここには、武器がいくらでも落ちていそうだ」
私が呟くと、老人が足を止めた。
彼はゆっくりと振り返り、初めて私を「人間」として見たような気がした。
「ほう。……小僧、名前は?」
「佐藤と言います。公益通報者保護法を、守り刀にしている佐藤です」
老人は、不敵な笑みを浮かべた。
「そうか。……なら、教えてやる。この墓場にあるのはゴミじゃない。帝都重工という巨大な怪物を、内側から爆破するための火薬だ」
窓の外、急に降り出した雨が、古びた校舎を叩き始める。
私の、本当の意味での「仕事」が、ここから始まる予感がした。
中島部長。
あなたは私を、何もできない窓際へと追放したつもりでしょう。
ですが、あなたは致命的なミスをした。
あなたは私を、自由にしてしまったんだ。
監視の目も、しがらみもない、最強の「反撃拠点」に。
さて、まずはこの改正法の第十条から、じっくりとおさらいを始めるとしましょうか。




