第8話 ヴィンセント辺境伯領に伝わる話
窓の外に視線を向ける。眼下には、美しい庭が広がっていた。
アイリス、サルビア、シャクヤク、ゼラニウム──薔薇だけでなく、ピンクや赤の華やかな花が咲いている。まるで、巷で流行っている恋物語に出てくる秘密の花園だ。
花園で出会った二人は、お互い婚約者がいるから思いを打ち明けられず、だけど別れることも出来ずに逢瀬を重ねる。ちょっと危険な香りのする恋物語だったけど、あのお話ってよく考えたら、ジュリアン様の浮気みたいよね。
本を読んでいた頃は幸せになってほしいって思ってたけど、実際された側としたらとんでもない話だわ。
自分を重ねて苦笑をこぼしていると、カレンが私を呼んだ。
「アリスリーナ様、こちらの本は何ですか?」
お茶の用意を終えたカレンが手にしたのは、一冊の古い本だった。昨日、フェリクス様にお借りしたものだ。
本の表紙には薔薇の花とお姫様が描かれていて、中にも可愛らしい挿絵がある。
「子ども向けの童話ですか?」
「この地方の伝承を元にしているんですって」
「薔薇の魔女──魔女のお話ですか?」
「そうみたい。ほら、以前、フェリクス様がこの地方では聖女より魔女が歓迎されるって言ってたでしょ」
それがどう言う意味なのか、改めて尋ねたら、これを読めば分かるといって貸して下さった。
「ここで生きていくのだから、知らないとと思って……カレン、一緒に読みましょう」
カレンを誘ってみると、彼女の顔がぱっと明るくなった。すぐソファーの横を叩いて招くと、彼女はおずおずと座りながらも、興味津々な眼差しを絵本へ向けた。
「なんだか、幼い頃を思い出すわ。こうして一緒に絵本を読んだわよね」
「はい。お嬢様とご一緒する読書が楽しみでした」
「私もよ。二人でお姫様になる夢を見たり」
「悪い魔王をやっつけに行ったり」
「お菓子の国に行ったり……楽しかったわ」
懐かしく思いながら、私たちは顔を見合わせる。そうして、幼かった頃を思い出しながら、私はページを捲った。
◆
遠い遠い昔のお話です。
豊かな森に恵まれたその地には、悪い領主がいました。
強い騎士団を持っていた領主はワガママばかり。領民が食べ物に困っていても気にもせず、贅沢な暮らしを続けていました。
剣を持たない領民はどうすることも出来ず、明日が来ることを祈る日々が続きました。
ある日のことです。
今にも雨が降りだしそうな空をした夕方、領主の屋敷を、薔薇の花のように美しいお姫様が訪れました。
お姫様一行は、一晩泊めてほしいと願いました。しかし、意地悪な領主は、突然来て何を言うと怒って、お姫様を追い返してしまいました。
困ったお姫様一行に、ある若者が声をかけました。
「一晩休む場所と馬の世話でしたら出来ます。ですが、領主様のお屋敷のように綺麗な寝床や、豪華な食事はありません」
申し訳なさそうな若者に、お姫様はとても感謝をしました。
心ばかりのパンと果物でもてなされ、泣きながらささやかな食事を口にしたお姫様は、翌日、必ず恩を返しますと言い残して去っていきました。
このことを知った領主は激怒しました。この土地のものは全て自分のものなのに、本当にお姫様か分からない者に施しをするなどあってはならないと言うのです。
お姫様を家に泊めた若者は領主の屋敷に呼び出され、酷い仕打ちを受け、森の奥に打ち捨てられました。
「わしのいうことを聞かない者など、魔物の餌になってしまえば良い」
心無い領主の仕打ちを知った領民たちは、優しい若者が帰ってくることはないだろうと、涙を流しました。
月日が流れたある満月の晩。
森から魔物の遠吠えが聞こえてきました。森から出てくるのではないかと、不安に思った人々は家の扉を固く閉ざしました。
夜が深まり、幼子たちが寝付いた頃です。風もないのに家の窓がガタガタと揺れました。
ざっざっと聞きなれない足音が向かってきます。
魔物が森から出てきたのでしょう。しかし、領民たちはどうすることも出来ず、息をひそめてそれが通りすぎるのを祈っていました。
足音が止まったのは、心優しい若者の家でした。中では、息子を失って一人となった母が、悲しみと恐怖で震えています。
コンコン──
ドアが叩かれ、しばらくすると「夜分に失礼いたします」と可憐な声が響きました。その声に聞き覚えがあった母は恐る恐るドアに近づきます。すると、再び声がしました。
「私は、先日お世話になった者でございます」
可憐な声は、お姫様のものでした。
魔物がいるかもしれない夜に、なんて危険なのでしょう。心配した母は慌ててドアを開けました。
すると、何という奇跡でしょうか。ドアの先には、死んだと思っていた若者が立っているではありませんか。
「お前、死んだんじゃ……魔物の餌にしたって、領主様が」
「薔薇姫様が助けて下さったんだ」
「……薔薇姫様?」
母に駆け寄った若者が振り返った先には、月夜に浮かび上がる白いドレス姿のお姫様がいました。
お姫様の後ろには、黒々とした馬や狼がいるではありませんか。どう見てもその姿は魔物です。
驚いた母は若者に縋りつきますが、青年は一つも怯えた顔をしていません。
「あの日の恩をお返ししたいと思います。心優しい皆さんが安心して過ごせるよう、領主を打倒してみせましょう」
「何を言っているんだい! 領主様は強い騎士団を持っているんだよ。お姫様の細い手じゃ、剣すら振れやしないだろう。危ないよ!」
「ご心配は無用です」
「怪我をしちまうよ。息子を助けてくれただけで十分だから、よしておきよ!」
「本当にお優しいのですね。なおさら、このままには出来ません」
優しく微笑んだお姫様は、真っ黒い馬にまたがると、持っていた薔薇の杖を夜空にかざしました。
「剣が振れなくとも、私には魔法があります」
「……魔法?」
お姫様の周りに赤い光がぽっ、ぽっと点りました。それはまるで花の蕾のような灯です。
「私は薔薇の魔女……この地の光となりましょう」
お姫様はそう告げると、魔物を従えて領主の屋敷へと向かっていきました。
それから親子は、領民の家をめぐりました。
誰もが、死んだと思っていた若者がいることに驚きました。さらに事情を話すと、もしもお姫様が酷いことをされていたなら助けようと、誰ともなく言いました。
皆、領主様のわがままに限界だったのです。
人を集め、領主の屋敷にたどり着いたのは東の空が白くなり始めた頃でした。もうすぐ、夜明けです。
鍬や鎌、農耕具を持った領民は、領主の屋敷を見上げて驚きました。しんと静まり返る大きな屋敷は、すっかり薔薇の蔦に覆われているではありませんか。大きな鉄の門も、とげとげとした蔦に覆われています。
これはどうしたことか。
一同がひそひそと不安の声をあげ始めたときです。若者が門に手を伸ばしました。するとどういうことでしょうか。薔薇の蔦は意識を持ったように動き出し、門を開けたではありませんか。
領民たちが恐る恐る中を進むと、蔦に覆われた屋敷から誰かが出てきました。あのお姫様です。
「皆さん、もう心配ありません」
凛とした声が響きました。
そこに朝日が差し込むと、深い赤色のドレスを揺らしたお姫様が「悪い領主は、私が打倒しました」と宣言しました。
歓声が上がる中、お姫様は薔薇の杖を空に向けて掲げました。
領主を失った騎士達もこの地からいなくなり、領民たちは、お姫様を新しい領主として迎えて平和な日を手に入れました。
◆
ナイトドレスに着替えた私は、ベッドの上に腰を下ろすと、昼間にカレンと読んだ絵本を膝に置いた。
最後のページを開き、その挿絵をそっと指でなぞる。
お姫様と優しい若者が手を取り合う姿が描かれている。薔薇のアーチの下、とても幸せそうな絵の一点で、私の指が止まった。それは、お姫様の胸元にある薔薇の模様。
「……似ているわ」
もう片手で、そっと自分の胸元を押さえる。
これが、ヴィンセント辺境伯領で魔女が歓迎される理由。
だから気にするな。そう言いたいのだろうフェリクス様の笑顔を思い浮かべ、私は胸の奥がきゅっと苦しくなる。
閉じた絵本を胸に抱き、私はベッドに体を横たえた。
フェリクス様は私の地味なドレスを見て、薔薇が枯れたようだと言っていた。それに、最初に似合うだろうと言ったのは白いドレス。
絵本に出てきたお姫様の挿絵が脳裏に浮かんだ。もしかしてフェリクス様は、私にこの絵本のお姫様を重ねているのかもしれない。
この地方の子なら誰もが知っているお話だもの……きっと、そうよ。
でも私の胸の烙印は、絵本のお姫様の飾りなんかじゃない。もしも領民がその意味を知ったら、フェリクス様の評判を失墜させてしまうわ。
こんなに良くして下さる方の邪魔だけはしたくない。
私は、やっぱり静かにすごそう。
うとうとと瞼を揺らした私は、背中を丸めた。
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