海の敗北者
各々別行動としてエビルは一人で町並みを眺めながら歩いている。
海がすぐ近くにあり海水は町の中央で川のように流れている。そのため中央には木製の橋が三か所も設置されていて、ノルド町は橋がなければ真っ二つになっている妙な形をしていた。町の最奥にある白い正方形の石畳は格闘大会で使用するリングだろう。
町を歩いていると人だかりができている場所があった。無性に気になったのでエビルはその場所へと歩いて行く。
ただの人だかりではない。興味がありそうだったり楽しそうだったりではなく、憎むような顔をしている人間が多く、近付けば怒鳴り声のようなものも聞こえる。秘術の影響で人々の悪感情がエビルに雪崩のように押し寄せてくる。
「この極潰しが! さっさと働けよ!」
「そうよそうよ、格闘大会での賞金なんか当てにしないで漁に出なさいよ! 魚を獲ってくるのがアンタ達の仕事でしょ!?」
「いつまでもホーストさんに寄生しやがって、真面目に働いている俺達はなんだっていうんだよ! 働けえ! 働けえ!」
とある漁港の一角。立派な灯台に向かって叫びを上げている大勢の大人がいた。
よく見れば明かりの点いていない灯台の窓からは人影がいくつか見えている。その内の一人が窓を開けて声を上げた。
「うるせえよ! 何も知らないくせに、何も知ろうとしないくせに!」
一人が声を上げれば芋づる式のように灯台側から声が上がる。
「お前らが無茶苦茶なこというからこうなったんだろうが!」
「寄生だとか人聞きの悪いこと言うな! 俺達だって真面目に働いてる!」
「そうだそうだ! ただ食っているだけの人間に分かるわけがない、どっか行けよお! 俺達がどんだけ怖い思いしたかも分からないくせに!」
そこからは聞くに堪えない醜い言い争い。自分達の意見の押し付け合いのみに集中し、相手のことを理解しようとしない論争。負けを認めようとする人間がいないので決着がつくはずもなく、このままでは夜まで、体力が尽きるまで叫び続けることになるだろう。
「これは……悪意の波だ。憎しみも、悲しみも入り混じってる」
止めなければいけないのにエビルは一歩も動けない。ダメージを負ったわけでもないのに痛む胸に手を当てる。
これまでも誰かの悪感情を感じ取ることは多々あったが今回は規模が違う。個人の強力な悪意よりも、大勢の人間が一斉に放つ悪意の方がよっぽど身体的な負荷が強い。
『……離れた方がいいんじゃねえの? ああいう怒りや憎悪なんかの感情を多く感じ取ったのは初めてだろ。慣れれば平気だろうが圧倒的に場数が足りねえ』
エビルが色々と感じ取れるようになり始めたのは死神の里に居た頃。
里の葬式では悲しみが強かった、言い方は悪いが怒りや憎しみと比べればまだ生温い。死神の里の後もそういった感情を感じ取ることはあったが大勢からは一度もない。身を焦がすような悪感情は受け取る側も精神的にキツい。ジリジリと、ゆっくり火で炙られているような感覚さえする。今まで旅をしてきた中でそういった感覚に襲われたことはほとんどない。
「あまりに多い悪感情を受け取るとこうなるのか……」
胸や頭が熱くなり、時には寒気が襲う。風邪を引いたような感覚。
辛そうな表情のままエビルはシャドウの言う通りに離れようと思ったが考え直す。エビルが旅をする目的の一つでもある人助けとは、ああいった悪感情を抱く人間を減らして笑顔を増やすもののはずだ。ここで自分が辛いからと逃げては今後も逃げる癖がついてしまう。今自分がやるべきなのは離れることではなく、あの論争を止めることだと気付いた。
どうにかしなければいけない。論争の原因も止める方法も知らないエビルが一歩踏み出した時、その場に新たな気配が加わった。感じ取った気配が後ろからエビルの真横を通り過ぎて集団へ歩いて行く。
「――騒がしいな」
エビルが視線で追ったのは赤のバンダナを巻いていて、筋肉質で長髪の男。
騒いでいた町民が振り返るとその男を発見し、誰かが名前を呟いた途端に静かになる。先程までの怒声が嘘のように灯台側も静寂が広がっている。
「ホ、ホーストさん……」
ホーストと呼ばれた男が近付くと、まるで海を割るかのように民衆が道の端へと寄る。灯台がある場所は柵もなく、続く道は人が五人も横に広がれば封鎖できるような狭さだ。端によった町人の中には海へ落ちてしまう者もいた。
騒いでいた町人達は頬をひくつかせていたり、少し怯えたような目をしていたが、エビルにはホーストのことが恐ろしい人間だとは思えない。
「まったく、まだこんなところまで来て騒いでいるのか」
「そ、それは、だってあいつらが……」
「そうよ……いつまでも働かないし、ホーストさんに寄生してるし」
「このままじゃあ出回る魚の数が減っちまうし」
怯えた顔をしながらも小声ではあるが説明をする町人達。その説明はホーストにとって何の価値もない言葉らしい。
「そんなに彼らを漁に出したいのなら、その前にあなた達が漁に出てみるといい。彼らの恐怖は彼らにしか分からないのだから。実際に海に出て、全てを理解してからもう一度考えてみてほしいんだが……どうだ?」
関係がないエビルですら正論であると思えた。
町人達もうっと息を詰まらせてホーストから目を逸らす。そして諦めたのか町人達は重い足取りで灯台から離れていく。
無意味な論争が終わったことでエビルは胸を撫で下ろしてホッと一息吐く。ああいった怒声や罵倒は聞いていて不快になるだけだ、本当なら最初からやってほしくなかった。
「君、さっきはありがとう。止めようとしてくれていただろう?」
ホーストが歩み寄ってくるのに緊張して顔が固くなる。
「いえ、結局何も出来ませんでしたし。事情も知らないのでどうしようもなかった、というのは言い訳みたいですよね」
「そんなことはないさ。止めようとするだけでも勇気が必要だ、君には人より勇気があったということなんだよ。ああ紹介が遅れたが俺の名はホースト、この灯台の管理人をしている。君は?」
町民達に対しては厳しそうな雰囲気だったが今は優しそうなホースト。緊張が解けたエビルは若干笑みを浮かべて自己紹介する。
「エビルです。この町には仲間と一緒に今日来たばかりで」
「ほお、ということはもしや、格闘大会に参加希望か? 今の時期に来る奴なんざそれくらいだからな」
この町での目的を言い当てられたことよりも、エビルはホーストの言葉に引っ掛かりを覚えていた。
ノルドでは格闘大会以外に魚料理も有名だ。解体ショーだったり、美味しそうな魚料理を販売している店の様子をここに来るまでに見ている。魚方面で訪れた可能性もあるはずなのに、彼は全くそちらを考慮していない。
「どうしてそう言えるんですか?」
「うん? 今この町で観光名物になっている魚が少なくなっているんだ。一応食べられる店はあるが、魚料理店も閉めている場所があってな。その情報も二週間ほど前に他国に伝わっているから今の次期に観光に来るやつなんざ、情報に疎い田舎者か物好きだろう。もしかしてお前もその類か?」
「情報には疎いし田舎者ですけど、僕は世界を旅している最中で寄ったんです。魚や格闘大会に関係なくこの町には訪れたと思います」
「そうか、まあ観光客は意外と多いしな。そういうことなら入れよ。世界を旅するということは必然的に海も渡ることになる。ここにいるのは海の怖さをよおく知っている連中だけだからな」
そう言うとホーストは灯台に歩いて行くのでエビルも付いていく。
海の怖さについて知りたいのではなく、どちらかといえば先程の論争の原因を知りたいと思ってのことだ。
灯台の扉を開くと薄暗い空間に光が射す。中は古臭く、外見から想像がつかないほど汚い。壁にはシミがいくつもあるし、隅には虫が這っている。
「あちゃあぁ、あいつらまた汚したのか? 掃除はこまめにするように言っているんだがなあ。汚れてたら自分達の気分が悪くなるだけだってのに」
「あの中にいた人達……何者なんですか?」
エビルは町人達と口論になっていた灯台内の人間を思い出して問いかける。
灯台をまるで我が家のように扱っている人間達。灯台の管理人であるホーストならば知らないはずがないし、知っていなければおかしい。
壁を指で擦って汚れを確認していたホーストは含み笑いをして答えた。
「……あいつらは、この広い海の敗北者さ」




