第六十九話「撤退」
弾け飛んだ氷の粒がアーシャとアルバートに降り注いだ。
アルバートに引き寄せられたアーシャの瞳が氷の隙間からぎょろりとした目を捉える。
――目が……!?
今までの魔物には、目がなかった。だが、小さいが確かに目がある。
一見モグラのような見た目をしているが、似ているのは形だけだ。モグラのような爪はなく、尻尾も長い。
魔物がにたりと笑うと、不揃いな歯が不気味に輝いた。
地面に落ちた涎が、床を溶かす。
「今までの魔物とは何か違うわ。一度引いて体勢を立て直し……アル?」
反応がないアルバートを不審に思い見上げれば、彼は真っ青な顔をしていた。
初めて見る表情に、アーシャは息を呑む。
――アルでも恐れるなんてよほど強い魔物なのね。
腰に回るアルバートの手がかすかに震えている。
アーシャは彼の手に自身の手を重ねた。
「アル。大丈夫よ」
しかしアルバートからの返答はない。その上、徐々に彼の息が浅くなっている。
怯えだろうか。普段の彼からは想像できない姿に、アーシャは信じられないと言わんばかりの顔を向けた。
――私の声も聞こえてない。どうしたら……。
なんとか普段の調子に戻ってもらおうともう一度声をかけようとした、その時。
魔物がガパリと口を開け、吠えた。
甲高い音が響き渡る。
思わず耳を塞いでしまうほどの高い音が聞こえたのは一瞬で、いつの間にかアルバートの防護魔法が発動していた。
わずかに原型を留めていた窓ガラスは勿論、建物にも亀裂が入るほどの咆哮なのだから、攻撃判定になってもおかしくはない。
アーシャとアルバートに傷一つないのが不満なのか、魔物が地団駄を踏むように顔を振り始めた。
飛び散った涎が、床や建物を無差別に溶かしていく。
アーシャは防護魔法にぶつかった涎を横目にアルバートの腕を引いた。
「アル。皆と合流しましょう。この場で討伐するかはその後決めても遅くないわ」
しかし、藍方石色の瞳は魔物に固定されており、アーシャの声すら届いていないようだ。
視界の端で魔物が短い前足に力を入れたのと、アーシャが魔紙を取り出したのは同時だった。
発動させた炎の魔法が魔物に直撃し、魔物の口から怒りが押し出される。
――アルを連れて逃げるのが最善。でもあれから逃げ切れるとは思えない。なら……。
アーシャの魔法ではほんのわずかな足止めしかできない。
事実、魔物の足取りは緩むことなくアーシャへと向かっている。
アーシャがもう一度、魔紙を取り出した瞬間。
魔物の体に雷や風の刃、水の塊がぶつかった。
それと同時に、アーシャ達の前にシャオラスとルーナ、スノーが着地した。
「どうした!? ってアルの顔色最悪じゃねェか!」
「主!」
「なんかやべーのいるじゃねぇか」
――気がついてもらえばいい。
思い思いに魔物を見やったシャオラス達の笑みが引き攣る。
「魔物達が統率取れた動きし始めたの、アイツが原因かァ?」
「可能性は、ある」
「ビシバシ伝わってくんぜ、アイツが他と違うってことはよぉ」
楽しげなの表情を浮かべたスノーが戦斧を構える。
スノーに続き、各々の武器を構えたシャオラス達にアーシャは静かに告げる。
「やる気満々のところ悪いけれど、すぐにでも撤退したいの」
「あァ、ただごとじゃなさそうだしなァ」
シャオラスがちらりと横目でアルバートに視線をやった。
普段であれば不敵な笑みを浮かべているこの場面だというのに、アルバートの足は地面に縫い止められている。
「少し時間をちょうだい」
「なら暴れてもいいってことだよな!」
アーシャの言葉を聞いたスノーが一目散に駆けだした。
月白の髪が靡き、風に乗って戦斧が振り下ろされる。
衝撃で地面がえぐれ魔物の足が止まった。
「ったく、スノーの奴……」
「単細胞」
「アーシャちゃん任せとけ。そっちは頼んだ」
「えぇ」
シャオラスとルーナも続いて魔物へと向かう。
アーシャは二人を見送り、隣で真っ青のまま固まっているアルバートの顔を両手で包み込んだ。
魔物に固定されているアルバートの目をアーシャへと向かせる。
「アル」
「……」
「私を見て」
「っ」
「今、アルの目の前にいるのは誰?」
「アー、シャ」
コバルトブルー色の瞳が、ゆっくりとアーシャへと向く。
アーシャを映した目に、ほっと息を吐いた。
「ようやく私を見たわね」
「えっと」
「アルが何に怯えているのか、私には分からないわ。でもね、私達は仲間なの。もっと頼って。一緒に帰りましょう」
「っ、あぁ」
「お礼なら帰ってから受け取るわ。転移魔法を頼める?」
にんまりと笑ったアーシャは、アルバートから手を離し問う。
アルバートは小さく頷くと、静かに口を開いた。
「転移魔法は妨害されるから、撹乱のための時間がほしい。そうだな、強めの魔法を何発か出したら撹乱できると思う」
「わかった。それは私達がなんとかするわ。転移はすぐできそう?」
「隙ができればいつでも」
「頼りにしているわ」
アーシャはそう言い残し、自身も渦中へと足を向け、懐からくないを両手いっぱいに取り出した。
持ち手の先に取り付けられた魔紙が、アーシャの足取りと共に揺れる。
魔物の足止めをしている三人にアイコンタクトを送り、撤退だと告げる。
シャオラスとルーナが頷いた同時にアーシャは魔物に向かってくないを投げた。
くないの風切り音が聞こえたのか、アイコンタクトが通じなかったスノーも後ろへと退避してくる。
スノーの後ろで魔物に刺さることのなかったくないが落ち、爆発した。
「あっぶねぇな!」
「間一髪じゃないだけ進歩ね」
「クソが」
よほどくないでの魔法攻撃が逆鱗に触れたのか、魔物が今までにないほど高音で叫ぶ。
耳よりも頭の奥に響くような音に、アーシャ達は顔をしかめた。
地面を抉りながら向かってくる魔物を視認し、アーシャは早口に告げる。
「文句なら後で聞いてあげる。それよりも強力な魔法をうつわよ。でないと転移ができないわ」
「了解。つってもオレは強力な魔法は使えねェが」
「知ってる。主、なにか策、ある?」
ルーナに首を傾げられ、アーシャはもちろんと頷いた。
懐から手裏剣の形に折った魔紙を取り出す。
「まだ複合魔法は使えないけれど、それに似たことを起こせばいいのよ」
大きく口を開け、凶悪な牙をむき出しにした魔物へと魔紙製の手裏剣を投げた。
複数の属性を記し、それを二つ組み合わせた手裏剣は、着弾と同時に大きな爆発を生んだ。
その威力は地面が揺れるほどで、魔物付近で何度もはじけている。
魔物を襲ったのは水と雷が複合されたものや氷、炎と様々だ。
威力の高い魔法に、シャオラスが小さくすげェと呟く。
視界を遮る爆風にアーシャの白髪が攫われる。
うっとうしげに髪を掻き上げたアーシャは振り返り、アルバートへと視線を向ける。
「アル!」
「上出来」
怒り狂った魔物が魔法を発動し、頭上に魔方陣が浮かび上がった瞬間。
アーシャ達の視界は瞬く間に切り替わった。




