第五十五話『理解』
梅の部屋へと連れてこられたアーシャは、今、後ろからアルバートに抱きしめられていた。
アルバートは部屋に入るなり床の間に胡座をかき、入り口で固まってしまったアーシャを浮遊魔法で有無を言わさずに連れ込んだのだ。
肩に顔を埋められ、抱きすくめられてしまえば、彼女に逃げ道はない。
「いつまでそうしているつもり?」
「もうちょっと」
「それ、さっきも聞いたわ」
大げさにため息をついて見せたアーシャが、アルバートの黒色の柔らかな猫っ毛を優しく撫でる。
慈しみに溢れたその行動にアルバートは笑みを深くした。
「強引に聞こうとしないんだね」
「聞いてほしいの? 尋問は得意よ」
「尋問って」
忍び笑いをする彼の言葉を待つ。
「やっぱりアーシャは優しいね」
「……意味がわからないわ」
「好きだよ、アーシャ。狂おしいほどに」
「ねぇ、アル? 流石に脈絡がなさすぎると思わなかったの」
「思った。けど誤魔化されてほしかったな」
のらりくらりと本題に入ろうとしないアルバート。
彼から進んで話してもらえるよう根気よく与太話に付き合うアーシャだったが、段々と心配が呆れに変わっていく。
そんな彼女の心情の変化を感じ取ったのか、彼は一言「ごめん」と呟いた。
――謝るぐらいなら、さっさと心を決めてしまったらいいのに。アルらしくない。……いえ。アルらしい、なんて私が決めることではないわね。私の全てを受け入れてくれた彼に失礼だわ。この脆さだって、アルだもの。
いつも強気なアルバートが目に見えた弱みを見せている。そんな稀有な状況。
――守りたい。と思うのは私のエゴかしら。
アルバートに出会い、心を通わせる前であればアーシャは彼を切り捨てたであろう。
しかし、今は弱った彼に庇護欲を掻き立てられてしまった。
後ろから抱きしめる彼に擦り寄る。
彼の体温が熱い。重ねる体から伝わる心臓の鼓動が少し速く脈打っている。
目も合わせぬまま、アルバートはゆっくりと話し始めた。
「なぜだかは分からないんだ」
「え?」
「誰かと勉強をすると、なぜか一緒に勉強している奴がいなくなってしまうような、そんな気分になる」
非の打ち所がない彼の吐露はひどく弱々しく、消え入りそうだ。
後ろから抱き締められているせいでアーシャが彼の顔を見ることは出来ない。
しかしアーシャはそんな人間の浮かべる顔を知っていた。
不安。恐れ。悲観。そうした隠しきれない幾つもの感情が混ざり合わさった顔をしているに違いない。
「……理由に心当たりはないの?」
「全くない。だからこそ怖い。大切な君まで失ってしまいそうで……」
アーシャを抱きしめる腕に力が籠もる。
「私はもうあなたの前からいなくなったりしないわ。向き合うって決めたもの」
「それは、そうかもしれないけど……」
「じゃあ試してみましょう?」
「アーシャ、なにを……」
困惑するアルバートの腕の中で体を捻り、まっすぐにコバルトブルーの瞳を見つめた。
深憂に揺れる瞳を捉え、訴える。
ここにいる。誰にも消される事はない、と。
「体内を巡る魔素を感じるために、他人から魔力を流してもらうという方法があるらしいじゃない?」
「……あるね」
「やってみせて」
「アーシャ、俺は……」
「ほら、早く。私を私たらしめるものに、他人のものが混じるのは嫌。混じるのであれば、アルのがいい。アルじゃないと嫌だ。……私からのお願い、叶えてくれないの?」
恥ずかしげもなく言ってのけたアーシャは可愛らしく小首を傾げる。
彼女はアルバートの独占欲をくすぐる言葉をわざと選んでいた。彼が断れないようお願いするのも忘れない。
彼女の思惑通り、彼は喉仏を上下させた。
「ずっるいなぁ……」
そう言ったアルバートは、泣き笑いのような、そんな表情を浮かべていた。
アーシャは弱々しく笑った彼に、ニッと令嬢らしくない笑みを見せる。
その笑みはまるで勝利を確信したアルバートのようだ。
「あなたほどではないわ」
「っ、ほんと、俺をどれだけ溺れさせたら気がすむの? あー、もう可愛いがすぎる。愛おしすぎて窒息死しそう」
ぎゅうぎゅうと抱きしめるアルバートはどこか吹っ切れた様子でアーシャへとすり寄った。
――私だって、愛しているわ。
それは、恋慕を自覚したあの時以上に解像度の高い理解だ。
心を殺し続けた彼女が、初めて自覚した本心。
――え、今、私……何を考えたの? こんな……。
アーシャの体温が急上昇し、体全体が真っ赤に染まる。
「今日は一段と恥ずかしがってるね? 可愛いなぁ、アーシャは」
「っ、待って。今、見ちゃいや」
顔を両手で隠すアーシャ。いつもと違う反応にアルバートは少し考えるように首を傾げた。
数秒考え込んだ彼だったが、腑に落ちたのか、先程のアーシャのように勝利を確信した笑みを浮かべる。
「アーシャ。顔見せて」
顔を隠すアーシャを無理やり上に向かせる。
両手を剥がされた彼女は、少し涙を溜めた目で彼を睨んだ。
「アルの馬鹿」
「可愛いアーシャが悪い。ね、キスしたいな。していい?」
「……今それを聞くのは無粋よ」
「それもそうだね」
小さく笑ったアルバートの唇とアーシャの唇が重なる。
柔らかな感触を楽しむかのように、何度も角度を変えて口づけを交わす。
すると、唐突に唇から何かが流れ込んでくる不思議な感覚がアーシャを襲った。
自分のものでない何かが流れ込んでいるにも関わらず、嫌悪感は全くない。
それが魔力だとアーシャが気がつくのに時間はかからなかった。
数分に渡る口づけ。
名残惜し気に離された唇をアーシャは目で追ってしまい、アルバートに笑われてしまった。
「アーシャならこれでもう魔力を自在に操れるんじゃないかな」
「そう言われても困るわ」
甘い空気から一変して、真面目な声色で紡がれた言葉にアーシャは眉を下げる。
体内をとめどなく流れる魔素の存在は理解できても、それを自在に使えるかは別問題だ。
「じゃあ、俺に魔力を流してみてよ」
「そうね。ものは試しだもの」
両手を握られ優しく言われてしまえば、彼女に否という選択肢はない。
彼の男性らしい手を握りしめ、想像する。
巡る魔素の流れを。
しだいに手が温かくなっていく。魔力が集まっている証拠だ。
それを少しずつ分け与える。
「ん。上手」
アルバートが頬に口づけを落とす。
アーシャが頬を掠める黒髪のくすぐったさに目を細めた、その瞬間。
窓ガラスをぶち破り、チカチカと光を放つ狐の魔獣が飛び込んできた。
「っ!?」
それは、暴発の前兆。
寸秒を争う、その局面。
先に動いたのは、アーシャだ。
彼女が懐から魔紙を取り出し投げると同時に、魔獣が爆ぜた。
「アーシャ!!」
「きゃっ」
顔を向けられないほどの風が激しく吹き荒び、熱風が部屋を支配する。
ごとりと音を立てて落下した氷の塊に、アルバートは目を丸くした。
それは彼女が投げた魔紙によって凍った狐の魔獣だ。
「アーシャ。君は、なんてこと考えるんだ」
「え?」
「氷の魔法陣を書いた魔紙を魔獣に投げ付けて、凍結させるなんて……」
「爆発寸前の魔獣が魔素の塊なら、魔紙さえあれば発動すると思ったのよ。でも、魔紙への魔力供給が一足遅くて、少しだけ爆発させてしまったわ」
「これで今日初めて魔法を習ったなんて嘘だろ……」
「正真正銘、初めてよ。魔法理論を習ったのも。魔法を使ったのも」
「天は二物を与えるって本当だったんだね。可憐で、美人で、天才だなんて……。羨ましいよ」
「アル……?」
しみじみと呟いたアルバートは魔獣が弾ける寸前にアーシャを抱き締めていた。
そして、彼女より数秒初動が遅かったものの、防護魔法で爆発から身を守るに徹していた。
彼は二人を覆っていた防護魔法を解き、息を吐いた。
「ごめん。日和った。体が動かなかった。正直、アーシャが側に居なかったら、守れなかった」
「何を言ってるの? ちゃんと守ってくれたじゃない。さっきの……」
「あれは本来、俺の非常用なんだ。俺の意思や状態に関係なく発動する防護魔法。さっきはアーシャが近くにいたから、防護魔法の範囲だったってだけ」
アルバートは申し訳無さそうに種明かしをする。
アーシャの攻撃を阻まれたものの正体をいまさら暴露され、彼女は目を丸くさせた。
――つまり、昏倒していた時も、私が刃を突き立てた時も、今も、防護魔法が作用したってこと……よね。
「それはアルが必要だと思って作った魔法でしょう? それが発動して守られたのに、なんでそんなに卑屈なの? 非常用だろうが、なんだろうが関係ないわ。アルのおかげで私は火傷一つないのよ? 私はアルに守られたの。この事実はどうあがいたって覆らない」
「……アーシャ男前過ぎない?」
「私がどれだけあなたのこと、見てると思ってるの? あの一瞬、この世の終わりみたいな顔をしてたわよ。ガチガチに固まったのも仕方がないわ、誰だってトラウマはあるもの。それを一緒に乗り越えるのが、こ……仲間でしょう?」
アーシャは言いかけた言葉を飲み込み「仲間」と言い換える。
彼は彼女が何を言いかけたのか理解したらしい。憂いを帯びた顔は、みるみる嬉しさを隠しきれないと言わんばかりの笑顔に変わる。
「愛してる、アーシャ。もう二度と迷わない。俺だけのものになって?」
「……嬉しい」
いつもと違い明確な返事を返したアーシャをアルバートは力強く抱き締めた。
――帰ったら、お父様とちゃんと話をしないといけないわね。私の心は、もう……。
「ちょっ、押すなよ! うわっ!?」
彼女が考えにふけっていると廊下から声が聞こえてきた。
派手な音を立てて引き戸が部屋の方へと倒れる。
何事かと視線を向ければ、シャオラスが苦笑いをしながら襖と共に倒れていた。
「盗み見は趣味が悪いんじゃないか? シャオラス」
「オレだけ!? ルーナ達は……っていねェ!!」
「そもそも、お前の耳ならこの旅館全体の声が聞こえるはずだろ? 盗み聞きはよくないよな?」
「いや、顔怖ェ! つーかそれなら心配いらねェよ。陛下の所と同じで、防音魔法が建物全体に施されてて何も聞こえねェからな」
「へぇ、そうだったのか」
「よく言うぜ。分かってるくせによォ」
「ん? なんのことかな?」
いつもの調子を取り戻したアルバートはシャオラスを揶揄うことにしたようだ。
――そういえばあの時『なんも聞こえねェ空間だなァ』って言ってたわね。
意味のない言葉だと思っていたアーシャだったが、理由があると知り合点がいった。
「まァ、なんだ。もうそろそろ戻って来てもいいんじゃねェの?」
「うん。そうだね、戻るとしようか」
「魔獣が現れたことも伝えなければならないわ」
「あーそれなんだけどよォ」
言いづらそうに口ごもるシャオラスを急かすようにアルバートが視線を向ければ、観念したように項垂れた。
「実はあれ、陛下の側近が召喚したのが逃げたんだよ」
「……わかった」
アルバートは抑えきれない殺意に満ちた瞳で頷く。
「ちょっと、アル!? 何が分かったなの!?」
「お、落ち着け! な?」
殺気立った彼を止めるため、アーシャとシャオラスが奮闘したのは言うまでもない。
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