第五十二話『戦闘の装い』
部屋に戻ったアーシャは、普段であればしないような、貴族令嬢としてあるまじき振る舞いをしてしまった自身を恥じていた。
部屋に戻るまでルーナとスノーにからかわれ続けたのだから、当然だろう。
――どうしてあんな事をしてしまったの。婚約者でもない殿方に肌を晒すなんて。
アルバートは自身をアーシャの婚約者だと言ったが、それが真実かは帝国に帰るまで分からないのだ。
――朝月夜だったとはいえ、なんてこと。……でも、見えていたはずなのに、何も言ってこなかったわね。彼なりの気遣いかしら。
右肩を擦り、憂いに満ちた顔を見せるアーシャだったが、控えめなノック音で現実へと引き戻された。
軽く返事をすれば、音も立てずに開かれる引き戸。
「陛下より仰せつかって参りました」
女中が床に両膝を付き深々と頭を下げる。
初めて見る光景に一瞬目を見開いたアーシャだったが、すぐに表情を繕う。
彼女の礼よりも、後ろにあるおびただしい数のドレスや装飾品を視界に入れ、これから起こるであろう出来事を予想してしまったからだ。
「そう。ちなみにどのような命令か聞いても?」
「勿論でございます。ウォフ=マナフ令嬢及びお連れ様を相応に着飾れとのご命令でこちらへ足を運ばせて頂きました」
突然飛び火したルーナとスノーがビクリと体を揺らす。どうやら関係がないと高を括っていたようだ。
「……分かったわ。入ってちょうだい」
「失礼致します」
アーシャが許可を出すと、後ろに控えていたであろう女性たちがぞろぞろとドレスや装飾品を携えて入室する。
い草や木々の主張する部屋に似つかわしくない光景に、アーシャは思わず苦笑してしまう。
一方ルーナとスノーは、早速女性たちのされるがまま着せ替え人形と化していた。
「アーシャ様にはこちらのドレスを預かっております」
コバルトブルーのそれを出され、彼女は眉を困らせた。
誰からなどと聞くまでもない。
彼女にドレスを贈れる立場であり、コバルトブルーの色を持つ人間は一人しかいないのだから。
――ここまで露骨に独占欲を見せられると、感動や喜びよりも逆に冷静になれるわね。
遠回しな告白を受け取ってもアーシャが動じることはなかった。
「とても質の良いドレスですよ。お召になられますか?」
お手本のようにお伺いを立てる女性は、アーシャ達のような来賓を任せられるほどの地位にいるのだろう。
しかし、瞳の奥には淡い期待が宿っていた。
誰がどう見てもアルバートからアーシャへの重い贈り物であるドレス。それを見て期待しない女性がいるだろうか。
他人の恋愛話が嫌いな女性はいない。だからこそ期待せずにはいられない。なにせ、公爵令嬢であるアーシャとアルバートでは身分が違う。それだけで色めき立ってしまうのが性というものだ。
「……せっかくの好意を無下には出来ないわね。それで用意してちょうだい」
「かしこまりました。では失礼致します」
アーシャはされるがままに衣服を脱がされ、ドレスに身を包む。
あえて装飾品は一切身につけなかった。
どんな宝石もこのドレスの前では霞んで見えてしまい、不協和音を生んでしまう。それならば、と装飾品を身につけないと決めた。
そのドレスを一言で表すなら『漢天』や『碧海』だ。
銀色の長い髪はこてで巻かれており、彼女が歩く度、光が反射され艷やかな波を描く。
ドレスの胸元に装飾は一切なく、外界に晒された陶器のような肌の白さを際立たせている。
幾重にも重ねられたドレープやタックは八重波を彷彿させ、裾に向かって色が少しずつ変化し風雅なグラデーションを生み出している。
あまねく星々を連想させる金糸の刺繍とレースが裾に施されている長いトレーンは爵位を意識したものだろう。その長さは、公爵家ひいては王族に連なる身分でも通用するほどに長い。
そしてトレーンには大小さまざまな14輪の青い薔薇が散りばめられている。
彼の色に包まれた彼女は感嘆の声も漏れぬほどに美しかった。
アーシャの桜唇から、憂いの籠もった吐息が漏れる。
「これは予想外だわ」
横目で確認した時は女性たちが大切そうに抱えていたため、ドレスの異質さに気が付けなかったアーシャだったが、一度袖を通し鏡の前に立たされれば嫌でも気が付く。
――帝国の禁色が入ったドレスだなんて、夢にも思わないじゃない。
金色は帝国の禁色である。
しかし、ドレスを用意したであろうアルバートがそれを知るすべは無い。彼は帝国の禁色など知らぬ異世界人なのだから。
――ただの偶然にしては出来すぎよ。それにドレープが長すぎるわ。これでは謀反を企てていると思われてもおかしくない。しかも禁色をこんなふんだんに使うなんて……。いくら無知な客からの要望だったとしても、禁色の入ったドレスなんて作る職人が帝国にいるとは思えない……。
普段であればアルバートからの贈り物に疑問を持つことはない。しかし、あらかじめ仕組まれたように露骨な贈り物には疑惑を覚えざるを得ない。
――着てしまったけれど、このドレスで謁見の場に出ることは出来ないわ。違うものに変えるべきね。
「やっぱり別のドレスに変えたいのだけれど……」
「申し訳ありません。謁見の時間が近づいておりまして……。もし今から変えるとなるとアルバート様のお召し物も変えないといけなくなります。アーシャ様のお召し物と対になっているものですから……。何卒こちらのお召し物でご容赦願えませんでしょうか?」
アーシャに化粧を施しながら、しおらしく時間がないと告げる女性。
――時間がないのならば、私と彼が着替えることは出来ない。でもこのドレスでは……。あぁ、もう。堂々巡りね。何が最適解なのか分からないわ。
彼女が鏡の前で考え込んでいると、後ろで待機していた女性が口を開いた。
「アーシャ様。なにか羽織るものをご用意致しましょうか?」
「……そうね。これに合う羽織はあるかしら」
「勿論でございます」
覚悟を決めたアーシャは一呼吸置いて返事をする。
女性は心得たと言わんばかりに羽織を探しに行った。
露出するアーシャの肩を一目視界に入れるとほんの数秒固まっていた事に、アーシャは気が付いていた。しかし、何も見なかったかのように対応する女性にプロフェッショナルを感じていた。
――気を使わせてしまったわね。
彼女の右肩には消えることのない傷跡が残っている。そのため、舞踏会やパーティーへ招待された時にはデコルテが露出しないドレスを選んでいた。
傷跡を見る前に誂えたのだろう。そうでなければわざわざ傷跡が見えるようなドレスを用意しない。
「傷跡さえなければ、主はドレスも選び放題なのに」
残念そうに言ったルーナは爽やかな草原を思わせるオバールグリーンの可愛らしいドレスを選んだようだ。
胸元の白いレースがアクセントになって、甘すぎず上品な仕上がりになっている。
「お嬢サマも苦労してんだな」
柄にもなく小さくぼそりと呟かれ、アーシャは薄く笑った。
温泉では何も言わなかったスノーが改めて口に出した言葉。このような場が多い貴族社会では大変だろうと考えが及んだのだろう。
普段威勢のよい彼女がバツの悪そうな顔をしていると誰であれ調子が狂いそうになってしまう。
高い身長と豊満な双丘を存分に見せつける白菫色のマーメイドドレスに身を包んだスノー。流石は元聖女と言うべきか。ドレス姿が様になっている。
「貴女がしおらしいなんて、明日は槍でも降るのかしら」
「んだと!? 人がせっかく――」
「余計なお世話よ。私は哀れんでほしくてこの傷跡を背負っているわけではないの。傷跡は誇り。だから、同情も憐憫も称賛もいらないわ」
アーシャが言い切ると同時に女性が羽織を持って帰ってきた。
全体を繊細なレースで編まれた羽織一見肌が見えるのではと心配になる。しかし、羽織ってみるとドレスに施された刺繍と喧嘩すること無く傷跡を隠してくれた。
見事な見立てだ。
「そろそろお時間です。こちらへどうぞ」
「ええ。行きましょうか」
女性に連れられて部屋を出る。歩き出す前にトレーンベアラーに回った女性もいたがアーシャは気にも留めず進む。
そして、案内されるがままエントランスホールへと足を運んだ。
そこにはすでに着飾ったアルバート達が集まっていた。
アーシャを視界に捉えた瞬間、彼は目を丸くしていた。
――独占欲の塊を贈っておいて、なんて顔。察するに、本当に着るとは思っていなかったようね。私と対になるような正装を着ているのに。
彼の反応に釈然としないアーシャだったが、すぐに蕩けるような甘く優しげな表情になったのを確認しホッと息を吐いた。
彼女と対になるような正装を着たアルバートは、彼女のドレス姿を堪能するかのように見、にっこりと笑う。
「アーシャ、すごく似合ってる。でも、装飾の薔薇少し多いね? 取ってもいいかな」
「? 好きにしたらいいじゃない」
自分で用意したというのに許可を取る律儀な姿に首を傾げる。
アルバートは礼を口にし、5つの薔薇を取った。そうして残った9つの薔薇を見て満足そうに頷いた。
「そちらの時計の長針が真上にきましたら転移魔法が発動し宮へ移動します」
案内人の女性に示された方を向くと大きな振り子時計があと1分ほどで正午を告げるところだった。
さり気なくアルバートがアーシャの隣を陣取る。
彼の着慣れない正装を堅苦しそうにする仕草さえも周りに控える女性には魔性の毒だ。たったそれだけで視線を独り占めしてしまった。
しかし、彼女と目が合うとそんな雑念を一切感じさせない完璧な表情に戻ってしまう。
「窮屈でしょう? 隠さなくてもいいのよ?」
「好きな女の前で格好つけなくていつ格好つけたらいいんだ?」
「……スキを見せてくれた方が信頼されてるんだと感じることもあるのよ」
その言葉にアルバートは嬉しそうにはにかむ。そしてアーシャの手を取り、手の甲へ唇を寄せた。
「それが君の望みなら」
「キザだわ」
「王に謁見するっていう時に、俺の色を選んだアーシャには負けるよ」
「……え?」
彼の言葉に思考が停止する。
このドレスは彼からの贈り物ではないのか。
――待って。ドレスを預かっていると言っていただけで、誰から預かったかは聞いていないわ。
ドレスの送り主は誰なのか、考えを巡らせる暇もなく振り子時計が正午を告げ、視界が変わった。
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