第五十一話『温泉』
アーシャは暗殺者には似つかわしくない派手な水音を立てて、無粋な侵入者へと飛びかかった。
「ちょっ、ちょっと待って!」
聞き覚えのある低音にアーシャは固まってしまう。しかし、飛びかかった勢いは止まってはくれない。
着地に失敗した彼女は、ばしゃんと盛大な音を立てて前のめりになったところを片腕で力強く支えられた。
彼女の重みで柔らかな双丘が形を変える。
不可抗力とはいえ触るべきではない場所に触れてしまった罪悪感からか、早々に優しく湯船へと戻された。
ゆったりと風が吹き、湯けむりが晴れる。
彼女の目に飛び込んできたのは、しっかりと鍛えられた肉体美だ。シックスパックに割れた腹筋。困惑しきったコバルトブルーの瞳。湯がしたたる烏の濡れ羽のような黒髪。
それは誰なのか。考えるまでもない。
「きゃあああ!!」
アーシャはようやく理解が及び、反射的に叫んだ。
彼女は飛びかかった時よりも素早く、それでいて勢いよく後ろへと下がり、湯船へと身を沈める。
耳まで真っ赤に染めアルバートに背を向けた。
対するアルバートは腰にタオルを巻いて、湯船から上がる。
「なんで、アルがここにいるの!?」
「いや、それは俺のセリフだと思うんだけど……ここ男湯、じゃなかった?」
「そんなことないわ。女湯のはずよ」
アーシャの言い分を聞きながら、アルバートは脱衣所に続く扉を開こうと力を込め――
「……開かない」
「え?」
いくら力を込めても開かない扉にアルバートが舌打ちをする。
「探知が使えない弊害か……あとでシメる」
小さく呟かれた言葉が彼女の耳に届くことはなかった。
「私達閉じ込められたってことよね?」
「そうだね。まぁ多分仕掛け人はシャオラスだろうし、とりあえず待っとけば開くんじゃないかな」
大きなため息をついたアルバートが足早に歩みを進め、もう一度湯船に浸かる。
彼の気遣いか、アーシャからだいぶ離れた位置を陣取って座った。
衝撃から幾分か回復したアーシャが意外そうに呟く。
「隣に来ないのね」
「……来てほしいの?」
気まずさに静まり返る空間。
――いつもならこれ幸いと隣を陣取るのに……どういう風の吹き回しかしら?
いつもと反応の違うアルバートに困惑しながらも、アーシャは口を開く。
「これまで色々あったけど、今でもアルは元の世界に戻りたいと思わないの?」
アルバートの家で同じ質問をした。
その時は、戻りたいと思わないという答えだった。
しかし、その時と今では状況が大きく変わっている。帰りたいと考えが変わっていてもおかしくはないだろう。
――帝国に指名手配をされてウルスラグナまで逃げてきたのだから、逃亡生活が嫌になってもおかしくはないわ。
帝国に勝手に召喚された彼には、元の世界へ帰してくれと言う権利があるのだから。
たとえそれが実現不可能だとしても、口に出すのは自由だ。
唯一気がかりなのは、彼を召喚したあの魔法陣はもう機能しないということ。
もし彼が帰りたいと言ったとしても、その願いが叶うことはない。あくまでも帝国からであれば。
――帝国からアルが帰ることは出来ない。じゃあ、ウルスラグナからであれば……?
魔法も科学技術も発達したウルスラグナからであれば、アルバートは元の場所に帰ることが出来るかもしれない。
彼にとっては小さな希望だが、アーシャのとってそれは死の宣告に等しい。
温かな湯に包まれているというのに、なぜだか背筋が寒くなってしまった彼女は腕を温めるように擦った。
本来であれば彼女の不安げな瞳にいち早く気が付くはずのアルバートが彼女の変化に気が付くことはなかった。
なぜなら、彼女の顔どころか姿さえもその目に捉えていないからだ。彼女の変化に気がつけるはずもない。
「俺の答えは前と変わらないよ。それに、こんな可愛い娘と両思いになって帰るなんて、ありえないでしょ」
アルバートの返答に、柄にもなく緊張していたアーシャはひっそりと息を吐いた。
「……私は好きと言った覚えはないわ」
「愛称で呼んでくれてるのに?」
「そっ、それとこれとは関係ないでしょう!?」
いつものように軽口を叩き笑ったアルバートだが、こころなしか頬が赤く染まっている。
それは少しの違和感。
湯船に浸かっているからかと最初は気にもとめなかったアーシャだったが、いつものように優しい眼差しを向けてこない彼を不審に思った。
彼女がじっと視線を向けると、居心地の悪そうに身じろぎをする。
「そんなにジロジロ見られると困るんだけど」
目を向けられることなく投げられた言葉はいつもの甘い声色ではなく。
「まさか、恥ずかしいの?」
「……」
質問にも無言なアルバートに、アーシャは確信を得た。
翻弄されっぱなしの彼女は、むくむくと湧き上がる悪戯心を抑えることが出来なかった。
自身に目を向けないのをいい事に彼の視界に入らぬよう、ゆっくりと近づいていく。
戦闘中のような感の良さはなくあっさりと背中を取られるアルバートに、アーシャはますます笑みを深くした。
――いくらなんでも無防備すぎるわ。隙だらけよ。
暗殺者の本分を存分に発揮したアーシャは、気配を殺し標的に近づく。
そして、自身の柔らかで豊満な双丘を惜しみなく彼の背中に押し付けた。
ぎくりとアルバートが固まったと目に見えて分かり、アーシャはますます笑みを深くする。
「ねぇ、どうして私を見ないの? ねぇ?」
揶揄うような口調で彼の肩に手を添えた。
固まってしまった彼がゴクリと息を呑む。
「っ、流石に、これは予想外なんだけど……?」
アルバートが初めてアーシャに視線を向ける。
やっと自身を映した瞳にアーシャは満足げに笑う。
そんないつものアーシャであればしないような大胆な行動に、彼も当惑しているようだ。
「いつも私を揶揄ってくれるお返しよ」
「だからって、これは極端すぎないか? ただのスキンシップで真っ赤になって照れたりするぐらい、うぶなのにな」
「そっそれはアルが積極的すぎるからで……。って、話を逸らさないで。私が反撃するなんて思ってもいなかったんでしょう?」
「まぁ、それは否定しない」
お互いの体温が移ってしまいそうなほど密着した事は初めてで、その意味をアーシャは理解していない。
理解しているのはアルバートだけだ。
だからこそストッパーがいつ来るか分からないこの状況では迂闊には動くけないだろう。
彼の焦る心とは裏腹に、アーシャは清々しい笑顔で言ってのける。
「もっと焦った顔を見せて?」
「これでも結構焦ってるんだけど……。アーシャは俺をどうしたいの?」
「え? そんなの決まっているじゃない。今までのお返しをするだけよ!」
得意げなアーシャ。
やっぱりかという気持ち半分、呆れ半分のなかば諦めの乾いた笑みを浮かべたアルバートは白旗を上げる。
「分かったから、そろそろ離れようか」
「どうして? 恥ずかしさで死にそう?」
「そうだね。だから離れてくれる? ……まぁ後で思い出して死にたくなるのはアーシャだけどね」
ぼそりと最後に呟いた言葉は風に攫われてアーシャには聞こえなかった。
アルバートの言葉に従い彼女は少しだけ後ろに下がる。
「なんて言ったの?」
「お子様なアーシャはこれが限界だよね。って言ったんだよ」
「馬鹿にしないで。私だって諜報員として、こういう行為もする事があるのよ?」
口からこぼれ出た虚勢に、アルバートの空気が変わった。
背筋が凍るような気配にアーシャは身体を強張らせる。
「ふーん? じゃあ、貴族令嬢だからって遠慮しなくてもいいってことだよね?」
「え? いや、その……」
効果音をつけるのならば、ゆらりだろうか。
ゆっくりと後ろへと向き直ったアルバートは、とてもいい笑顔をしていた。
アーシャは両手で身体を隠しながらも後ずさりをしようとするが、そこはすでに行き止まりだ。
背中に当たった岩の感触に青褪める。
「……まったく。キス以上の行為も理解してないのに、調子に乗らない。まぁ、俺はいつでも歓迎だけどね」
アルバートがアーシャの頭を撫でて立ち上がる。
小さく悲鳴を上げるが、彼女が心配しているような光景は現れなかった。
一瞬視界が暗転し、何事かと思った時にはすでに、アルバートは腰にタオルを巻いて出入り口の扉へと足を運んでいたからだ。
先程と打って変わって簡単に開いた扉の向こうへ消えていくアルバートを見つめ、アーシャは呟く。
「なによ、もう……」
冷え切ってしまった身体を温めるため肩まで湯船に浸かった。
そして、彼にした事を思い出す。
――わ、私はなんてはしたない事を……。婚約者もいるというのに……。
アーシャが悶え死にそうになっていると、突如降ってきた声。
「なんだぁ? 面白くねぇなここでおっぱじめればよかったのによお」
「流石に、それは、主じゃむり」
声の正体は竹垣を飛び越えてやってきたルーナとスノーだ。
二人は意味ありげにニヤニヤと顔を歪め笑っている。
「あなたたち、仕組んだわね!?」
ぎょっと目を剥いたアーシャの叫びが虚空へと消えた。
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