第四十二話『暗殺者VS召喚者』
夜の漆黒に月が抱え込まれ、星々の光だけが暗闇を照らす夜。
アーシャは思わず笑みを浮かべた。
スノーと対峙した場所で、毛布を敷いて呑気にも寝息を立てるアルバート。
彼の軽率な行動に、好機だと判断した彼女は、木から飛び降り音を殺して彼に忍び寄った。
発煙弾を使い彼の元から逃げ出したアーシャだったが、アルバートが追いかけてくる事はなくすぐに歩みを止め、引き返したのだ。
元の場所へ戻れば、すでに彼は寝息を立てており、罠だと感じた彼女はすぐに行動に移すことはせず、木の上で様子を窺っていた。
それから数時間経ち、ただ寝ているだけだと判断した彼女は行動に移す事を決意した。
――今なら、シャオラス達も居ない。今しか機会はないわ。
地面に降り立った彼女は、あと数センチでアルバートに触れられる距離に素早く移動し、寝息を立てる彼を見下ろした。
――殺そうとすれば反撃してくれるはず。そうでなくとも、一思いに苦しまぬよう殺せるなら、良い事よ。今までもそうだったでしょう? 皇帝の命は絶対順守。私に逆らうすべなど……。
アーシャは縋るような視線をアルバートに向けるが、彼が答えをくれるわけではない。
帝国のためになる良い事だと、正しいと思っていたが、本当は悪い事であった。
理解はできているが、その矛盾に立ち向かう勇気は、今のアーシャにはない。
音が立たぬよう細心の注意を払って短刀を抜く。
――私は正義じゃなかった。ねぇ、そうでしょう? だから早く私を終わらせて。
震える手を押さえつけ、勢いよくアルバートの喉に短刀を振り下ろす。
振り下ろしたはずの短刀は甲高い音が鳴り、弾かれた。
彼女の手から離れた短刀が地面に落ちる音が聞こえ、アーシャは反射的に後ろに飛び退く。
先ほどまで彼女の立っていた場所には、鋭利な氷の塊が突き刺さっていた。
――なぜ、避けてしまったの……?
死に対する恐怖はない。
自分という存在が居なくなる事も、一瞬の痛みも、覚悟した筈だ。
――なのに、なぜ……。
心と体が切り離されたかのような感覚に陥ったアーシャは絶望と愕然の入り混じった表情を浮かべた。
立ち上がったアルバートに視線を向ければ、重い溜息が聞こえた。
「……やっぱり君か。どうして俺を狙うんだ? 監視の最中に帝国の闇をずっと見てきただろ?」
彼の言葉にアーシャはさながら駄々っ子の子供の様に、落ちていた木の枝を投げ付ける。
それは間合いに入った途端、簡単に彼の剣技によって防がれてしまうが、それは視線を彼女から逸らせる手段に過ぎない。
袖口から新しい得物を取り出し、彼女はもう一度彼の喉に向かってナイフを突いた。
しかし剣先が彼に届くことはなく、彼を覆う何かに阻まれてしまった。
力を込めても進まない刃先。この阻まれた感触をアーシャは知っていた。
――昏睡状態の時にも同じような事があったわ。
あの時は、アーシャの覚悟が足りなかったが故に、彼を殺すことが出来なかったのだと思っていた。
だがその認識は誤りだったと、証明されてしまった。
アーシャは唇を噛み、アルバートを見上げる。
「諦めなよ。そもそも俺に戦う意思はない。だから君も武器をおさめて欲しいんだけど……。その様子だと無理かな? そんなに俺に殺してほしい?」
アルバートを覆うものがなくなり、降参と両手を上げた彼の困ったような瞳と目が合う。
夜の闇に染まった黒髪と、藍方石のような瞳のなんと幻想的なことか。
アーシャはその美しさに心を奪われ言葉もでない。
「君はどうして俺を殺そうとするの? ……あぁ、俺を殺そうとすれば激情に飲まれて君を殺すと思った? それに、俺の暗殺命令だって帝国に恨みを買うような事をしてないのに、おかしな話だよね……っと危ないなぁ」
アーシャが薙いだナイフの攻撃を、彼はいとも簡単に避けてしまう。
そんな彼に舌を巻きながら、彼女は硬い声で呟く。
「もう少し、抵抗したらどうなの? 私はあなたを殺そうとしているのに!」
「やっと声が聴けたね。俺が君を殺す事はないよ。大事で大切な人だ」
そう言って笑う彼をアーシャは理解できなかった。
――どうして? 私はあなたに……アルバートに殺して欲しいのに……。
いやに喉が渇く。それに、心なしか鼓動の音がはっきりと聞こえる気がする。
両足に力を込め、
「命が全うできない影は処分される。存在意義のないただの役立たずに成り下がるだけ。だから、私はあなたの首を頂戴するか、あなたに殺されるかしか道がないの」
そう言い切ると同時にアルバートの懐へ飛び込んだ。
うなじ辺りに強い衝撃が響き、手刀を食らったのだと悟ったが、アーシャの意識は少しずつ暗闇へと落ちていく。
「可哀想なアーシャ」
優しい声とは裏腹に、彼の瞳の中には揺らめく炎が燻ぶっている。
その熱の籠もった瞳に、薄れゆく意識の中で“食べられそうだ”と彼女は感じた。
アルバートの柔らかな髪が頬を掠め、ちくりとした痛みが首に走る。
――あぁ、やっと……。
その痛みに安堵して、彼女は意識を沈めた。
◇◆◇
意識が浮上し目を開けたそこには、アルバートの綺麗な顔が眼前にあった。
アーシャは声にならない声を上げ後ろに下がったが、そこは壁で逃げ場などなく、自分が彼と同じ寝台で寝ていたのだと理解した。
そして、布団の中の自分の姿に目をやり、さらに目が零れ落ちんばかりに見開いた。
いつもの真っ白な服ではなく、下着だけのあられもない姿。
目の前の男が脱がしたと考えるのが正解ではあるが、裸でないだけマシだと考えるべきなのか、考えがうまく纏まらず混乱してしまう。
明るい窓の外と彼を交互に見比べる。
――どういう状況? 今は朝、よね? 服は? というか、この状態で何もされてない? なんで??
服を脱がされているという事以外は普段と変わらない。
初めての体験の後によく聞く腰の気だるさもなく、ますます下着姿の理由が謎に包まれていく。
布団の中で頭を抱えていると、肩を揺らして笑うアルバートが目に入った。
いつから起きていたのだろうか。
「なに一人で百面相してるの?」
「いや、あの、私の服は?」
「あー……。ルーナが逃げられないように脱がしとこうって」
「……強硬手段すぎて、成すすべもないわ」
ルーナならやりかねないと感じてしまうため、アーシャは項垂れるしかない。
「俺は一応反対したんだけどね。もちろん君の肌も見てないよ」
「……そう。おおかた下着だけだと寒いからとか言われて、一緒に寝る事になったのでしょう?」
「まあ、そんなところかな」
アーシャと喋っている間も、彼は身じろぎもせず彼女の肌が外気に触れぬよう気を使っていた。
「ねぇ。どうして、殺してくれないの? 私はこれまで良い事をしてきたつもりだったけど、それが悪い事だったのなら、私はいなくなった方がいいと思うの」
「極端だなぁ。悪いのは帝国であって、それを是と言われて育ってたんだから、アーシャは悪じゃないよ」
アルバートの諭すような言葉に、アーシャは思わず飛び起きて大声で否定する。
冷たい空気が肌を刺すが、それすらも気にはならない。
「そんなわけないじゃない!!」
起き上がり肌を晒したアーシャに、彼は起き上がって彼女の体に布団を巻く。
布団を巻かれた姿はまるで雪だるまのようだ。
「アーシャ、落ち着いて。……ねぇ俺も男なの、忘れてない?」
布団越しに抱きしめられ、耳元で艷やかな声を浴びせられた彼女は顔をりんごの様に真っ赤に染めた。
肌を晒してしまた事に対する羞恥心なのか、彼の声に反応した結果の赤面なのかは定かではないが、彼女は目に見えて大人しくなった。
軽い抱擁から解放された彼女は小さな声で呟く。
「いっそ手を出してくれた方が、嫌いになれたのに……」
「好意のある相手に嫌われるような真似はしないよ」
「そうね。あなたはそういう人だわ」
アーシャは苦笑を溢す。
「どうしても、これまでしてきた事を気に病むのであれば、楽になれる方法教えてあげようか?」
「……そんな魔法みたいな方法あるの?」
恐る恐る聞く彼女にアルバートは綺麗な笑みを浮かべた。
「暗殺者のアーシャは俺との戦いに敗れて死んだ。だから、今のアーシャは暗殺者でも何でもない、ただ少し強いだけの可愛いお嬢様」
「ふっふふ、なにそれ」
笑う表情とは裏腹に、彼女の瞳から思わず溢れだした涙。
それは安堵か、はたまた後悔か。
泣き出したアーシャを見て慌てだしたアルバートは、彼女を抱きしめ背中を優しく叩く。
子供をあやすような仕草に、止まることのない涙を流しながらアーシャは笑った。
「ありがとう。少しだけ、救われたわ」
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