第三十九話『疑惑』
一人きりにさせて欲しいとレモラの願いを聞き届けたアルバート達は、一時間後甲板へ集まる事となった。
なぜなら、キキョウが「一時間後にはウルスラグナ本土に到着しますぞ」と言ったからだ。
帝国製の船では一日と六時間かかるはずの海路を、たった一時間で進む魔の国製の船。帝国製の船も超弩級と呼ばれるほどの大きさをしていたが、それとは比べ物にならないほどの大きさを誇っていた。
その船の一室で、アルバートに有無を言わさず連れて来られたアーシャは寝台に腰掛けていた。
一時間の間に身支度を整えなければならないが、彼女には身支度をするほどの荷物はなく、彼の身支度を眺めるだけになっている。
船の中だというのに、客間のように整った部屋。揺れすらも感じさせず、船の中である事すら忘れてしまいそうだ。
「そもそも、なんで私とあなたが同じ部屋なのか、理解に苦しむわ」
「って言っても、一時間だけなんだし文句言わない」
「……何故レモラに加勢しなかったの?」
正論を返された彼女は話題を逸らした。
そんな彼女にアルバートは少し肩を揺らして笑い、笑いが収まった後、真剣な声色で言葉を紡ぐ。
「レモラの要望だったんだよ。手を出さないで欲しいって」
「あなたは仲間が殺られそうになっても、約束を守るの?」
「耳が痛いな。完全にノーマークだった奴の反撃ほど、恐ろしいものはないって痛感したよ」
レモラを撃った相手は、アルバートですらも気付かないような手練だったのだろうか。
アーシャが疑問に思っている事を悟ったのか、彼はそうじゃないと首を振る。
「正直、戦力外だと思ってたんだ。何もできる事はない弱者。そんな弱者が動けば、事態は一変するのを、俺は知っていたはずなのにな……」
初めて吐露された弱音。
いつもの強気な表情はと打って変わって、彼は悔恨の色を滲ませる。
「あなたでも、防げない事があるのね」
「俺は完全無欠の完璧超人ではないからね。一応、普通の人間のつもりだよ」
彼はそう言って力なく笑った。
レモラを守れなかった事が堪えているようだ。
アーシャはそんな彼を励まそうと口を開くが、何を言えば励ましになるのか分からず、言葉を発する事なく口を閉じた。
何か話さなければと彼女は模索する。だが、いつもは話題を提供してくれる彼が口を閉ざしてしまえば、変に辛い空間が出来上がるだけだ。
海の底に沈んだと錯覚しそうなほどに重く、苦しい沈黙が降りる。
彼が身支度を進める音だけが部屋に響いていた。
ごすんと音を立て、分厚い本が床に落ちた。
「うわっ!?」
「ふふっ、あなたもそんな声出すのね」
彼の素っ頓狂な声に思わず笑ったアーシャ。
笑われた事が恥ずかしかったのか、彼はごまかすように落ちた本を拾い上げる。
古びた本だが、擦り切れや日焼けた跡もなく状態がとても良い。
「これは?」
「カーティアの民だったか、そこの長に定期市で貰った……いや押し付けられたか?」
「何が書いてあったの?」
カーティアの民は占いに長けた一族だ。
そんな一族の長から渡された物に興味を惹かれない筈がなく、アーシャは立ち上がりアルバートの隣へ移動する。
「まだ見てないんだ」
「律儀そうなのに、すぐ読まなかったのね」
「実のところ、書物はあまり得意じゃないんだよ」
「あなたにも苦手な物があって安心したわ」
くすりと笑った彼女を見た彼は頬を掻き、本を差し出し問う。
「暇なら読む? 出発までもうそんなに時間はないけど」
「私が読んでいいのかしら……?」
本がアーシャの手に渡り、表紙を捲ろうと手にかけた直後。
「アーシャ! 待った!!」
焦った声に驚き、彼女はピタリと固まった。
その行動に安堵したのか、彼が「ごめん」となぜか謝罪を口にする。
「一回返してくれる?」
「ええ。元々あなたの所有物なのだから、謝る必要なんてないのよ。……それで、どうしたの?」
「これ、所有者以外が開こうとすると発動する魔法が仕込まれてる」
アーシャから本を返されたアルバートは「あんの狸め」といつもより乱暴な口調で言葉を吐き捨てた。
彼の紳士らしからぬ行動に彼女は目を丸くすると同時に、一つの考えに達した。
――カーティアの民も魔法が使えるという事、よね……?
彼は大きなため息をつき、本をテーブルに置くと一思いに表紙をめくる。
「……地下都市ジャンナ」
「地下都市? 聞いた事ないわね」
アーシャは彼の横から本を覗き込んで、可愛らしく小首を傾げる。
その本は古代語で書かれていた。
――なぜ、読めるの?
彼女ですら解読に時間を有する言語だ。考古学者でない限り学ばないその言語。
それをなぜ彼は読めるのだろうか。
彼女を支配したその違和感は二度目で、違和感の正体を探ろうと頭を働かせる。
――どう考えてもおかしいわ。本来ならありえない事も彼が召喚者という事で説明がついてしまう。そうだとしたら、召喚者にはどんな言語も彼に分かる言語へと翻訳される……?
仮に彼が話している言葉が彼の世界の言葉だとして、この世界に適応できるよう勝手に彼女達の使う帝国語に変換されているという可能性はないだろうか。
彼がウルスラグナ語を読めた理由もそれで辻褄が合う。
――そういうことにしときましょう。
これ以上考えたところでハッキリとした答えが出るわけでもない。
そう一人納得したアーシャは、いまだ返事を返さない彼に声をかけた。
「ねぇ、聞いてる?」
「確かにこれは、保護魔法をかけるべき遺物だな……」
アルバートは彼女の疑問にも答えず、独りごちる。
会話が成り立たず、思わず眉を寄せた彼女にやっと気が付いた彼は困ったように笑う。
――遺物?
聞き捨てならない言葉が聞こえた気がした彼女は、今度は無視されないようにと真っ直ぐに彼を見つめ、問いかける。
「どういう事?」
「……ごめんね。アーシャの質問には全部答えてあげたいけど、今は答えられない。いずれ時が来たら話すよ」
「なにそれ」
「そうだなぁ。じゃあ、もしアーシャが俺と結婚したいと思った時に教えてあげる」
良いことを思いついたかのような口調で紡がれた言葉。
そんなアルバートの自分勝手な提案に、アーシャは押し黙った。
彼女は出発前、己の父に言われた言葉を思い出す。
――私には、選択肢などないわ。添い遂げる相手は決まってしまった。
二度と覆らない決定だ。
彼女が嫌だと泣き叫んだところで、父は認めてはくれないだろう。
「私は、あなたとは結婚できないわ」
「どうして? 婚約者がいるわけじゃないだろう?」
婚約者。
その単語に固まった彼女に、アルバートの顔から表情が抜け落ちた。
神ですら魅了してしまいそうな美貌に表情がなくなると、無機質な人形のようで恐ろしいのだと、彼女は初めて知った。
神秘的だと感じたはずのコバルトブルーの瞳にも一切の感情がなく、本物の藍方石かと見紛うほどだ。
地雷を踏んだのだと、アーシャが認識した時には遅く、背中に少しの衝撃と柔らかな感触が広がった。予想外の衝撃に思わず目を閉じた彼女が次に見た景色は、眉一つ動かさず覗き込むアルバートと天井だった。
――見えなかった。
彼女がそう思うと同時に、両手首が締め付けられる。
「ちょっと、痛っ」
両手を寝台に縫い付けられ、彼女は痛みに声を上げた。
だが彼は気にした素振りもなく、ただ見下ろすだけ。
「アルバート」
「……なに」
彼女が名前を呼べば、間を置いて返ってくる言葉。
理性を失ったわけではないと分かり、彼女は力を抜いた。
そんな彼女に、薄く笑った彼。
「ねぇ、アーシャ。この状態で力を抜くって意味、理解してる? 俺は今、君を押し倒してるんだけど」
「本当に悪い人は、そんな忠告しないと思うわ」
「君は、俺のこと聖人君子か何かだと勘違いしてない?」
アルバートはため息と共にアーシャを抱き起こし、軽く口付けを落とす。たったそれだけで頬が熱くなる。
寝台に座った彼女の隣に、彼も腰を下ろした。
「やっぱり優しいわ」
ゆったりと彼女は笑った。
しかし彼は不服だったようで、いつもより乱暴な言葉を投げかけた。
「これまで婚約者なんて一言も口にしなかっただろ。いつから居た?」
その問いに答えられず彼女は視線を逸らす。
水を打ったような静けさが広がる。
いたたまれない沈黙に折れたのはアーシャだった。
「……船が出航する前よ。顔も合わせた事もなければ、相手の名前すら聞いてないわ。唯一聞いたのは、私を幸せにしてくれる殿方という事のみ。愛のない結婚生活を送ってほしくないと、それがお父様の意向」
「それ、君はちゃんと話を聞いたの?」
「? どういう事?」
いつもの優しい口調に戻った彼の言葉がうまく飲み込めず、アーシャは首を傾げた。
彼女は父の話を最後まで聞いた。それは紛れもない事実だ。
アルバートは少し目を細め探るような視線を彼女に向けた。
初めて見せる彼の様子に彼女は身体を強張らせる。
「君の父親は、愛のある結婚をしてほしいと言っていたんだろう?」
「ええ、そうなるわね」
「じゃあ君の婚約者は俺なんじゃないの?」
彼の推測に、アーシャは石のように固まってしまう。
どうしてそのような話に飛んだのか、理解が及ばない。
「そ、そんなわけないじゃない」
それがやっとの思いでひねり出した言葉だ。
「アーシャのお父さんって、キレ者そうな銀髪オールバックの人でしょ? 召喚された俺を部屋に案内してくれた」
「そうね」
「じゃあ、帝国にはアーシャと釣り合う男なんていないって既に把握してそうだけど、いまさら何で婚約者が決まるの? 今まで一緒に居て思ったけど、アーシャが跡取りだよね? 帝国で婿入りはあまり好まれないって聞いたし、俺なら条件にピッタリじゃない?」
目を丸くして驚くアーシャの手を取り手の甲に唇を寄せた彼から、トドメの一言が落ちる。
「俺なら腕も立つし、婿入りだって大歓迎。なによりアーシャを愛してる」
ボンッと音を立てて彼女は赤面し、顔を見られないように俯く。
ふるふると震え出した彼女を心配し、彼が顔を覗き込んだ瞬間、勢いよく顔を上げた彼女が叫んだ。
「わ、私はあなたの事なんとも思ってないわ!!!」
そう捨て台詞を吐いて、銀色の髪を靡かせ彼女は脱兎のごとく逃げ出した。
それが、一人部屋に残されたアルバートが最後に見た彼女の姿だった。
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