第三十六話『破滅への序曲』
朝日が昇り、朝の青い光と清々しい空気が巡る。
アーシャ達は今、シャオラスに連れられて朝市と呼ばれる市場に来ていた。
帝国の市場とは違い建物の中に市場があるようで、初めて見る構造の建造物にアーシャとルーナ、そしてレモラは圧倒されていた。
――魔の国は、私達が知り得ない技術を持っているのね。
薄いガラスの中で生きた魚が泳ぐ。
魚だけでなく、貝類や海老などの甲殻類が生きたまま商品として並べられている様子は、帝国では見ることも出来ない。
なぜなら帝国では、魚は香辛料漬けにして保存できるように加工したあと、市場に出回るからだ。
数え切れないほどの海の幸が並んだ光景は圧巻で、その上、全てが捕れたてらしく鮮度が高い。
漁師が開く朝市では、それらをその場で捌いてもらう事も、食べる事もできると言うのだから驚きだ。
アーシャ達を先導し、市場に並ぶ魚をゆったりとした足取りで見て回っていたシャオラスが何かを見つけたのか歩みを止めた。
「おっ、のどぐろじゃねェか!」
「お目が高いね! それは今日一の品だよ。買っていくかい?」
どうすっかなと頭を掻くが、しまったと顔を歪めるシャオラス。
「おっちゃん、悪ィ。オレらアルビオン帝国の金しか持ってねェわ」
彼は本当に悪いと思っているのか、バツの悪そうな顔をしている。
威勢よくアーシャ達を連れ出したシャオラスも、連れ出された彼女らもまたウルスラグナのお金を持ってはいない。
「なんだ、そんな事か。アルビオン銅貨でも金は金だよ」
「いや、アルビオン帝国とウルスラグナじゃ物価が違いすぎるだろ。アルビオン銅貨千枚がラグナ銀貨一枚の価値だったか?」
「その認識であってるよ。まぁ、この国には銅貨は存在しないからな。アルビオン銅貨に釣り合いが取れないのは確かだし、帝国と取引するためだけに造った金貨と銀貨も今じゃ廃れてきたのも確かだ」
「本来の通貨は紙幣だしな。しゃあないわな」
けらけらと笑うシャオラスに釣られて漁師も豪快に笑う。
「よっしゃ、わざわざ帝国から国民を返還しに来てくれたんだ。サービスしてやるよ!」
「いや、流石に悪いから俺が払うよ」
静観していたアルバートが初めて口を挟んだ。
彼は懐から薄っぺらい長方形の紙を取り出し、漁師に渡す。
紙を受け取った漁師が目をひん剥いて、魚のように口をパクパクと声にならない声を上げた。
「い、いや、これは流石に受け取れねぇよ」
漁師がやっと絞り出した声に、紙を返された彼は残念そうな顔をした。
「そうか。なら仕方ないね」
「……まったく、兄ちゃん何者だよ。サービスしてやるから、それはもう出すなよ」
「ええ、そうします」
彼は苦笑いをして頷いた。
「ねぇ、何出したの?」
アーシャは彼の隣にいたが、紙としか判別出来なかったため、持ち主に聞くことにした。
「んー……秘密」
「なんでよ」
唇に指を寄せ妖しく微笑むアルバートに絆されそうになるが、その手に乗るかと己を鼓舞してアーシャは言葉を口にする。
「秘密があった方がミステリアスだろ?」
「……聞いた私が馬鹿だったわ」
漁師の反応は気にはなるが、ただの見栄だろうと判断してアーシャは口を閉ざした。
彼女が黙り込んだのを見計らって、レモラが口を開いた。
「ここの方々は皆さん親切ですね。僕らみたいな見ず知らずの帝国人にも優しく接せられる心の広さ。感服します」
「よせやい。褒めても魚しか出ねぇぞ」
「魚は出るんだ」
ルーナが的確なツッコミを入れる。
彼女の言葉を気にも止めず、漁師はシャオラスが目を付けていたノドグロを五尾と、赤い鱗の大きな魚を一尾手に取った。
「ここで食うだろ? 待ってな」
そう言い残して、裏方へと消えて行った。
漁師がの姿が見えなくなった事を確認し、シャオラスがにやりと笑う。
「食べた後、魔導輪でも借りてドライブしようぜ!」
「いいな。シャオラスは運転できるのか?」
「オレ? できねェよ?」
「意味ないじゃないか」
「アルは運転できるだろ?」
「確かにできるが……」
アルバートとシャオラスの二人で話が進んで行く。
それに耐えられず、思わずレモラが口を挟む。
「待って下さい。二人で話を進められては困ります。魔導輪とはなんですか?」
「魔導輪ってのは……あー、なんつうか、言葉で説明すんの地味に難しいんだよな。後で見せてやっからそれまで待ってろ」
「……投げた」
「そう言うなよォ、ルーナ。説明はオレの得意分野じゃねェの」
呆れたルーナの後ろから覆いかぶさるように抱きつくシャオラス。
お調子者の彼は、彼女が倒れないよう手加減しているようだ。
「重い」
「連れねェなァ」
すんなりと離れる彼はちょっとしたスキンシップのつもりだったらしい。
「どうでもいいんですけど、そろそろイチャつくの止めてもらえませんか? 僕一人で惨めな気分になるんで」
うんざりともげんなりとも取れる顔でレモラが項垂れた。
シャオラスがニヤニヤと笑って、レモラにのしかかるように肩を組む。
「ヤキモチかァ? おにーさんが慰めてやろうか?」
「いえ、結構です」
「即答かよ!」
腹を抱えて笑う彼を嗜めるようとアルバートが口を開いたが、言葉を発する事は叶わなかった。
裏方へ消えた漁師が戻って来たからだ。
「兄ちゃん達、待たせたな!」
大きなお盆に料理を乗せて、ニカッと気前よく笑った漁師が近くの飲食スベースまで案内してくれた。
彼らが丸いテーブルを囲むように座れば、ひとりひとり丁寧に配膳される料理。
のどぐろと呼ばれた魚は、頭を切り落とされる事なく、その姿のまま焼かれている。ただ焼かれているだけだと言うのに、何故だが香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
反対に赤い魚は見る影もなく、透明に透き通った刺身が花のように並んでいた。
漁師のごつい見た目からは想像できない盛り付けに、アーシャは漁師と料理を見比べてしまいそうになったが、なんとか思い留まる事に成功した。
昨日の料理もそうだったが、見た目だけでなく食欲をそそる香りがたまらない。今にも腹の虫が鳴ってしまいそうだ。
「こんな上級な品、本当にいいのか?」
「いいってことよ! それでも気になるってんなら、珍しい物見せた礼だと思えば良い」
「……ありがとう。いただくよ」
アルバートが礼を口にした事を皮切りに、シャオラスが一番に料理へ手を伸ばした。
アーシャも手を合わせ女神に祈りを捧げてから箸を手に取った。
「美味しい」
「そうだろう、そうだろう」
「なんで僕の後ろにいるんですかね……?」
レモラの後ろで腕を組み頷く漁師にツッコミを入れる声はなく、レモラの言葉は華麗に無視された。彼の言葉より彼らは料理に夢中だ。
「嬢ちゃんが長が言ってた、使者様だろ? 流石はあの宰相の娘だな。箸使いが上手い」
「流石、情報伝達がお早い……。ありがとうございます。皆さんも帝国語がとてもお上手で、驚きました」
「ウルスラグナ語より帝国語が国際語だからな。必死に覚えたんだよ」
思いがけず使者になってしまっただけだとは口が裂けても言えず、彼女は適当な会話を続ける。
彼女が漁師と話し出すと、左隣に座っていたアルバートが彼女の左手に自分の右手を重ねた。
一瞬驚いた顔をしたアーシャだったが、すぐに真顔に戻り漁師に笑みを向けた。
「他の言語を覚えるのは相当な努力が必要だったかと思います。あなた方が覚えて下さっていなかったら、今頃言葉が通じず戦闘になっていたかもしれません」
「ハハッ違いねぇ! でもまぁ、俺らは戦えねえが」
「……そんなに鍛えているのに?」
「これは漁師なら誰もが得る筋肉だよ。っと、兄ちゃん。この嬢ちゃんを取って食いはしないから安心しろよ。俺には愛する女房も子供もいるんだ」
じとりと下から自分を睨んでいたアルバートに気が付いた漁師は、降参だと言わんばかりに両手を上げた。
「……悪い」
「執着心が強いのは血筋かねぇ。まっ悪いことじゃねえさ」
彼は無意識に睨んでいたのか、素直に頭を下げた。
漁師は気にする様子もなく笑って彼を許す。
――今、血筋って言わなかった……?
レモラも気になったのか、彼をじっと見つめている。
だが、答えは語られることなく、食事の時間が過ぎていった。
◇◆◇
「これが、魔導輪ですか?」
レモラの呟きが虚空に消えた。
彼らは魔導輪を借りるため、レンタカーと看板を掲げている店に来ていた。
一台の魔導輪を借りたアルバート。
物珍しくしげしげと借りた魔導輪を凝視しているアーシャとルーナ、そしてレモラ。
かろうじて乗り物だと分かる形のした、馬車のような物。
だが馬車でないのは明白で、馬に引かれるための道具すら無い。ただ、馬車と同じ所もあり、四輪で人を運ぶ物であるという点だけは一致している。
「ここが運転席。こっちが助手席。あとは後部座席」
アルバートが魔導輪の扉を開けて説明してくれる。
「こういうのは機械って言うんだ。これは魔力で動く車。だから魔導輪」
「まァこういうのは、習うより慣れろだ。行こうぜ!」
シャオラスが急かし、困った顔で笑うアルバートは、助手席にアーシャを導いて扉を開けた。
「アーシャは助手席」
彼女が頭をぶつけないよう入り口の上を手で覆う。その妙に慣れたエスコートに、女の影を感じてしまう。
――駄目ね。過去の女を気にしては。
彼女が助手席に座れば、後部座席にシャオラス達が入ってくる。
助手席の後ろにはレモラ。真ん中にルーナ。そして運転席の後ろにシャオラスが座る。
身長が高い男に挟まれたルーナは少しだけ居心地が悪そうだ。
窮屈で、圧迫感のあるそれを、最後に運転席へ乗り込んだアルバートが確認すると、こらえきれず吹き出した。
「そりゃねェだろ、アル!」
「ごめんごめん。じゃあ安全具留めて」
「安全具、って何」
「ルーナ達は知らないか。これ引っ張ったら伸びるだろ? これを下のバケットに差し込んで準備万端だ」
シャオラスが後ろで実際にやって見せる。
その真似をしてルーナとレモラも安全具を装着した。
アーシャも同じ様に左から右へ安全具を引っ張り、バックルに差し込んだ。
全員が安全具を装着した事を確認したアルバートが右手首に何かの装置を取り付けた。
「気になる? これは魔力の供給装置だよ。んで、これがハンドル」
彼がハンドルを握ると、ぐいっと後ろに引っ張られるような感覚がアーシャ達を襲った。
馬車よりも遥かに早い速度に、アーシャは目を見開く。
「海の方に向かってるけど、それで良かった?」
確認するように紡がれた言葉に頷けたのはシャオラスだけだ。
魔導輪の速度に慣れた目が、徐々に風景を捉え始める。
薄いガラス越しに映る景色は、言葉が出ないほどに美しい。
暫くすると、青く輝く海が見えてきた。
彼は、断崖絶壁の崖で一度魔導輪を止める。
海を一望できるこの場所では、風で水面に砕けた太陽が震える様子がよく見えた。
静寂という言葉が似合う風景に似つかない硬い声が車内に響く。
「……おい。アル」
「ん?」
「島長のところまで飛ばしてくれ。早く!」
シャオラスの切羽詰まった声に、アルバートは一瞬目を見張ったもののすぐに実行に移した。
「なにが見えたんだ?」
「帝国軍だ。帝国が攻めてくるぞ!!」
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