第三十五話『惚れた弱み』
太陽が沈み、月明かりが仄かに辺りを照らす夜。
いつもアルバートを監視するため野宿が主なアーシャは、布団と呼ばれるふかふかな寝心地の良い物の中で寝返りを繰り返していた。
四十六時中監視することに慣れてしまい、落ち着かないのは仕方のない事だろう。
彼女は一つため息を溢し、起き上がる。
就寝用の魔服は薄く、少し肌寒い。
寒さを凌ぐために羽織を肩に掛けて襖を開ければ、冷たい風が髪をさらった。
廊下に素足を踏み出せば、体の芯まで冷えてしまうような冷たさが足の裏を刺す。
裸足で歩くことに違和感を覚えつつ、ゆっくりと足を進め、庭園を一望できる縁側でアーシャは歩みを止めた。
目立つよう灯りで灯された木々。
水面に一粒の水滴が落ちた時に広がる波紋を模した砂に囲まれた、大きな岩。
帝国では味わう事の出来ない幻想的な光景に、感嘆の音が口からこぼれ出た。
木造の宿はどこか物悲しいような、懐かしい気持ちも相まって、彼女は眠気がやってくるまでの間、風景を堪能しようと決めた。
彼女は縁側に腰掛け、令嬢らしくもなく足を投げ出しパタパタと足を振る。
──難を逃れる事は出来たけど、本当に良かったのかしら……。
彼女の頭を悩ます種は、昼間島の長へ手渡した一つの書簡もとい手紙だ。
本当に渡しても良かったのか。そればかりが頭を巡る。
「……いつまでそこに居るつもり?」
「バレたか」
「あなた、気配を隠すつもりもなかったでしょう」
「俺は月明かりに照らされる君に見惚れてただけだよ」
廊下の角から姿を現したアルバートは眉を下げて笑う。
彼はアーシャが部屋を出た時から、ずっと後をつけてきていた。その時、彼女が指摘しなかったのは、単純に監視する手間が省けて良いかもしれないと思ったからだ。
だが彼は彼女に気が付いて欲しかったのか、気配を隠す素振りはなく、廊下の角に立ち尽くしていた。
わざわざ後を追って来て踵を返す気もない彼に、何か話があるのだろうと彼女は声をかけたに過ぎない。
アーシャがゆったりと彼に目をやれば、彼は当たり前のように傍にやって来て右隣を陣取る。
アルバートは警戒する彼女を気遣い、拳二つ分空けて腰を下ろし、同じように足を投げ出す。
「よく口が回るわね」
「アーシャにだけだよ」
見惚れるほどの美貌を最大限活用し、とろけるような笑みを浮かべるアルバート。
彼の思惑通り見惚れてしまえば、簡単に右手を取られた。
遠慮がちに空けられた拳二つ分の空間は、もはや何の意味もない。
アーシャの右手を取った彼は手の甲へ唇を寄せる。
そして、自らの頬に擦りつけた。
彼の予想を上回る行動に、腕を引こうとするがそれは叶わない。
純粋な力の差は覆せないからだ。
「ッ、どうしてそんな恥ずかしい事ができるの!?」
「己の心のまま、行動で示す事に意味があるんだよ」
彼の力強く意志の籠った藍方石色の瞳に、絡まった視線を離すことが出来ない。
静寂が響く。
庭園の草木が揺れ、自己主張を始めた。
先に視線を逸らしたのはアーシャだ。
そんな彼女に、繋いだ手を離したアルバートは眉を下げて笑うばかり。
「宰相の娘だったんだね」
わざと変えられた話題に乗って、アーシャは告げられた言葉を肯定するように頷いた。
「えぇ。意外?」
「シャオラスが貴族なんじゃないかとは言っていた」
シャオラスは同業者だけあって、観察力に長けているようだ。しかし、観察力に長けているのは彼だけでなく、アルバート達のパーティー全員が長けているだろう。
「なんで気付いたのかしら」
「綺麗な長い髪と肌。あとは手入れされた指先」
「……一度荒れると戻すの大変なのよ、侍女が」
貴族令嬢として、最低限の身だしなみが仇となった結果だったようだ。
しかし、侍女達のお陰で社交界で周りの令嬢と遜色ない美しさを保てている為、これ以上手入れを怠るわけにはいかない。
令嬢の中では、デビュタント(結婚適齢期に達した、齢十四の令嬢のお披露目)から二年経って婚約すら決まっていないアーシャの様な令嬢は、行き遅れと呼ばれる。だが、そう蔑称で呼ばれていても身だしなみに気を遣わない理由にはならない。
「その侍女達に感謝しないといけないね。努力のお陰で、毎日綺麗なアーシャを見れるんだから」
「はぁ。もう好きに言ってなさい」
アルバートから顔を背けるが、赤く染まった耳を隠せるはずもなく、後ろで彼が忍び笑いをしたのが分かった。
「やっぱり可愛い」
「どうして私なのか、理解できないわ」
「俺とアーシャ。初めて会った時の事覚えてる?」
アルバートの言葉に、アーシャは思いを馳せた。
初めて接触したのは彼が魔法を使っていた時の事だ。
滅んだはずの魔法を行使する彼は未知なる存在で、脅威でしかなかった。
だが、今ではどうだろうか。
彼しか使える人間はいないと思い込んでいただけで、本当はそうではなかった。
アーシャは、この島の長が魔法を使っている瞬間を目撃し、彼から本来ならば人間は誰しも魔法を使えると聞いたからだ。
常識だと認識していた物事が常識でなくなった時、どう対処すればいいのか。
その答えはいまだ出せていない。
「──アルバートが魔法を使って家を直していた時ね」
「残念。ハズレ」
「……え?」
予想外の言葉にアーシャは思わず振り返った。
彼女の遠心力で靡いた長い髪を一房掬い取り、アルバートは口づける。
「アーシャにしたら当たり前の事かもしれない。だけど、俺にとってそれは宝物みたいに輝いてた」
「ちょっと待って。それじゃ分からないわ」
彼の熱っぽい瞳に晒されて、アーシャは少し身じろぎをした。
己の知らないところで過大評価されている気がする。
彼は髪を手放すと、今度は床についている彼女の手に自分の手を重ねた。
「俺が召喚された次の日から寝込んだ事知ってるだろ?」
「えぇ。知っているわ」
「料理を運んでくれたり、寝込んだ俺を看病してくれた侍女がいたんだ」
その言葉にアーシャは黙り込んだ。
異世界から召喚した得体のしれない人物が、突然病に伏してしまえば、どんなに優秀な侍女も嫌煙する。
アルバートが美丈夫だと知っていたら違っただろうが……。
加えて、当時は召喚者の存在自体が機密情報だった。
そのため、アーシャが“アルバートの素性を探る"という名目で、三日間看病していたのだ。
──あの時、アルバートは意識が朦朧としていたはず……。
それなのに何故、アーシャがその侍女だと確信しているのだろうか。
「未知の病気かもしれないのに、臆せず看病してくれたんだよ。その娘」
「その娘が私だという証拠はないわ」
「君以外ありえない。それに、こんな天使みたいな娘、この世に何人もいるわけないだろ? 本気で天使が迎えに来たのかと思ったぐらいだ」
「それだけが私を好きになる理由じゃないでしょう?」
彼の様な絶世の美男子が、ちょっと綺麗で可愛い女性に優しくされたぐらいで、女性を好きになるはずがない。
彼レベルの美形になると、よりどりみどりで選び放題だからだ。同じぐらい整った顔立ちをしているアーシャの父アザミも引く手あまただったと、彼女は母から聞き及んでいる。
「病気の時に優しくしてくれて、しかも、その娘が俺好みドストライクな容姿をしてたんだ。そんなの、惚れないわけがない」
「……単純だわ」
「男は案外単純な生き物だよ。知らなかった?」
悪戯っ子のような目つきで笑う彼。
「そんなの、知らないに決まってるじゃない。私は女だもの」
「そうだね。始まりは一目惚れだったかもしれない。でも、今ではアーシャの全てが愛おしくて堪らないんだ」
「嘘」
「アーシャ。君の笑顔が好きだ。俺の傍でずっと笑っていて欲しいと、本気でそう思う。感情に鈍感なのは仕方がないし、アーシャが初めて抱えた感情に名前を与えられるのが俺だと、俺が与えた感情だと考えると堪らない」
アルバートは、うっとりと自らの夢を語るような、恍惚とした表情で言葉を続ける。
「色恋沙汰に耐性がなくて真っ赤に染まる可愛い顔も、敵と対峙した時に見せる凛々しい顔も、俺以外には見せたくない。それに、一見細いけど筋肉はしっかりとあってそれでいてしなやかな肢体も、手入れの行き届いた絹のような髪も、雪のような触り心地のいい肌も余すことなく全身で感じたい。全部俺のモノにしたい。アーシャ、君だけを愛してる」
「そんなの……」
「これだけ言っても、アーシャは嘘だと言うの?」
責めるような口調で言われ、アーシャは反論出来ずに黙り込む。
アルバートの言葉が本当なのかは、本人しか知り得ないことだからだ。
それを否定することは無粋な事だと、アーシャですら感じる。
彼が口にした“愛”は重く、ドロドロと黒い感情が渦巻いているようだ。
アルバートは重なっていた彼女の手を絡めとった。そして、一本一本指に口づけを落とし、手の甲をちろりと舐める。
まるで恋人の戯れのような仕草に、体の奥から熱くなるような感覚を覚えた彼女は、絡め取られた手を離そうと、腕に力を込めた。
だが手を離すことは叶わず、その愛らしい仕草は彼を燃え上がらせるには十分だった。
彼は繋いだ手を自分の元へ引き寄せ、体勢の崩れたアーシャを空いていた腕で抱き留め、彼女の首筋に顔を埋める。
首筋に走る小さな痛み。
「だ、だからッ──
「俺に溺れて、アーシャ」
縋るような、懇願じみた声色で紡がれた言葉に、彼女は口を噤んだ。
──言われずとも、もう溺れてるわ。抜け出せないほどに。
その抱擁は、シャオラスが通りかかるまで続いた。
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