第二話『魔法』
正直なところ、召喚者アルバート・ミトラの印象は“ちょっと勘のいい男性”だった。
そこまで危険視する事もないとアーシャは思っていた。だが、その認識は間違いだったらしい。
目の前の光景に、くらりとよろめきそうになる。信じられない。いや、到底信じられるわけがない。
木は宙を浮き、石造りの壁にはコテがひとりでにモルタルを塗っている……だなんて。
宙を浮いた木材が職人が作業したかのような屋根材になる。それは自らが屋根であることを知っているかのように、なんの迷いもなく屋根として主張する。
その光景は、奇跡や驚異、神の御業と呼ばれるようなモノではないだろうか。
アーシャは屋敷でドレスを脱ぎ捨て、いつものチュニックと着古した革のパンツ、長い髪を編み込んで帽子を被ったスタイル――簡単に言えば男装――でここまで来た。
そして、今日は腰にベルトを巻いて、ポシェットをぶら下げている。その中には様々な暗器が取り揃えられているし、もちろん彼女には肌身離さず持っている暗器もある。
人の気配すらない路地裏ではあるが、彼女が声を掛けても不自然ではないだろう。
注目してくださいと言わんばかりの光景に、彼女はゴクリと息を呑む。
――今なら彼に話を聞けるかもしれない。
彼女が早く話をしなくてはいけないと浮足立つ心を押さえつけ、この目の前の信じられない現象の元凶であるはずの彼――召喚者アルバート・ミトラ――は小屋の前に座っていた。
喉が渇く。それに、指先まで冷たくなっている。こんな感覚は初めて任務をした時以来だ。
彼は召喚された時から変わらない服装で汚れもない。もしかしたら、この信じられない光景と関係があるかもしれない。
彼女がゆっくりと彼に近づけば、少し目を見開かれたが、すぐに何事もなかったかのように笑みを浮かべた。
「何か?」
アーシャが口を開く前に先手を打たれた。
問いに肯定も否定もせず、彼に倣い笑みを浮かべ、口を開いた。
「これは手品か? 大通りの方が儲かるんじゃないのか?」
彼は「手品か」と言って苦笑いを浮かべる。
なにか変なことを言っただろうか。
彼の言葉を待つ。すると、彼は拳を握りしめ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「君は“魔法”を知ってるか?」
そう簡潔に言葉を紡いだ声は、いやに落ち着いた声色をしていた。
「……これは魔法なのか?」
「そうだ。と言ったら君は信じる?」
黙り込んだ彼女に彼は力なく笑った。
彼を市井へ送る際に城の者は彼にこの世界の事を何も教えなかったのだろう。魔法が一般的でない事ぐらい、子供でも知っている。
そもそも、三日三晩寝込んで回復した直後に追い出されては、情報収集もままならなかっただろうが……。
そんな可哀想な彼に、もう少しだけ情報を提供してもいいかと思ってしまったアーシャは、仕方がないと心の中でため息をついた。
「魔法は……太古の昔には使われていたらしいが、今では使用する者はいないだろうな。もし違う世界があるなら、そこじゃあ魔法が日常的に使われているかもしれねぇな」
彼が巷で噂の召喚者だと知らないと言わんばかりの口ぶりで話した。
魔法は古代文明と呼ばれる時代では日常的に使われていたらしい。というのも、文献があまり残っていないため、本当かどうか定かではないのだ。
――もしかすると、名前を口にするのも憚られるあの国には、文献が多く残っているかもしれないけど……。
彼のカラスの濡れ羽のような髪はあの国の特徴だが、真っ青な瞳は帝国の特徴なところを見ると、異世界から来たというのも信ぴょう性がある。
きっと帝国の人々とは全く違う生活をしていたんだろう。
「あと何個か聞いてもいいか?」
「ああ。もちろんだ」
標的との接触はあまり褒められたことではない。
それはアーシャも理解しているが、彼との会話を優先した。
「ここはアルビオン帝国で間違いないよな?」
「そうだな」
「この国はウルスラグナと戦争をするつもりか?」
眉をひそめそうになり、アーシャは慌てて被っていた帽子のつばを下げ、表情を悟られないようにする。そうしないと、勘のいい彼は気づいてしまう。わざとらしく大きなため息をついた。
「そんなわけないだろう? そもそも、最初に関税を不当に上げたのはあの国だぜ? 仕掛けてくるなら向こうだろうな」
「……そうか」
「あと、その国の名前を口にするのはやめた方がいい。目を付けられるぜ。だからな、俺らはかの国をこう呼ぶんだ。魔の住む国、“魔の国”……とな」
魔の国には人も住んでいるが、亜人や獣人などの種族も多く暮らしている。
帝国では魔の国から仕入れた亜人や獣人は奴隷として扱われている。もちろん奴隷制を敷いているため、合法だ。
「魔獣は、魔素を大量に浴びた動物が変化したものだと聞いているが、そこには大量の魔獣がいるのか?」
なにか勘違いをさせているようだが、アーシャはわざとそのままにしておいた。
帝国では、魔の国に住んでいるのは魔の心を持った人々だと言われている。誰しも未知の相手は怖いのだ。
魔法によって新築になった小屋を見て、彼女は我に返った。
「それじゃ、俺は行くぜ」
「ああ。ありがとう」
彼は立ち上がり、「それと」と言葉を続けながら、少しかがんでアーシャの左耳に顔を寄せた。
――っ!? 十分な距離を取っていたはずなのに、一瞬で詰められてしまったわ。なんて速さなの。
「いつか本当の姿を見せて欲しいな。お嬢さん?」
一瞬なにを言われたのかアーシャは理解できなかった。
思わず距離を取るように後ろへ下がれば、意地の悪い笑みを浮かべたアルバートと目が合う。
アルバートはしてやったりと言わんばかりの顔で彼女に「またな」と言葉を残し、鼻歌を歌いながら大通りの方へと去っていった。
アーシャはへたり込みたい衝動に駆られたが、なんとか思いとどまった。
男性にそのような事をされた事のない彼女は、そういうスキンシップとやらに耐性がない。
いまだに熱を持っているかのような左耳を押さえ、呟く。
「嘘でしょ……」
と。
アーシャが彼を標的としてではなく、一人の人間として認識したのは、この強引なまでの出来事がきっかけだろう。
アルバートを侮ってなかったと言えば嘘になる。これは認識を改めなければならないようだ。
◇◆◇
帝都に佇む大聖堂の中。
そこでは神官達が信仰を捧げている。
教祖と呼ばれ、神官達から崇められている男は、自らの前に頭を垂れる臣下に問うた。
「して、召喚者は聖女の代わりになり得そうか?」
「いえ、今はまだ調査中でして……。何とも言えません」
「そうか。では調査を続けよ」
「は。教祖様の御心のままに」
聖女が行方不明となった今、教会は民衆の心を掴む新たな人間が必要だとして、召喚者について彼らは調査を繰り返し行っていた。
それを知る者はごくわずかしかおらず、秘密裏に行われている。
教祖は長く伸ばした髭を撫で、うむ。と重々しく頷いたのだった。
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