第三十二話『岩礁の島』
クラーケンを食してから四日が経ったある日。
その日は朝から霧が出ていた。
本来霧が出ている間は停泊をする決まりだ。
しかしアーシャ達を乗せた船は進めないことはないとゆっくりと航行を続けていたが、進むにつれて濃くなる霧に、随分と遅い停泊を決定した。
その刹那。
大きな衝撃とも地響きとも思えるほどの音が轟く。
吹き飛ばされそうになったアーシャ達を、アルバートが浮遊魔法で助けてくれなければ部屋の壁に叩きつけられていただろう。
何が起こったのか確認するため、アーシャ達は甲板に向かった。
甲板に出て分かった事。
それは、どうやら停泊時に運悪く岩礁にぶつかってしまい、修理を余儀なくされたという、最悪の事態だった。
船乗りになりたての船員で構成された船。
前方すら見えない濃霧で航行するという危険性を、船乗りに成りたての若い船員達は理解していなかったらしい。
ベテランが一人でも乗っていたら起こりえなかった事故である。
修理が遅れれば沈んでしまうという状況。生死がかかった命懸けの応急修理を急ぐ船員達に信じられない出来事が起こった。
岩礁だと思っていた物の上から声が降ってきたのだ。
「大丈夫ですかい?」
と。
帝国語で発せられた声にアルバートが答える。手が離せない船員達の代わりだ。
「岩礁にぶつかってしまって船が動かせそうにもない。大丈夫だとは言い難い状況だ」
「それは難儀じゃ。今梯子を降ろしますゆえ、登ってきてくだされ」
「それはありがたいが、いいのか?」
「えぇ。わびし時はお互い様。遠慮なく上陸してくだされ」
声の主はそう言うやいなや濃霧で見えないはずの船に梯子を降ろしてくれた。
船員が乗客を呼びに走って行ったのが分かった。
濃霧の中で梯子を登るのは至難の業だが、下にアルバートがいれば万が一落下しても魔法で受け止められるだろう。
そう結論づけたのか、アルバート達が梯子を登る気配はない。
「わびし?」
言葉の意味が分からず、アルバートの隣にいたアーシャは首を傾げる。
「困ったって意味だな。ウルスラグナで昔使われてた言葉だ」
彼の隣にいたシャオラスが得意げに言った。
「そうなの。じゃあもうここは、かの国の領土って事かしら」
「そうだろうね。俺が全員浮遊魔法で運んでも良かったんだけど――
「絶対、駄目」
ルーナの言葉にアルバートが肩をすくめる。
「また倒れられたら困るので、大人しくしといて下さい。貴方を運ぶのは骨が折れるんですからね」
レモラもルーナに同意するように頷くと、アルバートはやれやれと言わんばかりの表情で少し微笑む。
「皆が過保護だ」
「当たり前でしょう。貴方は自己犠牲し過ぎたのよ」
「でも魔力切れはあれが初なんだけどな」
「でもじゃないわ」
当初アーシャは魔力切れと言う状況にあまり理解が及ばなかったが、魔法を使い過ぎるとそういう状態になるとざっくり説明され、なんとか理解した。
ならば、魔法を極力使わなければいい。
「はいはい。お二人さん、イチャつくのはそのへんにして、登ろうぜ」
「イチャついてないわ」
「え? もっとイチャつきたいって?」
アーシャの腰を抱くアルバート。
彼から離れようとするが、がっしりと捕まえられ逃れられない。
「なんでそうなるの!?」
アーシャの叫びが濃霧に消えた。
◇◆◇◆◇
岩礁だと船員達が思っていたのは、この島――ウルスラグナ領のバンブ島――を構成する一部だったと知ったのは濃霧が晴れた翌日。つまり今日の事だ。
濃霧が覆い隠していた太陽が、今は存分に自己主張をしている。
アーシャ達はこの島に住む住民達の好意により、船の修復が終わるまでという期限付きで滞在を許されていた。
見た目ほど船の損傷は酷くなかったようで、あと三日もすれば出航ができるだろうと船員が言っていた。
「っァらあ!!」
「くっ」
力任せに振り下ろされたシャオラスの長い脚。
それを盾で防ぐレモラ。
なぜ仲間のはずの二人が戦っているのか、それは単純な話で、アーシャ達は鈍った身体を動かすため、広場で模擬戦する事になったからだ。
アーシャは参加するわけにもいかず、ベンチに座って彼らの攻防を観察していた。
「なんでもありだったよな、これ」
「っちょ、僕はシャオラスさんと違って一般的な人間ですからね!!」
シャオラスが後ろに飛び退き、撹乱のために走り出す。
そして、純粋な脚力のみで飛び上がった。
彼を目で追っていたレモラが眩しさに顔を顰める。
レモラは太陽の光を直視してしまったらしい。
そのスキを見逃す訳もなく、太陽を背負ったシャオラスは隠し持っていたナイフをレモラに放った。
金属が弾かれる音が響く。
レモラが持つ盾の周りにナイフが散らばる。
「うァ、眩し」
目を腕で隠したシャオラスが着地する。
「そこまでだな」
彼らの戦いを審判として見ていたアルバートが、戦闘の終了を告げた。
「おま、そりゃねェだろ……」
「なんでもありと先に言ったのはシャオラスさんですから」
脱力し身体を地面投げ出したシャオラスに、レモラは清々しい笑みを浮かべる。
シャオラスが眩しがったタネは誰でも思いつく簡単なもので、レモラが盾の後ろから自身が身につけていたペンダントを開き、鏡面で陽光を反射させたのだ。
「どこが一般人だ」
「アルバートさんと比べれば、どんな人間も非力な一般人だと思いませんか?」
「あー。まァそうだな」
「勝手に人間卒業させないでほしいなぁ」
シャオラスとレモラの会話にアルバートが苦笑する。
「じゃあ、次、あたしと、レモラ」
アーシャの隣に座り彼らを観察していたルーナが立ち上がった。
それを聞いたレモラの口元がひくついた。
「僕、連戦ですか?」
「シャオラスでも、いいけど……?」
「でもって失礼だな。まっオレはどっちでも構わないぜ?」
「誰も俺の相手をしてくれないんだな」
少し落ち込んだ様子のアルバートに、シャオラスが嫌そうな顔をして言い放つ。
「お前は自分が規格外な事を自覚しろよ」
「魔法は使わないからさ、参加してもいいだろ?」
アルバートが模擬戦の審判を任されているのは、彼の強さが人並み外れていて、相手にならないからだ。
魔法を使っていなくともその強さは変わらない。
彼らの目が一瞬離れた瞬間。ルーナがアーシャに目配せをした。
「……仕方ない。あたしが、アルバートの相手、するよ」
彼女が目配せした意図が読めたアーシャは何も言わずに成り行きを見守る。
「いいのか?」
「いい。女に二言はない」
頷いて広場の中央に進むルーナに、シャオラスが「かっこいいな」と溢す。
アルバートがいきなりアーシャの方を振り返り、彼は口パクでアーシャに言葉を伝え、笑顔を残してルーナに続いて行く。
彼はアーシャが読唇術が使えると知らないはずだ。使えると予想してやったのならなかなか勘が鋭い。
アーシャがその事に目を向けるよりも前に、彼の言葉が頭の中をぐるぐる回る。
――「見てて」って勝つ気しかないじゃない……。
自信満々な彼の様子に、ルーナが用意してくれた観察の機会は、あまり役に立たなさそうだと、アーシャは申し訳なく思った。
「それでは、今回の審判は僕が務めさせていただきますね」
アルバートとルーナの用意が出来たようで、レモラが「始め!」と声を上げ後ろに下がる。
それと同時にルーナが動いた。
足に力を込め、一気に距離を詰める。
その脚力はシャオラスも驚きで目を見開くほどだ。
距離を詰めた勢いのままルーナは回し蹴りを繰り出した。
ルーナの足が空中を切り裂く。
アルバートに攻撃が届くことはなく、宙を切る音が虚しく響くだけだった。
並の冒険者なら間違いなく今の一撃で沈んでいただろう。
彼女の攻撃を数歩下がって避けたアルバートは、ルーナが体勢を崩した絶好のチャンスをあえて見逃した。
反撃をする様子もなく次の攻撃を待つアルバートに、俯き気味のルーナが歯を食いしばる。
ルーナでは彼を本気にさせることが出来ない。
手加減をされてなお、実力差がありすぎるからだ。
体勢を立て直したルーナは背中側に手を回し、腰の刀を抜く。
「使っても、いいよね?」
「もちろんだ」
にこやかに頷いたアルバートは自分の勝利を疑っていない。
真正面からの力比べとなると暗殺者という職業は不利だ。
闇夜に紛れる事を生業とするアーシャやルーナのような暗殺者は、姿を隠す事に意味があると知っている。姿を見られたその時に仕留められなければ、暗殺は失敗に終わってしまうからだ。
ルーナは抜いた刀を振りかぶると、アルバートに向かって放り投げた。と同時に、身体を丸めて空中で前転する。
その際に太ももに付けていたポーチからナイフを取り出したのか、着地と同じタイミングでナイフを投げた。
そしてルーナも投げた武器を追うように、アルバートに向かって再度駆け出した。
「っと、流石にそれは予想外」
アルバートが飛んできた刀を弾こうと、左手で右腰から鞘ごと刀を抜いた。
彼が横に薙いだ鞘が刀を落とす。
さくっと軽い音を立てて地面に突き刺さるルーナの刀。
それが陽動であることは明白だったが、アルバートはあえて誘いに乗ったのだろう。
アルバートが振り切る直前に、彼の正面から迫る無数のナイフ。
彼の斜め左側からはルーナが短刀を手に突っ込んで来ている。
鞘を振り切る間近ならば、振り切るしかない刀は使えない。
一メートル。
それがアルバートに届かなかった距離だ。
彼は刀を振り切る勢いを利用した。
刀を振り切り、右脚を軸に一回転する。
加えて、一度背中をナイフに晒してから左脚で全てのナイフを蹴り落とし、迫ってきたルーナにも左脚を叩き込んだ。
ルーナはギリギリのところで受け身を取ったのか、綺麗に着地を決めていた。
――嘘でしょ。今のも防ぐの……? なんて身体能力……。
事実、ルーナの策は悪くなかった。
左利きのアルバートは、左手で刀を扱う。
刀を投げれば彼が武器を抜くと見越し、刀を囮として投げた。
そして、すかさず大量のナイフを投げ、自身は武器を振り切る前に突撃できるよう、彼の斜め左から攻撃を仕掛けたのだ。
無数のナイフを処理すればルーナが。ルーナの攻撃を防げばナイフが、アルバートに襲いかかる算段だった。
だがアルバートは、それを一度で全てを受け切ったのだ。
人間離れした身体能力を見せつけられ、アーシャは絶句した。
アーシャだけでなく、それを見ていたレモラもシャオラスも、当事者であるルーナも驚きに声も出せずにいる。
「そろそろ降参する?」
誰もが見惚れてしまうような美しい笑みを浮かべたアルバートの一言に、アーシャ達はあらぬ方向へ飛んでいた意識を引き戻した。
「そうだね。あたしじゃ、役不足」
「そんな事ないさ。ナイフが飛んできた時はヒヤッとしたよ」
「嘘ばっかり」
大きなため息をつき立ち上がったルーナが武器を回収していく。
「やっぱり僕ってこの中で一番弱かったりしませんか? 確実に一般人枠ですよね」
アルバートとルーナの模擬戦を間近で見ていたレモラがポツリと呟く。
「はァ? S級冒険者が弱いわけないだろ?」
「大丈夫。レモラは、十分強い」
「なんか、僕、慰められてません?」
そんな与太話をしならシャオラスとレモラが武器の回収を手伝う。
しかしアルバートは武器の回収を手伝わず、何故かアーシャに近づいて来ていた。
「アーシャ」
「……手伝ってあげたら?」
「三人いたら十分だよ」
そう肩をすくめアーシャの隣に座るアルバート。
「どうだった?」
アーシャに身を寄せて問うアルバートにアーシャは身じろぎをした。
意中の相手には「格好良い」と言われたいのか、期待の眼差しでアーシャを見つめてくる彼に、アーシャは少し考えたあと、
「やっぱり人間じゃないわ」
と口にする。
目に見えてがっかりしたアルバートに、武器を回収中のシャオラスがアルバートに向かって声を張り上げた。
「そういう時はなァ! 格好良かったか? って聞くんだよ! 逃げ道を塞げェ!」
大きな広場の真ん中からの援護射撃にアーシャは眉をひそめる。
距離があるはずのだが、アーシャ達の声が聞こえるのはシャオラスが亜人だからだ。
「格好良かったか?」
「……ええ、そうね」
見惚れて息をするのも忘れそうになるほどだった。とは口が裂けても言わないが、同意するぐらいはしてもいいだろうとアーシャは頷いた。
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