第9話 病魔ルーテリウムとパンドラの匣
一度行使できるようになれば、魔術の運用は簡単だった。泳ぎ方を覚えた人が、泳ぎ方に悩む必要が無いのと同じようなものだ。
キンペ村中にルートを打ち滅ぼす魔術を展開した後、私は王都に引き返していた。
『あなたは、あなただけの生き方を、探せばいい』
母の言葉が繰り返し再生される。
(わからない。わからないよ。私に何ができるの。
私はいったい、何をすればいいの)
ずっと、母を助けるために生きてきた。
でも、それさえできなかった。
そんな私に、何ができるというんだろう。
教えてよ、お母さん――
「ちょっと! 話が違うじゃない!!」
王都まであと少しという森の中。
聞き覚えのある声がして私は立ち止った。
カトレア?
こんな夜中に、森の中で何をして……
「おいおい。俺はあんたの願い通り、ルート・セクスの種を仕入れてカトレア嬢に納品した。国中にばらまいたのはあんたの自由意志だ。そうだろ?」
「ルートの恐ろしさは分かったから! だから早く、治療方法を教えなさいよ!!」
……カト、レア?
何を、言ってるの?
このパンデミックは、あなたが引き起こしたの?
「――あるわけねえだろ、んなもん」
「……ぇ、だって、あなたが言ったんじゃない。
ルートをばらまけば、聖女になれるって」
「ああ。俺の目論見通り、本物の聖女はキンペ村に向かった。今頃ルートに感染してるだろうさ。よかったなぁ? これで聖女候補はあんた一人だ。くっはは」
「……ちが、私は、そんな方法を願ったんじゃない」
考えがまとまらない。
情報の処理が追い付かない。
真っ白な頭のまま、私の足は、気が付けば前に進められていた。
「……どういう、ことなの?」
「アイーシャ……っ!? どうしてここに!!」
「ねえ、カトレア。あなたなの? あなたが、ルートをばらまいた張本人なの?」
「ち、違うの、私はこの男に騙されただけで――」
「答えてッ!!」
あなたは、私だけじゃなく、私の母まで殺したの?
ねえ、黙ってたんじゃわからないじゃん。
その口は何のためについてるの?
早く、答えてよ。
「ああ、そうだぜ。そいつが実行犯だ」
「……あなた、飛脚の」
「よう、さっきぶりだな。また会うことになるとは思わなかったぜ?」
カトレアが密会していた相手。
それは私をキンペ村に運んでくれた飛脚だった。
……そっかぁ。
全部、あなたたちのせいだったんだ。
「二度とお天道様を拝めなくしてやる」
「……っ、おっと。そいつは勘弁。二度と顔を合わせる機会が無いことを願うよ」
「逃げられると思ったの?」
いいつつ、私は魔法を展開した。
聖属性で編み上げられた結界、セイクリッド・ジェイルと呼ばれる技だ。
「……おいおい、まじかよ」
この結界の中において、聖印を持たないものは魔力を扱えなくなる。まさしく聖域である。
そのことに男も気づいたのか、額に冷や汗を浮かべていた。
「ふざけないでよ! どうして私がこんな目にあわなきゃいけないのよ!!」
カトレアが半狂乱気味に声を荒げる。
光量の少ない宵闇。
大きく開いた瞳孔は、ぐちゃぐちゃに塗り潰した墨色をしていた。それが余計に狂気を滲ませているように思える。
「私はただ政略結婚が嫌だっただけなのに! どうしてこんな目にあわなきゃいけないのよ!!」
カトレアの言葉に、私の意識が釣られる。
政略結婚が、嫌だったから?
……何よ、それ。
「カトレア……あなた、それだけの理由で聖女を騙ったの?」
「それだけの理由? あんたにとってはそれだけの理由でも、私にとっては生きるすべてだった!!」
……それだけの、理由だよ。
あんたのわがままで、何人が苦しんだ。
私を殺したのは誰だ。
どうして母は死ななければならなかった。
「ねえ、カトレア。あなたは私の生きるすべてを奪ったの」
「ひぃっ、や、アイーシャ、怒らないで」
「……怒る? 私は、怒ってなんていないよ。ただ、悲しいだけ」
「やめ、たすけ――」
一歩近づく。
カトレアがよろめいてしりもちをついた。
一歩近づく。
カトレアが首を振りながら後ずさりする。
一歩、近づく――
「くっはは、助けてやろうか? カトレア」
声がした。
誰の声?
わかっている。
飛脚だ。
カトレアにルートの種を渡した悪人の声だ。
「助けて、お願い、何でもする……!」
「くっはは、殊勝な心掛けだ。餞別に、これをくれてやろう」
男は懐から、手のひらサイズの、光を飲み込んだように黒い立方体を取り出した。
なんなの、あれは。
おぞましい。不気味だ。背筋が凍る。
抱いた感情はどれも正しく、だけどどれも的確ではない。
直感が訴える。
あれは危険な代物だ。
人の手に握られて良いものではない。
「……っ、渡さない!」
男の手からカトレアに向かって放り投げられた漆黒の柩を空中で把持した。
よし。
これで安全――
「ああぁぁあぁぁぁぁぁぁああぁぁ!!」
「――カトレアっ!?」
「私のものだ!! 寄こせ!! それを使って、私は、聖女になるんだああぁあぁァァァ!!」
カトレアが無策にも思える突撃を仕掛けてきた。
だけど私には、聖属性の防護幕が張られている。
彼女が私からこの柩を取り返すのは不可能――
「来なさいッ!!」
カトレアが叫んだ。
瞬間、手の内に納めた黒い柩がドクンと脈打った気がした。
「来なさいと、言っているのよ!!」
「なっ!?」
否、その感覚は気のせいではなかった。
カトレアの呼びかけに呼応するように黒い柩は私の手から離れ、まるで元あった場所に戻るかのように、静謐に彼女の手におさまった。
「くっはっはっは! こいつぁ傑作だ。カトレア、次はその匣の蓋を開け」
「……そうすれば、私は助かるの?」
「ああ。それどころか、お前は強大な力を得て、民はたちまちお前の前にひれ伏すだろう」
ダメだ。
何か嫌な予感がする。
あの蓋を開かせてはいけない!
「カトレア! その蓋は開けちゃダメ!!」
「くっはは、さあ、未来はお前の手の中にある。扉を開けるんだカトレア。そして掴み取るんだ。お前だけの栄光を!」
「……言われるまでも、ないわ」
いけない。
開いてはいけない。
そう思い、手を伸ばした。
刹那、黒色に輝く稲光に、私の手は拒まれた。
「あ……っ、ぐぁ、がぁっ!?」
「カトレア!?」
「ぐ、がはっ……あああぁぁあぁぁぁぁぁ!?」
黒い稲光はカトレアを中心にとぐろを巻いていた。
開かれた箱からは瘴気のようなものがあふれ、彼女を蝕んでいる。
カトレアが苦悶の声を上げる。
喉を掻きむしる両手から、彼女の血が吹きこぼれる。
いや、正確には、吹きこぼれていた、だ。
「……なによ、これ」
ごきり、ごきり、と歪な音を立てて、カトレアの体が骨格を歪める。山のように肉が盛り上がり、女性とは思えない巨躯へとその身を変える。
『Gurrrrrrrrrrrraaaaaaaa!!』
「しまっ、結界が! 破られるっ!?」
私が用意したセイクリッドジェイルは一辺が4メートルほどの立方体だ。だというのに、肥大化を続けるカトレアは、この牢獄を突き破ろうとしている。
「ぐ……あっ!?」
ガラスが砕けるような音がした。
破られた。
聖なる結界が、力技で。
それを成し遂げた、巨躯を見上げる。
箱と同じ漆黒に染まったカトレアだった生物。
それは月を背負って、歪な笑みを浮かべていた。