第8話 徒桜の聖女
徒桜:散りやすい桜の花。はかないもののたとえ。
(デジタル大辞泉より)
……今まで、母に会いに行ったことは無かった。
城を抜け出せなかったから、というのは言い訳だ。
その気になれば、きっと抜け出すこともできた。
でも、そうはしなかった。
もしここが過去ではなくパラレルワールドだったら。
もし私が別人に生まれ変わったのが、母がこの世界に存在しないからだとしたら。
もし前世なんてものが私の空想の産物に過ぎず、母なんて最初から存在しなかったなら。
そんなことを考えたら、怖くて、怖くて。
とても、自分の目で確かめることなんてできなかった。
でも、もう逃げない。
「着いたぜ嬢ちゃん。キンペ村だ」
「ありがとうございます、飛脚さん」
「いいってことよ。ま、村に入るのはごめんだがな。あんたもルートには重々気を付けるんだな」
「はい。重ね重ねありがとうございます」
村の入り口で、飛脚さんと別れた。
それから、通い慣れたはずの知らない町に、足を運び入れる。
あぜ道を行く、自分の足音がやけに響く。
もともと賑わっている村ではなかったけど、それにしても静かすぎる。
ちょうど、母が亡くなった年もこんな感じだった。
王城より、よっぽど疫病が蔓延している。
(お母さん)
呼吸が浅くなる。
足が速くなる。
(お母さん、どうか、無事でいて)
私は、走った。
村に流れる川沿いに、かつて過ごした桜の下へ。
かつての家が、今もなおそこに存在していると、信じて。
「はぁ……、はぁ……」
走って、走って。
私はようやく、たどり着いた。
「あった……。私たちが暮らした家」
母は美しかった。
美しかった母を男は好いた。
男の中には大工がいて、小さいながら母に家を用意してくれたという。
変わらない。
記憶のままの家が、そこに立っている。
良かった。
私がやってきたことは、無駄なんかじゃなか――
「……こんな私が母親で、ごめんね」
――え?
建付けの悪い家からこぼれた声に、息が詰まった。
……嘘だ。聞き間違いだ。
そんな、そんなはずない。
だって、私、頑張ったじゃん。
今度こそうまくやるんだって、誓ったじゃん。
……今になって、陛下の言葉が頭の中で反響する。
『お主が行って何になる』
『お主にできることは何もない』
振り払え。振り払え。
そんな言葉に惑わされるな。
『怠慢だ。私の怠慢だ』
頭の中で誰かの声がする。
誰の声かなんて、わかっている。
前世の私が私を責めている。
『だったら、私はどうして生まれてきたんだろう』
*
……川の匂いが、強くなってきた。
月に照らされて花開く月光華が川面に映えている。
夜の帳が落ちたんだ。
母に合わせる顔が、なかった。
でも、一目だけでいい。
一目でいいから、もう一度母の顔を見たかった。
だから、夜が深まるのを待っていた。
前世の私が寝てしまうのを待っていた。
記憶通りなら、とっくに寝入っているはずだ。
動かないと。動かないと、母が自分の喉をガラス片で引き裂いてしまう前に。
重い脚を引いて、勝手知ったる母の家に忍び込む。
埃っぽい家の匂いが鼻腔をくすぐり、胸の奥がキュッと締まる思いがした。
懐かしい木目の廊下を、軋む音をたてないように歩く。
扉を隔てたそこに、母は横たわっていた。
母は、美しかった。
死相が浮かんだ寝顔ですら、美しかった。
……顔を見れるだけで良かったはずだった。
それ以上は望まなかった。
だけどいざ母を前にすると、抱きしめてもらいたくて、声が聴きたくて、でもそれは叶わないことで――
「……大きくなったのね、ルツェ」
「――っ!?」
その時、母の瞳が開かれた。
綺麗なサファイアブルーの瞳に、私の顔が映っている。
「……人、違いです」
ルツェ。
それは私の前世の名前。
もう二度と呼んでもらえないと思っていた、私の宝物。
それを、お母さんに、呼んでもらえた。
「わかるわよ、あなたの、お母さんなんだから」
「……っ」
「ねえ、こっちに来てくれる?」
震える足で、歩き出す。
ひざを折って、そばに座る。
母の手を握る。
驚くほど冷たい。
ルートの末期症状だった。
「ルツェの手は、暖かいのね」
「お母さん、私、私……っ」
「泣かないで。あなたは、来てくれた。それがどれだけ、嬉しかったと思う?」
違う。
だって私は、あなたに会うのが怖くて、尻込みして、先延ばしにして、その挙句がこの結末で。
「私は、お母さんが、好きでした」
「……知ってるわ」
「嘘です。本当は、今もずっと、大好きです」
「……それも、知ってる」
「これからも、いつまでも」
「……ありがとう」
「だから――」
私は魔術を編んだ。
未だ完成していない、机上の空論を並べた未知の魔術を。
「――私のわがままで、あなたは死なせない」
握った手を離し、代わりにかざす。
不完全な術式はグリッジノイズを吐き散らし、不安定な明滅を繰り返している。
この術式が机上論で終わっている理由は明白。
魔力の伝導効率が理想環境を想定しているから。
実世界において魔力は原子の抵抗を受けて、伝導効率は距離の2乗に比例して減衰する。
(だったら、魔力が理想的な動きをする空間を作り出せば……!)
できるのか。本当にできるのか。
否、できるかどうかじゃない。
そのために私はここにいる!!
「く……っ」
「ルツェ、いいの。あなたが苦しむ必要はないの。
あなたは、あなただけの生き方を、探せばいい」
「誰が、好きこのんで辛い目に、あうもんか!!」
生きてほしい。生きていてほしいんだ。
「あなたに嫌われても、呪われても、構わない!」
前世で、12歳の時母を失って、無実の罪で裁かれるまでの6年間、私は孤独だった。
辛かった。
お母さんに会いたかった。
「一人で生きるより、ずっとまし! それがわかっていて見捨てるなんて、できるもんか!!」
バチンと何かが弾ける音がした。
刹那、本能の奥底で私は理解した。
繋がった。
今この瞬間、ルートをうち滅ぼす魔術が完成した。
「打ち、砕、けぇぇぇぇぇぇっ!!」
細い針を通すように、異物だけを魔力の糸が貫く感覚があった。
やった、やったんだ。
私は、やり遂げたんだ!
「やったよ、お母さ――」
手を握る。
さっきよりも冷たい。
……なんで、どうして。
「ごめんね。お母さんは多分、長くないわ」
「嘘、嘘だよ、だって、私」
私はふと気づいてしまい、肩を震わせた。
母の瞳には、もう、私は映っていない。
「っ、やだ、いかないで」
「……ねぇ、ルツェ。お母さんの、お願い、聞いてくれない?」
「やだ、やだよ」
「……最初で、最後のわがままなの」
最後だなんて、言わないで。
何度だってわがままを言ってくれればいい。
それなら何度だって叶えてみせる。
どんな願いも、望みも、きっときっと。
だから、だから――
「私の手で、私を死なせて」
そんなこと、言わないで。
「ルツェ。私は、私の生き方を選べなかった。だからせめて、死に方くらい、私に、選ばせて」
……思い出したのは、母の遺体。
涙の痕を残した母は、なぜか笑っていた。
……あれは、最後に、自分で道を選べたからなの?
わからない、わからないよ。
「お願い、最後の、わがままなの」
母の目尻から、大粒の涙がこぼれる。
……ああ、だからあの時、母の目には、涙が。
「……っ」
母のもう一方の手には、いつの間にやらガラス片が握られていた。その手を鈍重に持ち上げた母は、それを首筋に当てた。
母は死ぬ。
体温が、25度を下回ろうとしている。
25度を下回れば、人は死ぬ。
英雄だって王だって、分け隔てなく死んでしまう。
どうあがいても母は死ぬ。
「……ありがとう。ルツェ。会いに来てくれて、うれし、かった。愛し、てる」
言い切った。
そんな様子で、満足げに。
母は、ガラス片で自身の喉を引き裂いた。