第10話 失せろ! そして二度と私の前に顔を見せるな!!
「くふふふはは、くーはっははは!!」
笑い声が聞こえる。
飛脚の声だ。
「あなた、カトレアにいったい何をしたの!?」
「くふふ、おいおい、言いがかりはよしてくれ。俺はただ小さな箱をプレゼントしただけだ。そこから先でどうなろうと、それはコレの自己責任。違うか?」
「御託はいい! 答えなさい!」
「やなこった」
くだけた牢獄からのうのうと抜け出した彼は、余裕たっぷりな様子で近くの倒木に腰かけた。
それから頬杖をついた。
不敵な笑みを浮かべている。
「――と、普段ならそう言うんだけどね。今日は機嫌がいいから教えてやるよ。その子に渡した匣の名はパンドラ。かつて、聖女が厄災を閉じ込めた柩だ」
厄災を閉じ込めた?
いったい何を言っている。
真意を問うべく、男の目を睨みつけた。
男は暖簾に腕押し糠に釘とでも言いたげな様子で私の視線をのらりくらりと受け流す。
「疫病、旱魃、豪雨、震災。古来、人は神の怒りと形容し、時に悪魔の仕業と称し、恐れた。その厄災を解き放つと、どうなるかなんて明白だろう?」
「はっ、カトレア!?」
『Gurrrrrrrrrrrraaaaaaaa!!』
黒い肉塊が腕を振り下ろした。
嫌な予感がして、地面を強く蹴り、後ろに跳ぶ。
跳び退いた私がいた地点を、黒い衝撃が貫く。
ずしんと重たい衝撃波が体を襲った。
「その子に渡したのは病魔ルーテリウム。残滓ですら100年に一度国を混沌に陥れるルートの生みの親! 彼女はその身を依り代として捧げ、厄災をこの地に呼び戻したのさ! あーっはっはっは!」
カトレアが拳を地面から引き抜いた。
まるでゴムに灯油をかけて火をつけたように黒い煙がもくもくと棚引いている。
(地面が、溶けているの……?)
見ればカトレアの足元も同じように黒煙が立っている。いや、足元だけでなく、彼女の残した足跡からも同じように煙が発生している。
差し詰め接触したものを腐食する性質と言ったところだろうか。
「……貫け!」
勢いよく飛びかかってくるカトレアに対し、私は静かに手をかざした。右手に刻まれた聖印が、皓々と照り映える。
弾指の間に幾条もの光の筋が迸り、ルーテリウムの肉塊を八つ裂きにする。
『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAA』
(やった……?)
ルーテリウムが悲鳴を上げて倒れ伏す。
私が行使した魔法は、ルートを打ち砕く魔法。
ルーテリウムがルートの親だというのなら、この魔法が効く可能性も……。
『G……GGG』
嘘、でしょ?
立ち上がった? それも、致命傷を負わずに?
「あっはっは! 君が相対しているのは世界を終焉に導く邪悪だぞ!! そんな魔法、効くものか!!」
『Gurrrrrrrrrrrraaaaaaaa!!』
「っ!!」
病魔ルーテリウムが、その巨躯からは想像もできない俊敏性で私との距離を詰める。振り上げられた拳は、月を握りつぶすようにも見えた。
防御を……、違う。
こいつの攻撃は、触れた相手を溶かす!
光の防護幕が効くかどうかわからない。
避けないと!
――ズドォォォン!!
無理にでも体をねじり、ばねの力で飛びのいた。
先ほど同様に、重い衝撃が走る。
だけど今度は、さっきとは違うことが起きた。
(……肉片!)
地面にぶつけられたルーテリウムの腕が破裂し、私の眼前に迫っていた。無理な体勢から回避に移行したせいで避けられない――
ジュウウウゥゥと、焼け石に水を注いだような音が響き、ルーテリウムの肉片が光の防護幕を突き破る。
その一部始終を、私の眼は、ゆっくりととらえていた。
だからとっさに、左手を顔の前にかざして――
「あああぁぁあぁぁぁぁぁ!!」
熱い。
とっさに顔を防いだ左手が焼けるようだ。
いや、現に黒い煙を上げている。
「……ヒール!」
歯を食いしばり、どうにか回復魔法を発動する。
時間を掛ければ完治させられるだろうけど、目の前の敵はそんな猶予を与えてくれそうにない。
(くっ、どうすれば、どうすればいいの)
頼みの綱だった魔法は効かなかった。
ルーテリウムは私が思うよりずっと俊敏で、肉弾戦では敵いっこない。
「あはは! 君は一人でよく頑張ったよ。健闘を称えるよ。だからもう諦めて眠りにつくがいい!」
「……冗談じゃない」
ドロドロに溶けた熱い鉛のような復讐心は、今も昔と変わらず心に渦巻いている。
死ねない、今度こそ。
私がこの世に生まれてきたのは何か一つ、私でなければ成しえないことがあるからのはずだ。
聖印をもって、この世に生まれなおした理由が――
待って。男は、なんて言った?
――匣の名はパンドラ。かつて、聖女が厄災を閉じ込めた柩だ。
点と点が、線で結ばれた気がした。
(……聖女はかつて、この病魔を封印したんだ)
そんな魔法、私は知らない。
そもそも、厄災を閉じ込めた箱の存在だって知らなかったんだ。封印の術を知っているはずがない。
だけど。
(だったら、私にも同じことができるはず)
眼前立ちはだかる黒い物体を見上げる。
人型をした大きな黒い影は、心臓部に黒い柩を取り付けているのが目を凝らせばわかる。
(……できるかな)
左手の火傷痕が疼く。
至近距離であの肉塊の溶解効果を受ければ今度こそ私は助からないだろう。
それでも。
「――あはは、気でも触れたかな?」
男に指摘されて、気づいた。
自らの口角が上がっていることに。
私は答えなかった。
答えは胸の内に秘めた。
かつて私は穢れた血と蔑まれていた。
カトレアには死んでも悲しむ者がいないと言われた。
そうだ。私には、最初から。
「……失うものなんて、何一つなかったんだ」
これより封伐を開始する。
両手を突き合わせ、魔術を同時に展開。
「セイクリッドジェイル! セイクリッドチェーン!!」
牢獄に、鎖に。
ありとあらゆる聖属性の拘束具がルーテリウムを雁字搦めに縛り付ける。
「無駄だ! 病魔ルーテリウムはその程度の魔術歯牙にもかけない!!」
「一瞬でも隙ができれば、それで十分よ!!」
普段身にまとわせている光の防護幕を、足元に平面上に展開する。角度は垂線がルーテリウムの胸板に突き刺さるように。
「爆ぜろ!! セイクリッドバースト!!」
私の足元で爆発が起きる。
防護幕が爆風を受け、私の体がカタパルトのように打ち出される。
「しまっ、ルーテリウム! 胸を守れ!!」
「もう遅い! 今さら気づいても、手遅れよ!!」
捕らえた!
今度はこの手を離さない。
(後はどうにか封印を――)
『Gurrrrrrrrrrrraaaaaaaa!!』
「づうぐあっ!!」
漆黒の柩を握る私の右手を、ルーテリウムが握る。
熱い、溶ける、苦しい。
……でも。
「これ以上、好き勝手されるのは、癪なのよ!!」
バチンと、私の中で何かがつながる音がした。
この感覚は知っている。
新たに魔法を覚えた時と同じだ。
「……ぁ、あああぁぁあぁぁあぁぁぁっ!!」
右手の聖印が熱く、熱く、熱を帯びる。
淡かった光は今や太陽のように光り輝いている。
「ひざまずけ!! 厄災風情がぁぁぁぁ!!」
掴んだ柩から、光があふれ出す。
黒い肉塊を飲み込むように、辺りを昼間のように明るく照らし出す。
『GYAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!』
ルーテリウムが悲鳴を上げる。
鼓膜が破れそうだ。
脳が揺らされ、倒れてしまいそうだ。
根比べか。上等だ。
(穢れた血の諦めの悪さを――)
「――なめるなァ!!」
次の瞬間、ふっと空気が軽くなった。
否、明らかに空間が削り取られた。
先ほどまで確かに存在したはずの黒い肉塊。
それがきれいさっぱり消え失せて、真空になった空間に辺りの空気がなだれ込んだ。
そして――
「きゃあぁぁぁあぁぁぁ!!」
つんざく悲鳴がこだました。
私の声ではない。
だったら、誰の声?
「痛い、痛いよ」
「……」
「助けて、アイーシャ」
カトレアの、声だ。
(傷口はあるのに、出血は少ない。この症状は……かまいたち)
「お願い、アイーシャ、助けて……」
「……死なないよ、その傷では。傷痕は残るかもしれないけど」
「傷痕……? や、いやだよ、だって、ほら、顔にもこんなに傷ができてるんだよ? もう人前に、顔を出せなくなる……」
「……自業自得でしょうっ! ぐっ」
カトレアに掴みかかろうとして、両手が爛れていることを思い出した。いや、思い出させられた。
筋繊維を雨風にさらされているような痛みをこらえて、不満を胸の内に溜める。
(私が助けてと請うた時、あなたはどう答えた! ギロチンで首を切り落としたじゃないか!!)
それを、いざ自分の立場が危うくなったら助けろだと? そんなの、虫が良すぎる!!
「アイ――」
「この場で殺してやってもいいんだ!! それを命だけは見逃してやるって言ってるんだ!」
殺すことは造作もない。
それをしないのは、あんたと同類になりたくないからだ!
「失せろ! そして二度と私の前に顔を見せるな!!」




