ミナトのバグ
ミナトはその夜、
まちから少し離れた高台の真ん中で、自決をはかっていた。
父と母を、父と母たらしめさせている自分の存在を、このせかいから抹消しようと思ったのだ。
ミナトは自分の分の食事が、父や母の取り分より多いこと、丁寧に盛られていることにいつだって気づいていた。
そしてそういう彼らの気遣いに、ショックを受けては、解釈に苦しんだ。
ミナトの父も母も、素晴らしくやさしく、大人で、そして普通のひとである。
いつだってミナトのことを中心に考え行動し、守ってくれる親であった。
けれど、
ミナトはあるとき、
父も母も以前はミナトと同じ幼子だったということを知り驚愕してからというもの、彼らの施す様々な慈善的現象に対して、単純な疑問が頭から離れなくなってしまった。
「なぜそんなことができるのか。
父さんも母さんもぼくを生んだばっかりに、後戻りできなくなってしまっている。」
ミナトには年が離れた兄がいるが、
ある日突然、「おれは穴を掘る」といって家を出て行った。
それ以降、ミナトの母は疲れた様子で、ため息をついたり、力なく笑うことが多くなり、そんな母の言動を、ミナトは敏感に観察するようになった。
「ごめんね、いまごはんつくるね。」
「いい、つくらなくても。」
ミナトがいうと、
「ごめんね。」
そう返ってきた。
やさしく投げられた眼差しの奥に、ミナトは自分に対する憎悪と、諦めをみた。
ミナトの家にはピピちゃんという文鳥がいるが、ミナトは母だって、鳥籠に閉じ込めらたピピちゃんと同じなんだと感じていた。
父と言い合っている様子もよく見かけた。
ミナトは、好きあっているもの同士が結婚するということを知っていたが、この二人がどうみてもそういう風には見えなかったので時折考えた。
その結果、彼らはある種の良心や見栄によって別れられないこと、そしてそれらすべてが自分が存在していることに起因することを確信し、
彼らへの束縛を断つため、いよいよこの作戦を思いついたのである。
✳︎
今日の満月は特別きれいである。
当たり前だ、調べてこの日に決めたのだから。とミナトは満足して空を見上げた。
彼の気持ちはさわやかであったが、
家をこっそり抜け出してきたことが頭にチラついて、心配しているようでもあった。
持ってきた一冊の本を眺めながら、一緒にこの本を探してくれたシーナのことをぼんやりと思い出してみる。
「ミナトのいう、自分の存在を消す方法って、ほら、ここにかいてある。つまり、ミナトはどこにいっちゃうの。」
「しらないよ。ただ、ぼくはいなくなるんだよ。父さんと母さんを解放するためにね。
ぼくのこころには最近、たくさんひとが住んでいるみたいだ。
ものすごく勇敢で、落ち着いているひともいるし、臆病で、高慢な態度のやつもいる。ふざけたマヌケが突然失言をよこすこともあるんだ。
でも、みんな、本当は自由であるべきなんだよ。
シーナもずっと、小さくてかわいらしい少女の役を担うのは嫌だろ。もし、シーナが自分を諦めたら、きみはずっとこの1年2組の号令係で、テストでは上の順位にとどまることになるんだ。」
「テストでいい点数をとるのは、自然なことだよ。演じてない。」
「うん、さすが、そうだといいよ。
でもね、きみをぼくのともだちにしておくことさえもぼくは嫌なんだ。
ぼくは誰にも何も担わせたくない。」
「…。ミナトはバラバラなんだね。」
「そうとも。ぼくはバラバラだ。
矛盾と逆説でギッタギタにされている。」
「っは。ジャイ○ンかよ。」
「…なにそれ?」
ジャイ○ンは昔の漫画の登場人物らしい。
いつも主人公をいじめていたとかなんとか…。
そういやシーナは5歳のときから、古い漫画を引っ張り出してきては、休み時間に読んでいたっけ。
5歳のとき…。
いつも昼食後にだされる錠剤があった。
あれを飲むと、いつもたくさんのことがわかったんだ…。
ミナトはこれ以上のことを思い出すのはやめようと思った。
✳︎
ここらへんにしよう、
ずんずんと草むらを進んでいった先に荷物を置いた。
まちを見おろすと、通っていたスイミングスクールの青い旗がチラチラ見えた。
「えっと、まずはロープで円陣を…」
『成功率80%!人生で役に立つ黒魔術27選!!』の127ページをめくりながら、ミナトは用意したロープを手に取った。
1〜9まで、手順はどれもまどろっこしく、複雑であった。とくに呪文が長くて覚えられない。
見ながら唱えても効果があるだろうか、いや、暗記して臨むべきか…
そんなことを迷っていると、背後から声をかけられた。
「なにしてる。」
年上らしき、男の声だった。
持ってきた小さなランタンを頼りに確認してみると、背の高い薄汚れた男がスコップを片手にこちらを見ていた。
「…自分の存在を抹消する呪文を暗記するべきかどうか迷っている。」
ミナトは邪魔がはいったと、少し怪訝な表情を浮かべながらも、物怖じせず答えた。
男はミナトと、そばに投げ打ってあったミナトのリュックを眺めて、だまりこみ、真剣そうな顔をした。
「どうしてそんなこと…」
やっと開いた男の口から出た声を、ミナトは頭の中で照合しながら答えた。
「いやあのね、父と母をいい加減自由にさせてあげたいとおもって。
ぼくはタカギミナト。そして父は父という名前ではなくて、タカギキョウジだ。
母は、タカギリツコ…いや、本来はハナマキリツコ。
二人とも、ぼくと同じ小さな幼子であり、守られるべき赤子なんだ。
ぼくがいると、彼らは別れることができない。生涯、ため息と洗濯物に埋れて、座椅子みたいにペシャンコになる運命を辿るんだ。
後悔と絶望を抱えながらね…。
ぼくならそれを救える。だからこの本を…」
ミナトはシーナと一緒に探したその本を、男にもみせてあげることにした。
男はその本を受け取って、表紙を眺めながらたずねた。
「…おまえの存在が抹消されて、おまえがもしいなくなったら、キョウジさんやリツコさん、かなしむんじゃないか。」
「うん。それも考えたけどね。
どうだろう。みんながみんな、子どもを産みたくて産んだわけじゃあないかもしれないしね。期せずしてできちゃったってこと、いまだにあるわけでしょう。戦後はとくに倫理を重んじるせかいになって、罰則が厳しくなったのならね、良心があるひとほど、それに苦しめられるよね。ていうかひとは元来、性悪だよ。
みんな、なんにも知らずに大人にされちゃってさ、本当はずっと逃げたいんだよ。
まあ、一時はかなしむかもしれない。でもすぐに、自分がただのキョウジとリツコに戻れたことに歓喜して、ぼくを忘れていくよ。
時間の放つ作用は、いつだって凄まじいもんね…。」
男は少し呆気にとられたような顔をしてから、なにかを思い出しているかのように、じっとしていた。
湿った風が吹いて、草木がサワサワしている。
「おれはアケミ。生まれてすぐからずっと穴を掘り続けている。」
男はやっと、ミナトのそばにしゃがみこみ、話しだした。
✳︎
「…穴って、女の?」
「ばか、近頃の教育は歯に衣着せねーとは聞いていたが、表現に品がなさすぎるな。おまえ、まだ卒園したてぐらいだろう。
…まあでも、いい得て妙だ。去勢政策の成れの果てが、このおれみたいなもんだからな。何年か前にあったろ。あれでおれのもちょん切られた…。だから反動で掘っちまうんだろうな。要はバグなんだよ。この世の。そんでおまえも…」
「バグなんだろうね。」
「そう、ミナト…おまえ、ある時期の被験体だろう。その外見と喋り方。穴しか興味なかったんで初めて出会うが、こんな子供がいるとは。本当に超スピード成熟型なんだな。それでいてこの本は…」
「知ってる。笑えるよね。
ぼくはもう、思考と行動がちくはぐなんだ。無理やり成長剤を飲んでいるから、子どもと大人が混在して、結局めちゃくちゃになる。ぼくの思考は大人を追い抜き、ぼくの行動は誰よりも子供であろうと努める。
わかってるのに止められないんだよ。
さっき卒園したてだろって言ってたけど、バグが目立つからだろうね、特別な施設に移されたよもう。ぼくもシーナも…。失敗作ってやつさ。ぼくはバラバラなんだよ。」
ミナトは手順をこなしながら、答えた。
「はーあ。人減らしの後は、人生早送りで短く浅くってか。そうまでしてヒトである意味があるんかね。」
アケミはため息をつきながらスコップの柄についた土を払っていた。
「短い寿命の人間を製造する目的なら、成功してるといえるかもね。興味はなんであれ、考えの果てに、ぼくらは自死を選ぶと思うから。でもあんまり投薬を増やすと、早く死に過ぎちゃって、それはそれで世間に見つかっちゃうよね。咎められる。一般の人々をぼくらの犠牲で安定して生かしつつ、優劣と悲劇の認識によって幸福を実感させる。でもやり過ぎないように情報開示の手加減は必要。茶の間が退屈になれば、この件は叩けばいくらでも埃がでてくるし、もはやエンターテイメントみたいなものだよねほんと。
まあ新薬の開発が進めば、もっと色んな可能性がみえてくる政策だとは思うけどさ…。
ね、そっちおさえてて。あと少しなんだ…」
ミナトは切りっぱなした白い布の端をアケミに渡し、くすねてきた母の口紅で絵を描きはじめた。
「うわ、おまえ…へったくそだな〜。
こういうところも子供として現れるのか。」
「設計図は得意なんだけどね。このまちのマンションも前にいくつか請け負った。でも、絵はできない。ていうか、水牛の絵なんて誰も描けなくない?まったく本当にふざけた本だな…子供騙しだ。」
「ははっ。そこまでわかっていて、おもしろい。おれも昔、母親の絵を描く授業で、下手くそすぎて叱られたっけな。」
「…そんな授業があるんだ。感謝を伝えるってやつ?そうやって、ひとりの少女を母親という枠に押し込んで強制していくんだね。母さんが鬱になるはずだよ。」
「おまえのトリガー、変だな。少なくともひとは、自分で選んでその立場につくんだよ。鬱だって、親だけに限った話ではないだろ。こんなはずじゃあなかったなんて後悔しても、それがそのひとの選択した人生であって、おまえに救えるものではない。もしそんな人生を変えたいと思うのならば、そのひと自身が闘うべきだ。闘わないのは、怠慢だ。」
ミナトはほとんど描きなぐった、ぐちゃぐちゃの赤い生命体から一瞬手をとめた。
「…ぼくに一を言うなら、百で返すけど。」
チラッと睨まれたアケミはめんどうなことを言ってしまったと、焦りをみせた。
「変えたくても、自分の力では変えられない状況ってのがどうしてもあるんだよ…」
ミナトは少し低い声で呟いた。
「まあ、いいや。今日でぜんぶ終わらせられるんだから。父さんと母さんの分はね。キョウジもリツコも再び自分の人生を取り戻す。もちろんぼくも。…ようし。できた。最後に呪文を唱えるんだ。アケミさん、離れていてね。さようなら。会えてよかった。
ダン、ダンっ
プリン伯爵、プリン伯爵、水面に卵を割ってくださいな。
シヴァとパールヴァティーの名の下に、父さんと母さんを解放させてあげてください。
タカギミナトは金輪際、この世に誕生いたしませぬことを誓います。
モノラル、ステレオ、逆再生、
えーっとなんだっけ…
ミナトが滑稽に円を舞い、呪文を繰り返している様子をアケミは眺めていた。
ちぐはぐなこころと体で、まるで狂っている小さな少年を、アケミはこころから哀れに思った。
そして、おんなじように、
狂ったように穴を掘り続けて厚くなった自分の手の皮を確かめ、変形した爪の間に固まった土や血のカスをいじりながら、
自分のことも、哀れに思った。
「…もういいよ。ミナト。そんな呪文では死ねないよ。」
みかねたアケミは、やっとの思いで声をかけた。
「知ってるよ。
もう。なんでも知ってる。」
ミナトはかなしそうだった。
そして呪文を続けた。
何度も何度も、
自分がいなくなるまで…
✳︎
ポップステップパラノイア
地味な男子にカルバンクライン
トーテムポールにのぼったら
桃のお庭がみえるでしょう
プリン伯爵、プリン伯爵…
「…さん、ミナトさん」
気がつくと彼は真っ白な部屋にいた。
壁にはちいさな風景画と、なんの変哲もない時計だけがかかっている。
ソファに腰かけたミナトの膝に手を置き、
医師らしき格好の男は話しかける。
「ミナトさん。面会の時間ですよ。
奥さまがお見えです。」
ミナトはゆっくりと、男に手を引かれながら、擦り歩くようにして部屋をでた。
途中、ミナトと同じ白い衣服を着た男女とすれ違った。
あるものは手すりに寄りかかるようにして跪き動かない。
またあるものは、指折り数を数えながら天を仰いでいる。
暴れる体を数人の人間によって押さえつけられてるものも、遠くに見えた。
ミナトの頭はぼんやりと靄に包まれて、なにもかもわからない風だった。
連れられてきたところは、四人がけのテーブルと椅子が並べられた、食堂のようなところ。
その奥に一人の女が座っていた。
ミナトは医師らしきその男に体を支えられながら、女の方へ歩いて行った。
「こんにちは。」
ミナトがそばまでくると、女はやさしい口調で挨拶をした。
「アケミさん、ありがとう。あとはふたりでいい?」
アケミという医師らしき男は、ええ、と短い返事をして離れていった。
ミナトは女の前に座った。
しばらく見つめ合うと、
ミナトには女がシーナだということが、わかった。
「シーナ…。ぼくの存在を抹消することは、できなかったよ。また…失敗したんだ。
ぼくらはずっと、誰かを苦しめながら…。生きながらえてしまうんだね。」
ミナトは涙ぐみ、シーナは黙っていた。
「シーナ、こんなせかい、もう終わりにしたいよ。父さんと母さんを自由に…、きみも、ぼくのことをまるっきり忘れて、本当のきみに戻るんだ。お願いだ、戻ってくれ…。」
沈んでいくミナトの上半身を前に、シーナはゆっくりと口を開いた。
「ミナト…、
ミナトにはそっちのせかいが本物なんだね。ミナトの生きるせかいは、わたしには見えないけれど、ミナトは必死に闘っている。がんばっているよ。やさしい子だね。ミナトは。
このせかいの誰よりも…。
キョウジとリツコは元気だよ。
もう、小学生になったの。スイミング習い始めたこと、前に話したでしょ。二人とも、夢中になってがんばってる。
キョウジはだんだんあなたに似てきてね…、あなたにもらったリュックで毎日元気に行ってきますって…。」
シーナは虚空を見つめながら、だれに話す音量でもないような声で語り始めた。
ほとんどすすり泣いていたミナトは顔をあげ、
シーナを探した。目があった。
「シーナ…。きみも…、バラバラなのか。」
シーナはブサイクでひしゃげた瞳の奥に、一瞬本当のミナトを見つけた気がした。
ハッと光が閃いて、二人はどこまでも繋がっていた。
不思議と、あたたかい安心に満たされ、
笑顔がこぼれた。
「ははっ、そうなんだね。
…。
わたしにとって、ミナトはバラバラだし、
ミナトにとってもわたしはバラバラだ。
救われないね。
…でも、ありがとう。」
ミナトはすばらしくきれいなシーナの笑顔をみた瞬間、ゲロを吐きそうになり、席をたった。
離れたところから二人を見守っていたアケミを前方に見つけ、何やらこそっと耳打ちをする。
アケミはミナトに寄りかかられたまま、シーナの方を振り返り、だめだこりゃと言わんばかりの表情で、申し訳なさそうに会釈をし、ミナトを連れて帰っていった。
力なくしょんぼりとした二人の後ろ姿をみつめ、
シーナは微笑んでいた。
「っは。ジャイ○ンかよ。…わたしは。」
シーナはミナトの伏せていたテーブルに付着した液体に、手を伸ばした。
帰りのバスまで時間がある。
今日の夕飯は何にしようかな。
そんなことが頭を掠めようとしたが、
少しの間、
ミナトの妻でも、キョウジとリツコの母でもないただのシーナになってみようと、
そっと目を閉じた。
きっともう一度、元気なミナトに会いたい。
かなしく囁く小さな願いを、これから見に行くゆめのなかに託し、
彼女は束の間、眠りに落ちたのだった。