南の荒野
黒の女王の恐ろしさを、白の国で知らない者はいない。
それはジュミスもそうであって、多くの黒の民ですら彼を恐れた。
それは彼が圧倒的な力を誇っているから、というだけではない。
それだけの強さを持ちながらなぜ女王の座に甘んじているのか。
その理由を、誰も知らない。
「ジュミス!」
「イシン…!何故ここに?!」
驚いて、つい手綱を引き馬を止めた。南の荒野へと辿り着いたジュミスの前には、険しい渓谷を越え城に急いでいるものだとばかり思っていたイシンの姿があったからだ。
「ここで何をしている!」
ジュミスはまさかここで戦友の姿を見るとは思いもよらず、しばしたじろいだ。
「君を助けに」
イシンは初めからそうするつもりだったとでも言いたげな顔で、ジュミスの後方に馬を走らせる。
「っ何を-、」
自身の背に回り込んだイシンを半身捻らせてうかがい見た。当たり前のことだが、冗談などではなさそうだ。
「城へ戻れ!」
「断る」
ジュミスの声はイシンの決意を覆すことが出来ない。昔からそうだった。幼い頃から兵士養成所で肩を並べ、互いに高みを目指していた頃からだ。
ジュミスにとってイシンの言動はいつも型破りだった。その奇異とも言える奔放な思考に振り回されもしたし、また気付かされ、視野を広げられることも多くあった。長くいれば相容れぬこともあったが、ジュミスはイシンに感謝こそすれど、彼を疎み敬遠することはなかった。それはイシンも同じであって、明確に言い表せないが、どこか似ていると、互いに思い合っていた。
だが今に限っては、これを受け入れるわけにはいかない。
ジュミスは頭を振った。イシンにはセファンを、国王を護ってもらわなければならない。
「イシン!命令だ!」
「-ジュミス」
ゆら、と地平線が怪しく揺れた。
ジュミスは気配を感じて瞬時に振り返る。来た、と微かな音が口を吐いた。大地の熱が、まるで地獄の底から喚び起こされた怪物を取り巻くように熱くうねり、景色を歪めた。
「イシン!」
ジュミスは急かすようにイシンに声を上げた。
もしここにこのまま居たら、確実にイシンもこの戦いに加わることになる。そうなれば城に戻り王を護ることは難しくなる。黒の女王はやすやすと逃がしてはくれないだろう。
「イシン!!」
ジュミスは懇願した。こうしてる間に、もし、もし万が一、誰かが倒れでもして、城に黒の軍勢が押し寄せでもしたら。万が一、そうして国王の命を-
「ジュミス、僕の護りたいものは、」
イシンの声が、ジュミスの鼓膜を揺らした。
「…神でも、この国でも無い」
穏やかだった声が、殺気を孕む。
真っ黒な髪、真っ黒な鎧、真っ黒な馬。真っ黒な瞳をした"怪物"が、やって来る。目視出来るのは、その身に纏う黒の意志。終わりの無い、闇の様な。そのうねりが小柄な彼を大きく見せた。
"怪物" 黒の女王。その姿を見たものは恐れおののいて後ずさる。
黒いうねりは、目に見えない怪物へと変貌を遂げた。
「僕が護りたいものは-」
す、と時が止まる。
ジュミスは浅く息を吐いた。
あぁ、イシン。君はいつも、僕を振り回すな…だけど、
「ジュミス、君だよ」
それを嫌だと思ったことは、一度だって無かったよ。
ジュミスは手綱を引いた。
真っ直ぐな矢のように荒野を駆ける。一筋の白い光は真っ黒な怪物へと向かっていく。
「…始めよう」
怪物へと姿を変えた闇は、大口を開けて飛びかかった。