進級試験前夜
黒の意志に囚われると毛髪が闇のような色へと染まる。
白の国の民はそれを『翳り』と呼んだ。
そうなったもの達は皆白の国を出て、黒の国へと行かねばならない。
そうせねば、反逆者として地下牢に幽閉されてしまうからだ。
「ジェイクの髪は本当に綺麗だな」
いつかベクールがそう言っていた。
瞼にかかるほど伸びた前髪をうっとおしく思っていたのに。
ベクールは髪に触れ、微笑みながら言った。
「光を浴びるとキラキラしてさ」
*
ジェイクの髪は生まれつき、他人よりほんの少し白みが強い。でもそれはよく見ないとわからない程度の些細なものであったし、皆ほんの少しずつ色味が異なる事もあって、ジェイク自身それに気がついたのは、養成所に兵士志願者として入隊した頃だった。
いつ起こるかわからないと言われ続けていた黒の国との決戦の日のため、若い男たちはそのほとんどが兵士として志願する。愛する国を守るため、愛する人を守るため。当然、ジェイクもその一人だった。幼い頃から黒の国について学び、教えられる。彼らは元は白の国の民であったと。
何百年、いや何千年前の話がはわからないけれど、昔この二つの国は一つであって、王家には十二の兄弟がおり、一つだった十二の意志が道を違え、二つの国に別れた。
黒の国の民は皆、真黒な髪をしている。黒の意志に心を囚われたものは皆、深い闇のような、真黒な髪を。
ジェイクが気がついたのは、三年目の訓練を終えて、進級試験を控えた前夜のことだった。
あの日、ジェイク達は自分が力をつけてきているのを自覚できるようになっていた。身体つきだけじゃない。戦闘における身のこなし、判断力、戦術、そして特殊能力の開花とその強化。
明日の進級試験には必ず合格して、そしていつか皆でこの国を守ると、そう信じていた。
けれど、そうはならなかった。
それは深い闇の中の出来事だった。
あの日デジョンは訓練を終えると、いつものように談話室には向かわずに、直ぐに部屋へと戻った。そう言えばその前の日もいつもより早く部屋へ戻ってしまっていたなと思い出す。思えば少し落ち着きがなかったし、表情も強張っていたかも知れない。
でもその頃進級試験を控えた者達は皆そうであったから、例えデジョンがいつもより少し無口で、固くて、神経質であったとしても、誰も不思議に思わなかった。
だからジェイクもいつものようにデジョンがそこにいなくても、ベクールと喋って眠る前のホットミルクを一緒に飲んでから部屋へと戻った。
訓練を終えて直ぐにシャワーを浴びても眠る前にももう一度浴びる癖は、明日が進級試験であっても特別変わることはなくて、頭から爪先まで一日の汚れを流すように身体を洗った。顔の水気を拭き取って鏡を見たその時、何か妙なものを見ている気がした。
何だ?
おかしい。
何か、何か違う。
見慣れたはずの自分の顔が、何か違う。
ジェイクは不思議に思った。何だ?まさか緊張しているのか?
明日の試験には自信があったし、勿論デジョンもベクールも一緒に合格出来ると信じていた。今日はもうベッドに身を沈めるだけであったし、何か気負うような事はないはずだった。
だからジェイクがその"妙な何か"に気が付くのに時間がかかったとしても、仕方なかったのかも知れない。
けれどジェイクはふと、気が付いてしまう。
自分の些細な変化に。
いつもと違う、自分の髪に。
ばっ、と鏡に顔を寄せた。
心臓がばくんばくんと音をたてて唸るので、視界が上下に揺れた。けれど上下に揺れるその視界には、自慢だった白銀色の髪に、一筋の、黒。
-嘘だ
ジェイクは瞬きするのを忘れ、そこだけを食い入るように見つめた。
嘘だ。そんなはずない。だって俺は白の国の民で、ベクールもデジョンも、大切な家族も友達も、皆白の国にいて、守るべき総てがここにあるのに。どうして、俺が-
これは、まるで-
ぞわ、と一筋の黒が滲んだ。ジェイクは息をのむ。は、酸素が喉を通ると、その色はジェイクの髪に拡がった。
嘘だ!
ジェイクは声が出そうになるのを必死で堪えた。嘘だ、嘘だ!目を瞑った。これ以上ないくらい、ぎゅっと、固く。恐怖に怯えながら浅い呼吸を繰り返して、勢いよく眼を開く。強く閉じたせいでチラチラと七色の光が視界を遮った。
けれどジェイクには、その美しい光の間から見えてしまう。深い闇のような、真黒なそれ。
「嘘だ!」
つい声に出して叫んだ。
ばっと口を覆う。誰かに見られでもしたら、俺は-
ジェイクの目には大粒の涙がたまって、一つ、また一つとこぼれ落ちる。その間にも、彼の美しかった白銀の髪は、濡れ羽色に染まっていく。ぶちん、と痛みを感じるほど強く、髪の毛を引き抜いた。手には烏の羽根のような黒い毛が残されている。ぶちっ、ぶちっ、ジェイクは必死になって引き千切る。けれどそのすぐ側からまた黒い染みは拡がってしまう。まるでもうお前は手遅れなんだと、分からせるみたいに。
直ぐに灯りを消した。これ以上見たくなかった、信じたくなかった。染まってしまいたくなかった。ジェイクは眼を閉じて、膝を抱えて丸くなった。これは夢だ、夢なんだ。そう言い聞かせながら呟く。
「嘘だ…これは、夢だ」
「夢なんかじゃない」
ビクッと身体が跳ねる。一人だったはずの部屋に自分じゃない声がした。それもよく知る、人の声が。
「もう分かってるんだろ」
「…デジョン」
デジョンの声は冷たくて、ジェイクはそこから一ミリも動くことが出来なかった。バレてしまった。自分が、まさか-
「ジェイク」
上から落ちてくる声は深い闇に溶けてしまって、デジョンがどこにいるのか分からなかった。
「お前は"翳り"だ」
ぞわ、と総毛立つのが分かった。嫌だ、嘘だ、そんなはずない。ジェイクは顔を上げて泣いた。
「…違う!俺は、白の民だ!お前達と一緒に、この国で-」
「その髪が何よりの証拠だよ」
デジョンの声はジェイクの追随を許さない。
「黒の意志に囚われたな」
「…違う、違う俺は!俺は-」
ジェイクはデジョンに縋るように声を上げた。
「見ろ」
ずい、と目の前に自分の顔が現れた。闇の中でぼんやりと光る鏡を突き付けられたのだ。
ビクン、と身体が跳ねる。
「ジェイクの髪は本当に綺麗だな」
ベクールの声が、聞こえた気がした。
目の前に映るはずの白銀は深い闇に紛れてしまって、
「光を浴びるとキラキラしてさ」
そう言ってくれた輝きは、もうどこにも残っていなかった。
ボロボロと涙が溢れ出た。もうここにはいられない。これは"翳り"だ、俺は翳ってしまった。黒の意志に囚われてしまったんだ。
「ジェイク」
ジェイクの絶望を救い上げるような優しい声がして、ぼんやりと光るランプがデジョンの姿を映し出した。
「…デジョン、俺-」
行かなくちゃ、と言葉にする前に、
「行こう、ジェイク」
と言ったデジョンは、泣くとも笑うともつかない顔をして、目深に被っていたローブのフードを、ゆっくりととった。
「-俺も、"翳り"だ」
微かにミルクティ色をしていたはずのデジョンの綺麗な髪は、闇に溶ける漆黒に染まっていた。