西の渓谷
西の渓谷は、白と黒とを繋ぐ唯一の橋が架けてある。
大勢の兵が攻め入るのならその大半はここからだろう。
イシンに、迷いはなかった。
鈍い金属のぶつかる音が地鳴りのように鼓膜を揺らした。
その数は余りにも膨大で、視界一杯に広がった虫のような黒い粒がうぞうぞと蠢いている。
まさかこんなにも早く、この渓谷を越えてくるとは。イシンは城から谷への途中、高くそり立った岩からこの地獄のような光景を見下ろしていた。
これほど黒の兵がこちらに渡っているとなれば、この無尽蔵にも思える兵を束ねる幾人かの強者たちは既に城を囲み始めているに違いない。ある者は北、ある者は東、そしてある者は南からと、四方総てからこの城を崩そうと目論んでいるのだ。見ればやはり無造作のようでそれとなく均等に散っていく。イシンは急いで馬を走らせた。
「せめて僕のやれる事を」
渓谷に向かって駆ける。
ヒュン、と風を切る矢が頬を掠めた。既に狙いを定められたようだ。
ふん、そうか君たちがこの西の渓谷を任されたんだな。イシンは苦笑する。甘く見られたものだ、彼の眼に強者の姿はうつらない。なるほど西から直接攻め入る気はないようだ。
しかしこの不快な黒の虫達をここに残してはおけない。取るに足らない存在であっても、足元を救われることがないとは言い切れないからだ。
「悪いけど蹴散らさせてもらうよ」
イシンはそう呟くと無数に飛んでくる矢を大太刀ですべて打ち落とした。
やはり馬上で扱うにはこの太刀が一番良い。広範囲に渡って攻撃出来る。向かってくる虫達を蹴散らすに相応しい。
イシンは今でこそ白の国の騎士であり王室の補佐役であるが、現女王となったジュミスに呼ばれるまでは地位や肩書きなどには目もくれず最前線で腕を振るっていた。
イシンは強い。だがそれを制せる上官がいなかった。穏やかだが芯があるイシンは自分の思う正義に常に忠実で、意見を聞き入れる相手は数少ない。
それでもイシンを側に置くことでジュミスもまた、自身を強く保つ事が出来ていた。
「君の中身を、見せてもらうよ」
ぞわ、と背筋が凍る。イシンと目が合った黒の兵は瞬時に身の危険を察して後ずさった。踵を返し、喚きながら無様に背を向け本能で逃げる。弱者と成り果てたその背にイシンは刃を向けた。
『取り残された意識を曝せ』
イシンが呟くと必死に逃げ去ろうとする黒の兵の頭から、ぼわ、と白い光が浮かび上がった。瞬間、その黒の兵は足を止め、キョロキョロと辺りを見渡し始める。今自分が何故ここにいるのか分からない、とでも言うかのように。
「…なるほど、そこに君達がいるわけか」
イシンは浮かび上がった白い光を掴んで握り潰したかと思うと、ぶん、と大太刀をまた一振りした。ばたばたと倒れていく黒の兵は、その身を二つに分かつ者、空中に身体を浮かせる者、衝撃でどこか一部が潰れる者と様々であった。辺りがどす黒い血でまみれると、残された黒の兵達が一瞬、たじろいだ。
イシンはそれを見逃さない。
『萌黄の花揺れる頃
玉響の子守唄に身を委ね
天啓の囁きを聴け』
イシンが素早くそう唱えると胸の奥からまたぼわ、と青白い光が浮かび上がった。それは先程とは違い凄まじい速さで空へと飛んでいく。そして天高く舞い上がり、パン、と小さく破裂したかと思うと、キラキラとした砂のように散った。
「頼むよ、ジュミス」
イシンは微笑みながら再び太刀を握り直す。
「すぐに向かうよ…もう西に虫はいなくなるからね」
そう呟くと、真白な鬣を踊らせる愛馬に鞭を打つ。何百といたはずの黒の兵は、動かぬ亡骸となっていった。