白の国:玉座の間
誰よりも先に西の渓谷、東の森に向かうと戦友がそれぞれが言い出したのを、ジュミスは止めなかった。彼等なりの誠意を込めた決断だろう。心苦しさと共に、羨ましさもあった。
ジュミスは幾度となく重ねてきたはずの『選択』に、今ほど迷いを感じたことはなかった。
ジュミスは急がねばならなかった。
イシンの報告では黒の女王は既に南の荒野に到達するらしかった。しかし東の森をルーン、北の高原をベク―ルに任せている今、西の渓谷のイシンを除いては今この城を護れるのはジュミスしか居ないのだ。イシンが今しがた戦いを終えたと言っても、あの大きな渓谷を越えるとなると優れた駿馬であっても城に戻るまで三刻はかかるだろう。しかし事態は一刻を争うのだ。
ジュミスは黒の女王ほど聡明で屈強な人間を知らなかった。敵として迎えるにはあまりにも優秀過ぎる。けれどジュミスは彼と剣を交えることになれば、自分にも勝機があるとふんでいた。自身が南の荒野へと赴き、黒の女王を迎え撃つ。地の利を活かした戦いをすればあるいは、勝利を納めることが出来ると。
しかし今ジュミスがこの城を後にしてしまえば、残るのはこの病弱な弟一人となってしまう。幾人か兵士達を残して行ったとしても、この城に踏み込んで来るであろう者はより優れた戦士なのだ。もしイシンが戻る前に、城に踏み込まれたとしたら-
セファンの喉元に刃をたてられるまで、そう時間はかからないだろう。
「兄さん」
ジュミスの焦る心に穏やかな声が響く。
「南へ」
セファンの瞳をじっと見つめる。ジュミスはどうすべきか考えあぐねいていた。このように迷う時間こそ無駄であると分かっているのに。
けれどジュミスの躊躇いを誰も責められはしないだろう。それは目の前にいる彼がこの身を挺してでも必ず護り通さなければならない最愛の弟であり、そしてこの国の王であるからだ。例えジュミスがこの国最強の戦士であったとしても、唯一の肉親を捨て置くなどと、誰が出来るであろうか。
「兄さん」
セファンはジュミスのことをよく知っている。愛する兄は自分のことを捨て置けない。そして黒の女王は、兄ですら命を落とす覚悟で挑まなければならない相手であるということも。
「ジュミス兄さん」
セファンのぺたぺたとした平らな声がジュミスを呼んだ。
セファンはいつだってジュミスのことを慕っていた。この国最強の戦士、白の女王としてではなく、最愛の兄として。
ジュミスに命を下せるのは王であるセファンだけだった。兄任せの無能な国王だと黒の国から囃し立てられても、兄の采配を振る姿に一度だって口出ししなかった。それはセファンがこの世で最も信頼する者がジュミスであって、またジュミスもセファンのことを最も信頼しているとわかっていたからだ。
「兄さんは国王としての僕と、弟としての僕、どちらを護っているの?」
突然の問いかけにジュミスがすぐに答えを口にしなかったせいで、セファンの声はだだ広い王座の間に取り残される。
「…うん。兄さんならそう答えると思ってたよ」
セファンはジュミスの声を待たずに、その沈黙そのものを答えとして受けとる。
弟、と言われれば嬉しかったのだろうか。いや、国王だからだと言われれば、あるいは。
セファンには兄の心が見えなかった。見えなかったけれど、総てを委ねると決めていた。白の女王としてだとしても、実の兄としてだとしても、ジュミスならば必ず、この国を救ってくれるであろうと。その為にはセファンは生き延びなければならない。兄が身を投げ打ってでも護りたいものがなんなのか、分かっているから。
「ホワイトクイーン、白の女王」
ジュミスは目を見開いた。
その名でセファン-、国王に呼ばれるのは、初めてのことだったからだ。
「南の荒野へと赴き、黒の女王を討て」
その声は今までになく凛として、弟としてではなく、国王という存在から発せられる強い意志が感じられた。それはジュミスが今城にセファン一人を残したとしても、一国の王としてこの玉座に君臨し続けるという強い意志だった。
「セファン」
ジュミスは思わずその名を口にする。
「いってらっしゃい」
セファンの声は、ついさっきまで話していたぺたぺたとしたもたつきを取り戻して兄に告げる。
これが今生の別れとなるか、再会までの結びとなるか。二人の答えは決まっていたが、そうなるとも限らない。
「…すぐに戻る」
ジュミスは愛する弟のフニャリとした笑顔に微笑み返すと、愛刀を振りかざして立ち去る。自分よりも華奢な骨格であるのに鍛えられ逞しくなった兄の背を、セファンは見送った。