賢人さんと囲い込み王子
マルス家は王国でも有数の侯爵家。
王都に立派な邸宅を構えている。
東の端には本に囲まれた薄暗い部屋があった。
そこに住まうのは、まだ十六歳の少女。
リナリアは、マルス侯爵が若かりし頃に平民の女性と関係を持ち、産まれてしまった庶子である。
母と二人で慎ましやかに暮らしていたが、母の病死をきっかけに侯爵家に引き取られることになった。
「まあ、リナリアさん、なんてみっともないの!?」
そんな少女の朝は、義母の非難の声から始まる。
「だから、朝食の時間には着替えを済ませなさいとあれほど……」
小言を垂れ流しながら、本が其処彼処に散らばる床にずかずかと踏み込む侯爵夫人。
彼女の後ろに従っていた侍女達は、床を片付けながら前進している。
「だって、急にいい構図を思い出して目が覚めちゃったんです。こっちを商会さんに提出するわ」
部屋の主は、彼女達に目も向けず、机に噛り付いていた。
癖のある赤毛に、褐色の瞳。
マルス侯爵に生き写しと言われる容姿の少女は、ぼさぼさの髪を適当に束ねている。
そして、服は絹の肌着のみ。
「作業着を用意したでしょう? どうして、そんな、はしたない……」
義母はこめかみを抑えつつも、侍女に衣装棚を開かせる。
少し考えたのち、一着を指示した。
侍女達がリナリアに群がり、鏡台の前に座らせる。
「あんなご立派な服は、作業着とは言いませんわ。“孤児院で子ども達に慕われる”風を装ったお嬢さんが着ている感じね。それに、侯爵夫人はご存じないでしょうけど、夏の平民は家で裸になるのよ?」
「いくら私でも、それは嘘だとわかります!」
義理の母子がほぼ日課と化したやり取りをしている間に、侍女達がリナリアの支度を進めていく。
香油で顔を揉み、髪を梳かし、服を着替えさせてから、少しの化粧と髪形を整える――あっという間に、令嬢らしい身成が完成した。
リナリアのつま先からてっぺんまでを見渡した侯爵夫人は、満足そうに頷く。
「さあ、早く行きますよ」
「もう少しなのに……」
零しながらも、リナリアは大人しく夫人の後に従う。
彼女の机には、描きかけの絵が残されていた――それは、精密な女性の絵。色彩が付けば本物かと見間違うような出来映えだ。
先日行われた、皇太子夫妻の結婚式の記念式典で、バルコニーに立つ王太子妃を写したものだった。あと、もう片方の耳飾りを描き込めば完成。
この国に時々生まれる、不思議な能力を持った人々――並外れた記憶力や計算力などを持った彼らの事を“賢人”と称している。
リナリアもその一人。
彼女は、一度見た景色を正確に記憶し、寸分違わずに描くことが出来る。
その能力を生かして彼女は母子二人の家計を助けていた。
侯爵家に引き取られてからも、書物の出版を手掛ける商会に『職人泣かせ』と称される原画を売っている。
ここ最近は、隣国から嫁いできた王太子妃の書籍を出すために、彼女の絵姿ばかりを描く日々が続いていた。
一度のめり込むと寝食を忘れて描画に耽るリナリアなので、家族に叱られるのはいつもの事であった。
「おはよう、義姉さん」
「遅いですわよ」
食堂には、すでに義姉と義弟が着席していた。
一歳しか違わない義姉と、四歳ほど離れた義弟――リナリアの存在が発覚した当初は、『政略結婚とはいえ妻の妊娠中に他所で子どもをこさえた』という事実に眉を顰め、距離を置いていた二人であったが、今では何やかんやと気遣ってくれる。
「おはようございます。遅くなって申し訳ありません」
リナリアも二人には感謝しているので、頭を下げておく。
夢中になるのは性分なので、直ることは無いと思うが。
「リナリアさん、午後は時間を空けておいて下さる? 来週の準備がありますから」
「来週?」
卵を食べる手を止めて、義姉を見る。
(来週は、市場に行くつもりだったけど……)
リナリアの反応から、何も理解していないことを察した義姉は溜め息を吐く。
「ですから、前から言っていたでしょう? 王太子夫妻のお茶会があるって」
(あー、聞いたような……)
見た物は忘れなくても、聞いた事はわりと忘れるリナリアであった。
「私みたいな者は出ない方がいいんじゃないですか?」
貴族様の行事には、出来るだけ関わりたくないリナリアは抵抗してみる。
「第一王子であった王太子殿下は人気が高く、多くの令嬢が彼との婚姻を望んでいました。今でも、王太子妃殿下の事を快く思わない方々が多くいます。また、保守派には、突如隣国の令嬢と婚姻を結んだ王太子殿下を危険視する者も」
義母の言葉を聞いても、人気者って大変、ぐらいにしか思わない。
「マルス侯爵家は中立ですが、いらぬ諍いを望みません。」
「次の茶会は、取りあえず、妃殿下を労うための集まりですわ。周りを無害な人間で埋めたいの。ですから、貴女は黙ってお茶でも飲んでいなさい」
「……はい、分かりました」
人数合わせなら多分できる。
リナリアは気負わないことにした。
仕立屋や宝飾品の商人が侯爵家を出入りし、髪と体の手入れを念入りにされている内に日々は過ぎる。
お茶会一つで大仰な、とリナリアは辟易してしまう。
当日、深緑の衣装を着せられたリナリアは、母と義弟に見送られて馬車に乗り込んだ。
「じゃあ気を付けてね、義姉さん。鳥を追いかけちゃ駄目だからね」
「そんな事をしていたのね……」
知らなかった事実に、義母が頭を押さえる。
義弟の付き添いで、王宮に行った時を思い出す。
確か、王太子夫妻の式典が終わり、王宮がごたついていた頃か。
父と部下に差し入れを届けた帰り、珍しい尾っぽを持つ鳥を追い掛けて裏庭に迷い込んでしまった。そこで、池の魚に餌を投げ入れているらしき侍女と目が合い、悲鳴を上げられたのだ。
(あの餌、何だったんだろう……? 青くてきらきらして……王宮の魚って宝石でも食べるのかしら……)
追いかけてきた義弟に急いで連れ帰られたので、リナリアは池の中を見ていない。
後でこっそり覗きに行こうかと考えている内に、馬車はあっという間に王宮へ。
案内されたのは、日当りのいい大広間。
高位貴族の令嬢達が揃う中、リナリアと義姉は奥の席に着く。
同じ席にはフェブリエ公爵家の御令嬢。ここが王太子夫妻をもてなす席らしい。
「あら、エリダ様?」
三人連れの令嬢が、リナリアの席に近付く。
口を開くのは先頭の御令嬢。
下ろした髪は優雅に波打ち、体の線がでる大胆なご衣裳。
豪勢な鳥の羽が付いた扇子を手に、此方を見下ろしている。
「その方が噂の妹さんかしら? 庶子の産まれと聞いたけど……」
嘲るような視線と、声。
この手の類には、リナリアの返答は一貫している。
「はい、ひと夏の過ちです。よろしくお願いします」
その言葉に、扇子の動きが止まる。
「そ……そう、なの……頑張ってね……」
三人組がそそくさと退散する。
周囲でこっそりと様子を窺っていた他の令嬢達も、そっと視線を逸らした。
「今日もお空きれい」
義姉は虚ろな瞳で窓を眺めている。
公爵令嬢が、彼女の背を優しく擦った。
気まずい室内の空気をごまかしてくれるように、王太子夫妻が入室する。
後ろには、王太子によく似た少年も続く。
第二王子よ、と義姉が囁いた。
「シリウス様、今日はどうなされたのですか?」
「挨拶をしておけと兄がうるさくてね」
第二王子はすぐさま令嬢達に取り囲まれる。
先程の大胆な御令嬢も中にいた。
王太子はそれを気にすることも無く、王太子妃を伴って此方まで来た。
すぐさま義姉が声を掛ける。
「殿下、妃殿下、本日はお招きありがとうございます」
「来てくれてありがとう。楽しんでいただけたら嬉しいわ」
張り詰めた表情の彼女は、ようやく微笑みを見せた。
「此方での生活にはなれましたか?」
「まだまだ至らぬことばかりで……」
「そんなことないさ、デイジーはよくやってくれているよ」
第二王子を囲む令嬢達の嬌声を背に、リナリア達の席は和やかに談笑を続けていた。
会話を進めるのは王太子と公爵令嬢。
王太子妃は質問されれば答え、義姉が相槌を打つ。
リナリアは黙ってお茶と菓子を堪能していた。
この手の会話はとんと分からん。
「……妃殿下?」
「……え? あ、ごめんなさい。なんの話だったかしら」
(うーん、なんかおかしいよねぇ)
線が細く儚げな印象を受ける王太子妃であるが、今日はいつにも増して弱々しさを感じさせた。
吹けば飛ぶような、そんな感じ。
心ここにあらず、といった様子で会話もおぼつかない。
ここ暫くは王太子夫妻の式典は欠かさず参加し、彼女の姿を見続けてきたリナリアに違和感を覚えさせた。
(寝不足かな? 私が夜通し猫の尻尾を描き続けたときもあんな感じだったけど……)
あれは楽しかった。
商会から『使いどころが分からん』と突き返されたが。
リナリアが悩んでいる間に、お茶会はお開きとなった。
想定していた時間より、遙かに短い。
おそらく王太子妃の不調を他の者も察していたからだろう。
「妃殿下は調子が思わしくなさそうでしたが、大丈夫でしょうか?」
王宮内を歩きながら、義姉に問う。
「あら、お二人は結婚したばかりなのですから……その、色々、色々と……言わせないで」
義姉が口ごもる。『お盛んですね』という意味の言葉は、令嬢達の会話例文には無いのだろう。
「私が庶子令嬢なら、エリダ様はど助平令嬢って言われますよ」
そう言うなり、尻を叩かれた。痛い。
「変な事を言わないでちょうだい!」
お嬢様には刺激が強かったのだろう。
義姉は涙目で、耳まで真っ赤に染めている。
彼女には幼い頃からの婚約者が居るのだが、少し年上の落ち着いた男で、大層清いお付き合いを続けているらしい。
(耳、耳かぁ……)
その姿を見て、リナリアは気付く。
今日の王太子妃は、耳に何もつけていなかった。
これまでに描いた王太子妃の姿を思い出し――
「あ、」
リナリアは立ち止まる。
「エリダ様、あれを取りに行ってくるから、先に帰ってて下さい。私は馬でも借りるから」
「そんなこと出来るわけないでしょう! それより、あれって?」
戸惑う姉と侍女を振り切り、リナリアは駆け出した。
お茶会を共にした令嬢達とすれ違いながら、リナリアは裏庭へとたどり着く。
水の中を覗き込み、そっと指を着ける。
季節は雨期を過ぎ、少しずつ熱くなっていく頃。水温も低くない。
(そんなに深くなさそうだし、これならいけるかな)
そう決意すると、おもむろに服を脱ぎだした。
一枚二枚と放り出し、身に纏うのは肌着のみ。
誰かの悲鳴を背に、リナリアは池へと飛び込んだ。
『誰かが池に飛び込んだらしい』
王宮内での騒ぎを聞いて、エリダ・マルスはまさかと思った。
しかし、あの義妹ならやりかねない。
侍女と共に人が集まる方へ駆け出し、裏庭へたどり着いた彼女が見たのは、脱ぎ捨てられた衣服。
間違いなく、母と自分が選んだものであった。
「リナリアっ」
慌てて池に駆け寄る彼女を、侍女が止める。
「お嬢様、落ち着いて下さい。リナリア様は良く池に潜ります。それに、救助の邪魔をしてはいけません」
エリダは服にしか注目していなかったが。
池の周りには使用人達に指示を出す第二王子の姿があった。
池の中に入れた棒を引き上げると、それを掴む白い手が水面に浮き上がる。次いで、見慣れた赤毛も。
「はー疲れた」
こともなげにいうリナリア。
使用人に手を引かれ、岸へと上がった。急ぎ、上着を掛けられる。
「リナリア」
エリダは急いで義妹に駆け寄る。
「もう、馬鹿、馬鹿! どうして……」
「エリダ様、これ」
リナリアは握りしめていた物を差し出す。
そこには、小さな青い鳥を模した細工。
「王太子妃の耳飾り。どこかで見た気がしたの」
「君……そのために?」
傍で見ていた第二王子が笑った。
耳飾りを第二王子に託し、リナリアは王宮内の一室で休憩を取っていた。
「あー沁みるわぁ」
体を乾かし、お茶を堪能していた時。
扉を叩く音がして外から声が掛けられた。
「王太子殿下夫妻がお越しですが……開けても大丈夫でしょうか?」
「……はいっ問題ありませんわ!」
声が掛かった瞬間に侍女がリナリアの服の皺を伸ばし、背筋も伸ばさせる。
それを確認し、義姉が返答した。
「失礼致します」と王宮の侍女を先頭に、王太子夫妻が入室する。
王太子の方は先ほどまでと変わらないが、王太子妃の様子がさらにおかしい。
今度は顔を真っ赤にさせ、目も腫れている。
「あなたが……」
か細い声と共に差し出されたのは、青い鳥を模した耳飾り。
二羽の大きさが少し違うのは、親子か夫婦を表しているのだろう。
リナリアが池で拾ったのは、小さな方。
「見つけてくれたのね? ありがとう」
涙を流しながら、リナリアに抱き着いた。
嗚咽混じりに話す王太子妃曰く、隣国から嫁いできたものの、貴族令嬢や侍女達から心無い言葉を浴びせられていたらしい。
祖国の為、と黙って耐えていた彼女であったが、嫁ぐ際に母から譲られた唯一の品――青い鳥の耳飾りを失くした事で、限界だったらしい。
「うわー。妃殿下って、王太子殿下が留学中に見初めて連れてこられたのでしょう? 王国の方が強いから。それで守ってくれないって、甲斐性ないね」
王太子夫妻にとんだ不敬を――義姉はリナリアと土下座する動きを見せたが、王太子がそれを制する。
「いや……続けさせてくれ。その、彼女達は、僕の前では妃殿下の事を褒めそやすんだ……それで、僕は皆が良くしてると勝手に思い込んでいた……」
義姉も『甲斐性ないね』とは思っていたので、黙って従うことにした。
「私、侯爵が視察先で庶民とこさえた子なんだけど、最初は母と二人で住んでいたの。小さい時、街に来たお貴族様の絵を描いていたらね、母がそれを取り上げて、男の人の顔を何回も踏みつけて……それで、気付いたの。ああ、この人が私のお父さんなんだぁって」
「そのくだり、いる?」
声の主は、扉の外から覗く赤毛の男。
連絡を受けたマルス侯爵が様子を見に来たらしい。
「その後のお母さん、凄くすっきりした顔していたから。妃殿下も王太子殿下の絵をめちゃくちゃにしてみたら良いと思います」
ともすれば一族郎党処されかねないことを平然と言うリナリアに、侯爵と義姉が白目を剥く。
髪や目の色こそ違うが、親子そっくりの顔である。
「僕の絵なら後で好きなだけ踏みつけてくれていいから。それより、リナリア嬢といったね? 侍女がこの耳飾りを池に投げたと聞いたが、その者の顔は覚えていないか?」
リナリアはその言葉に頷く。
侍女に紙を用意してもらい、描き出した。
「えーっと……髪は黒くて、目は茶色くて……」
紙上に再現される、女性がものすごい形相で池に何かを投げ入れる図に周囲が息を呑む。
「賢人か……」という言葉がどこかから漏れた。
「はい、出来ました。で……」
再び紙に向かい、さらさらと書き上げたのは王太子の顔。
「お納めくださいませ」
「リナリア、やめるんだ」
その絵は、妃殿下の私室に丁寧に飾られたという。
少しして、王国内の貴族勢力と、王宮内の使用人が一新される事態が起こる。
それは『初夏の大粛清』と呼ばれた。
「じゃあ義姉さん、気を付けて」
義弟に見送られ、馬車で向かったのは王宮の前。
馬車を出ると、見慣れた顔の侍女が待っていて、案内を受ける。
たどり着いた部屋には、すでに先客の姿が。
「リナリアさん、待っていたわ」
「お招きいただきありがとうございます」
妃殿下を前に、恭しく礼を取った。
例の一件以来、リナリアは王太子妃殿下の“友人”として招かれるようになった。
侯爵家は、彼女にそんな大役が務まるのかと固辞したが、王太子の『彼女の息抜きだと思って』という懇願に折れる形となった。
王太子妃は肩肘張らない時間を楽しみ、リナリアは王太子妃を手本に行儀作法を身に着ける。
お互いにとって益の有る、と周囲は判断していた。
「妃殿下、そろそろ次の予定が……」
「そうね。リナリアさん、今日もありがとう」
「はい。では、失礼いたします」
王太子妃の公務もあり、長時間は居座れない。
リナリアはこの後に図書室へと立ち寄る習慣が出来ていた。
王宮の図書館には、侯爵家でも揃えられないような珍しい書籍がある。
王太子妃の友人の特権として、そこそこ良い場所で読書に集中することができた。
たいがいは、時間も忘れて読みふけるので馬車で待つ侍女が迎えに来る。
「やあ、リナリア嬢」
「ごきげんよう、殿下」
王宮へ来ると、大抵、第二王子とすれ違う。
「隣国から黒牡丹を取り寄せたんだ。どうだい、一緒に」
「申し訳ありませんが、父に帰るよう言われましたので……」
いつも庭園や私室への誘いを受けるが、丁寧に固辞している。
珍しいものは興味があるが、知らない男には付いて行くなと、亡き母によく言われたものだ。
マルス侯爵家には、第二王子とリナリアの婚約が国王より持ち掛けられた。
侯爵は一蹴した。
リナリアには教育も愛情も野心も自己犠牲の精神も足りない。
リナリアが相手を好きならともかく――
「リナリアはシリウス殿下をどう思う? ……あの、第二王子の事だけど……」
「第二王子? 王宮でよく見るけど……暇なのかな?」
王子の興味はリナリアに掠りもしていないようだ。
それからも、リナリアが王宮へと通う度、第二王子はどこからともなくやって来て、リナリアに声を掛ける。
「ごきげんよう、殿下」
「シリウス」
「はい、存じ上げております」
「……そうじゃなくて」
そんなやり取りが何回も続く。
(私が王族の名前も覚えられない阿保だって思っているんじゃないかしら? さすがに、私だって……あれ、王太子殿下ってなんだっけ……?)
ある日のこと。
「やあ、リナリア嬢」
低い声にリナリアは顔を上げる。
茶色の髪に、青い瞳の王太子によく似た顔。
第二王子が目の前に居た。
「ごきげんよう、殿下」
読書の手を止めて、席を立つ。
そろそろ帰ろうかと思い、外を見ると――夕日が沈みかけていた。
いつも帰る時間より、かなり遅い。
「随分、集中していたんだね。侯爵家まで送って行くよ」
「いえ、家の者を待たせていますので……」
「君の馬車は先に帰ったから、気にしなくていい」
にこにことして言う第二王子。
そのまま、リナリアの腰を取ろうとし――彼女はするりとかわす。
「では、お借りしていきます」
「え、借りる?」
疑問の声を上げる第二王子をその場に残し、王宮の外へ。
厩にいた世話係に声を掛ける。
「すいませーん、うちの馬車帰っちゃって……馬、お借りしてもいいですか?」
「え、馬、え?」
世話係は彼女の顔と髪を見て、後ろから付いて来る第二王子を見て、目を白黒させた。
「う、馬なら、お、お好きなものを……」
“妃殿下の友人”の特徴ぐらいは聞いていたのだろう。彼は平身低頭で中を示す。
「ねぇ、リナリア嬢、一体……」
リナリアはドレスの紐を解き、下に降ろす。
戸惑う男たちを前に、ドレスの下に来ていた衣服――簡素な乗馬姿を見せる。
ドレスを纏めると背中に括り付け、彼女は馬に飛び乗って王宮を去った。
『馬車に誘う男がいたら、馬でも奪って帰ってこい』
亡き母の教育の賜物であった。
ある時、盛大な夜会が開かれることになった。
第二王子の婚約者がとうとう決まるらしい――そんな噂がまことしやかに囁かれていた。
(自称)婚約者候補の御令嬢達は色めきたち、関係ない家の者達はさて無難に過ごすかと計画している中。
マルス侯爵家も、無難に過ごしたい立ち位置であった。
さてドレスはどうするか、と悩んでいる時、それは突然届けられた。
王家の紋章が入った三つの箱には、青い宝石をあしらった髪留めに首飾りに指輪。
深い青い色は、誰かの瞳を彷彿とさせた。
『次の夜会にはこれを身に着けてくるように』そう書かれた手紙が添えられた贈り物は、侯爵家を大いに悩ませた。
「これは……良くないな」
「面倒な事になりましたね」
贈り物を囲んでの、家族会議。
自分の瞳の色の物を付ける――いつの発祥かは分からないが、わりと使われる手段であった。
「シリウス殿下からの贈り物、リナリアはどうしたい?」
その問いに、リナリアはうーんと天井を見上げて。
「間違えたんだと思います。他に欲しい人、いっぱいいるし」
リナリアは王子の手紙を馴染みの商会に持っていった。職人達に頼んで、印刷させる。
装飾品を分けて、印刷した手紙をそれぞれ添えて届けてもらった。
送り先は、(自称)婚約者達。
夜会当日――
「僕の大事な人を紹介する」と宣言した第二王子の元へ、髪留め、首飾り、指輪を付けた令嬢達が駆け寄り、小さな修羅場を形成した。
王子はこの騒ぎの責任を問われ、血税減額を命じられるのだった。
ある日を境に、リナリアは王宮に姿を現さなくなった。
「侯爵」
王宮内を歩くマルス侯爵に、王子が声を掛ける。
「リナリア嬢はどうしているのかな?」
「娘は領地に送りました。問題の種ですからね」
当然のように言う侯爵。その言葉に、第二王子が目を見開く。
「……どういうことだ?」
「第二王子が侯爵家の庶子にちょっかいかけているらしい――不本意ですが、そんな噂が流れましてね……第二王子と娘を婚約させたい他の家と争うのは良くない事でしょう? 領地で大人しくさせておくのが一番だと判断しました」
妃殿下は大層残念がっていましたが……と付け加えて。
「ちょっかいなんて……私は本気で」
「本気? 何が本気なのですか?」
侯爵は溜め息を吐く。
「私は陛下から打診を受けましたがね、貴方からは何も聞いていない。大事なのは、婚約せざるを得ない状況に持ち込むことではなく、誠意を尽くす事ではないかと」
「そういえば、リナリア嬢の母君は亡くなる前に『身分を隠して女に近付く男は屑だ』って言っていたらしいな……」
二人の脇を通り過ぎる文官が呟く。
彼の背をマルス侯爵が目で追う間、沈黙が流れる。
「と、とにかく」
ごまかすような咳払い。
「リナリアは、別に侯爵家に頼らなくても生きていける子なんです。自分が侯爵家の子だと名乗る気も無かったようですし」
この国なら、“賢人”というだけで生きていく手段はいくらでもある。
「彼女がうちに居るのは、私の罪悪感とか、後悔とかいろいろな問題で……」
リナリアの立場を気にかけて、『他に行くところなければ、うちに来る?』と言ってくれる者は結構いる。
リナリアと馴染みの商会を支援している伯爵とか、野鳥の会会長の辺境伯とか。
侯爵としては、リナリアが色恋に興味を持てなければ、彼らの後妻になり、趣味に勤しむ生活を送らせるのもいいかと考えている。
「侯爵家の体面とか、義務とかも考慮すべきでしょうが……私はね、娘が幸せになれる相手を探したいんです」
「お前は人様の娘さん不幸にしたくせに」
通りすがりの侍女が呟く。
その言葉を聞いて、侯爵は項垂れる。
「そうか……うん、あの、失礼する……」
空気の重さにいたたまれなくなって、第二王子は退散した。
麦の穂が金色のうねりを上げる。
収穫の時期を迎えた農村は、のどかで美しい。
空を見上げれば、北方から飛んでくる黒い影の群れ。
この時期にやって来る渡り鳥を自分の代わりに見てきてほしい――多忙な辺境伯に頼まれたリナリアは、画材片手に領地へ赴いていた。
父の言葉は唯の方便である。
水辺を望む小高い丘に腰を落ち着け、画板を構える。
水を飲む嘴の動きや、そっと翅を持ちあげる仕草――夢中になって描き写していると、横から影が差す。
「リナリア嬢」
護衛を連れた、第二王子がいた。
「……殿下?」
取りあえず立ち上がり、礼を取る。
「いや、気にしなくていい……たまたま……いや。君に会いに来たんだ」
第二王子の顔に笑みは無く、真摯に此方を見ている。
その言葉に、リナリアは首を傾げた。
「私に?」
王族が用事なんて……リナリアの心当たりは、あまりない。
「……妃殿下に何かあったのですか?」
少ない友人知人である彼女の顔を思い浮かべた。
「いや、義姉上は息災だ」
第二王子が慌てて手を振る。
「私が……君に会いたかっただけだ。君の傍にいたいんだ……駄目かな?」
リナリアは不思議に思う。
「私、絵を描いているだけですが……」
自分は絵を描く事しかできない。
一緒にいても、面白くないと思うのに……。
「君を見ている。いいかな?」
「別に、構いません」
再び画板を構えるリナリアの隣に、第二王子が腰を下ろした。
鳥の囀りや風のそよぐ音が心地良い。
王子が隣に居ても、リナリアのやる事は変わらない。
リナリアが手を止めた時、彼は口を開いた。
「リナリア嬢は、何か好きな物はあるの?」
「よく分かりません……でも、木の実のパンは好き」
侯爵家に来てすぐの時、自分が絵に没頭していたら義姉が食べさせてくれた記憶がよみがえる。
「君に花を贈りたいんだ。好きな花はある?」
「花はいらない。枯れるから」
リナリアの頭の中には、美しかった時の姿も、朽ちた時の姿も、鮮明に残っている。
花も、人も。
日が沈み始める頃、リナリアは帰り支度を始めた。
第二王子と護衛達に、領内の屋敷へと送ってもらう。
彼の顔は、何故か寂しそうに見えた。
「……じゃあ、また」
そう言うと、一行は帰路へと向かった。
屋敷に戻り、食事や湯浴みを済ませた夜――
リナリアは、今日描いた絵を並べていた。
辺境伯にどれを渡そうか、と悩みながら、今日の出来事を思い返す。
ふと、思い立って、まっさらな紙を一枚取り出した。
そこに書いたのは、第二王子の顔。
――君の傍にいたいんだ。
何故か、彼の言葉を思い出した。
絵に描かれた顔をじっと眺め……その下に、シリウス殿下と走り書き。
それを見て、満足して寝台に入った。
(また来るのかな? 今度はおもてなしの準備をした方がいいのかしら?)
誰かの事を考えながら、眠りにつく――リナリア・マルスが今まで生きてきて、初めての出来事だった。