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花菖蒲(はなしょうぶ)

 吉井は耐えてきた。一人の上司からの精神的な攻撃に耐えてきた。暴言を言われたり、価値観を強要してきたり。その他全てに根気だけで耐えてきた。


 だがある日、無理やり引っ張っていた糸が切れた。


「たくっ…そんなんだからお前の母さんどっか逃げちまうんだろうが」


  プツン…


 彼の動きが止まったた。


吉井の母親は、彼がこの会社に入社して2ヶ月後に書き置きを残して失踪した。

『もう貴方に迷惑はかけられません。ごめんなさい。貴方は自分の望む道に進んで』

家計が厳しかったためだろうか、少しでも負担を減らせるよう失踪したのだろう。


 物心ついた時から女手一つで育ててくれた。反抗期の時も真摯に接してくれた。だが、彼女は自分を責めすぎる欠点がある。金銭的に余裕がないのも、離婚したからだと自分をずっと責めていた。離婚した理由は吉井は聞かされなかったが、きっと並大抵のことでは離婚はしないだろう。


…空回りしてしまったが最後まで自分を心配してくれた母を、上司は、あいつは侮辱した…

…入社するまでずっと自分を助けてくれた母を、あいつは『自分から逃げ出した』と言った…

…自分は何もミスをしていないのにも関わらず、しかも関係ない母を侮辱した。


許せなかった。そして声が出るほど悲しかった。

吉井はすぐにトイレに行き、泣いた。あいつの前では泣かない。


 泣きながら会社を辞めることを決意した。


翌朝。時計は8時を指している。いつもなら出勤している時間帯。目覚ましをわざとセットしなかったため今頃になって起きた。一瞬焦ったが、直後に思い出して安堵した。


吉井は大家に家賃を先に払い、出かけた。自家用車を所持していたのでそれに乗った。会社には行くはずがなかった。無断欠勤の罪悪感は、小学生の時に仮病を使ったずる休みのときと同じだ。彼はコンビニに行き、その後山に向かった。山の奥、山の奥…。


1時間ほどかけて、頂上付近まで着いた。さほど高い山ではない。


彼は自然が好きだった。というより、生き急いでいる都会が嫌いだった。


吉井は車の上に仰向けに寝転がり、ずっと空を見上げていた。

  鳥…  


   飛行機… …


  鳥…  


    鳥…


昼が近くなった。日光が痛い。ようやく起き上がり、コンビニで買ったサンドイッチを食べた。

低い山だが、それなりに見晴らしは良かった。


空気が少し重くなった。


 雨。


吉井はゆっくり車に戻った。

雨はどんどん強くなる。車に刺さるように落ちる。


雨は好きだ。匂いも好きだ。でも濡れるのは少し嫌だ。


母親が入社祝いにくれた少し高めのヘッドホンを耳に当て、好きなバンドの好きなアルバムを全曲聴いた。


最後の曲が終わった。静寂。映画を一本観終えた後のような余韻。


時刻は18:00。 雨が降っていたため予想以上に暗かった。

無理に強がって夜更かしする必要はない。今は何にも縛られていない。今は。



翌朝、午前5時頃、眠りから覚める。雨の滴が草木に吸いついていた。綺麗だ。


窓を少し開けてみた。雨の匂い。好きな匂い。


不意に母と同居していた頃のアパートに行きたくなった。2年前までは一緒に暮らしていた。


道は案外覚えていた。2時間もせずに着いた。

が、既にそのアパートは取り壊されていた。たった2年でこうなるものかと、驚いた。

一部分だけ何も無い更地。なんとも言えない違和感があった。

母との一番の思い出の場所が消えた。まさにこの更地のような気持ちだ。

もう母とは一生逢えない気がした。


  「かきつばた書店」

アパートからほど近い彼が母とよく行った本屋だ。アパートから近かったので寄ってみた。

前と変わらない人が働いていた。母と同じくらいの年齢の女性だ。目があった。数秒。気まずさを紛らわすために適当に本を取ってみた。会計士に関する本だ。彼とは驚くほど縁がない。


「あの、吉井さんの息子さんですか?」

なんと話しかけてくるとは。一瞬動揺した。

「あ、はい。吉井です。」

「…話しておきたいことがあるんです。こちらにきていただけませんか?」

言われるがままついて行った。畳が懐かしい、昔ながらの休憩室だ。


「それで、話したいこととは…」

「貴方の、…お母さんのことで」

この人と母は大学の同級生で、相談し合えるような仲だったから薄々期待していたが、まさかほんとに何か知っていたとは。


「貴方のお母さん、『貴方が会社勤めになると毎日忙しいだろうし、こっちの心配もかけて、迷惑だと思う。だから、家出しようと思ってる』って言ったんです。まさかほんとに家出するなんて…」

「母は、他に何か言ってましたか?」

「福島の方に行くって、言ってた気がします。福島の何処かは教えてくれませんでしたが」


雨が降り出した。書店の中だが静かなので音でわかった。

吉井は礼を言い、なんとなく必要そうな就活の本を買うと、すぐさま自分のアパートに戻り、母の所持品の中に手がかりがあるかチェックした。


一冊のノートを見つけた。めくる。メモとして使っていたらしい。

と、そこに「福島 駅 清掃員 求人」と書かれているのを見つけた。

吉井は福島の駅を片っ端から探すくらいの覚悟はできていた。

最低限の着替えや食料を準備し、すぐさま福島に向かおうとして扉を開けた。


 そこには会社の同期がいた。


「ほ、細川!」

「お前仕事辞める気か?」

「…うん」

「辞めても生活できんのか?」

「……」


長い沈黙。先に口を開いたのは細川だった

「二週間なら待てる。俺がカバーする」

「…でも、もうあいつの横には居たくない」

外はさっきの雨が嘘かのように快晴 

「お前、あの上司のスキャンダル知ってるか?」

「あ、あいつの?」

「知らないんだな。あいつ社長の妻と浮気してるって噂で、あいつ居ない間に俺スマホ盗み見したんだよ。そしたら完全にクロ。」

「…なんで、そんなに本気なの?盗み見もするなんて」

「……。俺の父さんもここで働いてたんだ。だけどあいつのパワハラで辞めて、そのあと再就職出来なくて、10年前に死んだ。自殺だ。あいつが俺の父を殺したようなもんだ。」

「…そんなことが、」

「だからな、俺の父さんとお前の仇、一緒に取ろう」

「………。でも、今の俺はやらなきゃいけないことがあるんだ。母さんのところに。今じゃ無いと、もう逢えない気がする…」

「…わかった。ここに戻る予定は?」

「…1ヶ月後には戻るつもり。」

「じゃあ三週間以内にやってのける。あいつの写真を撮る。だから、辞めるのはまだにしてくれないか?あいつの被害者増やしたくないんだ。」

「…わかったよ。三週間じゃなくて1ヶ月は待つよ。」

「サンキュー。いい知らせの時はお前に連絡するから。せめて俺のは通知聞こえるようにしとけよ。」


細川は去って行った。その後5分ほど緊張で動けなかった。

運が良ければ、またうまく復帰できるかもしれない。

しかしその運を全て同期に賭けてるのが申し訳なかった。


細川の連絡先だけ通知音を変えた。昨日聴いていたバンドの一番好きな曲イントロ部分に設定した。



車を走らせた。



 「福島へようこそ」の看板を通り越した。



もう夜なのでとりあえず近くのビジネスホテルを予約してすぐに寝た。


 翌朝、曇り。

福島の駅を調べてみる。無人駅も含むと187箇所あるらしい。1ヶ月で探すなら少なくとも単純計算で1日7箇所探さなくてはならない。しかもその日は母が清掃員の仕事を入れてないかもしれない。それどころか清掃員かもわからない。最悪の場合福島にすらいないかもしれない。急に自信がなくなった。


 色々探し回っている最中、彼は花菖蒲が綺麗に咲いているのを見つけた。花菖蒲の紫色は好きだ。

香りは何故か懐かしい感じがした。


少しの間見つめていた。


その日は見つからなかった。まあ当たり前だが。


これを3週間続けた。まだ見つからない。あと一週間と3日。

焦った。本格的に焦り始めた。

がむしゃらに探した。探した。探した。

焦りと疲労からネガティブなことを考え始めたが、どうにか心から引き剥がした。


夜。雨で信号機や外灯の光が地面に滲んでいた。


今日最後に探す駅、新白河駅。

比較的大きい駅なので、居るかもしれない。


駅の中をくまなく探した。清掃員とは何度かすれ違ったが、母ではなかった。


時間はあっという間に過ぎた。


終電まであと5分。車はホテルに止めていた。彼は余裕を持ってホームで待っていた。


電車が来た。乗る人は彼だけのようだ。扉が開く。


乗車しようとした。その時、後方で何かを感じた。何かを察した。鳥肌が立った。

振り向く。


清掃員がいる。直感的に、なんの根拠もないが母だと思った。


「母さん!」


彼の声は震えていた。


清掃員は振り向く。


母だった。紛れもない少し前までずっと苦楽を共にした母だった。


母は驚いていた。そして、涙。

「…どうやってここまで?」


「ずっと探してた。会いたかったよ。やっと逢えた…。良かった…」


彼も泣いた。母の声を聞いて耐えられなくなった。


「さがしてくれたの…ごめんね。気持ち分かってやれなくて。自分勝手で。本当に…」

「もういいんだ。もう、いいんだよ」


抱き合った。電車はとっくに出発していた。ホームには彼等二人しかいなかった。

母の香水は花菖蒲の香りだと言うことに今気づいた。


雨が、特に梅雨が改めて好きになった。


その時、スマホから大好きな曲のイントロが流れた。

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