泣き虫な少年
真っ暗闇に一つ差し込むピンスポット。
明るい地面に誘われるように一匹の白猫がのそのそと臆することなくピンスポットに侵入する。
円形に明るい地面の上に置かれているは分厚い煤けた深緑色の本一冊。
その手前で白猫はちょこんと座る。そして手をペロペロ舐めたのちに本を開き、語り始めた。
『
死ねばいいのに。
何故か見てるだけで不快な同級生。
セクハラをしてくる胸糞悪い上司。
毎日酒とギャンブルを繰り返す夫。
それは誰もが使える魔法の言葉だ。
トッピングする憎みと妬みの量は人それぞれだが、多くの人間が一度は口や心で言ったことがあるだろう。
…………あっただろう?
死ねばいいのに。
だからと言って簡単に口にして良いものではない。
先刻申した通りこれは魔法の言葉。
容易に相手の心を傷つけることの出来る魔法の言葉なのだ。
それを理解していない人間は口にする資格すらない。
理解している人でもせめて心で留めておいて欲しい。
死ねばいいのに。
では逆に自分がこの無秩序かつ無責任な言葉を向けられたとき、あなたはどう思うか考えてみて欲しい。
じゃあ、死ぬよ。
そう思うだろうか。
折角の機会だ、一緒に考えてみよう。
自分がどうして生まれて、どうして死んでいくのかを。
どうして、あの人を────
死ねばいい、と思ってしまったのかを。
』
────ナレーションを済ませた白猫は分厚い本を器用に前足でパタッと音をたて閉じる。
そしてどこか遠くを一瞥し、奥の闇へと消えていった。
暗闇はピンスポットごとそれを飲み込んだ。
***
小さい頃。
俺は妙に賢く、重度の泣き虫だった。
それはそれは些細な事ですぐに泣くような子どもだった。
驚きや悲しみ。まるで感情を具現化したかのように溢れ出す涙。
人から強く言われるのに弱く、どうしてもこみあげてくるものを抑える術がなかった。
「おい、てめーは呼んでねえよ。泣き虫」
こぞってドッチボールをするため体育館に集まったクラスメイト。
「どうして皆と一緒にやらないのか教えて」
お前が悪いと言いたげな担任教師。
「ウチの息子がすみません。後で言い聞かせておきます」
俺に迷惑をかけるなと一言吐き捨てた父親。
唯一味方だった母が亡くなり、それから俺は独りになった。
どんな場所でもどんな場面でも一人で泣き、一人で悔やんだ。
そして目を赤くした日には、疲れて数分の内に夢の中へ堕ちていく。
何をしても自分が悪いと言われ、そんな自分が嫌いだった。
憎かった。
死にたい、と思った。
「神様がいるのならどうかお願いします。僕の寿命を必要としている人に分け与えてください」
布団の中、毎晩眠る直前にそう願っていた。
***
三月も下旬に突入し、また嫌な時期がやって来る。
四月から晴れて小学五年生になる古園春希は春休みの宿題である絵日記を書きながらに、これから過ごすことになる新クラスに頭を悩ませていた。
幼稚園からの泣き癖が身体に染み付き、それをよく思わないクラスメイトからはいつも軽蔑されてきた。泣かれるのをうざがって相手にもしてもらえなかった。
だから今までクラス替えが何度もあったにも関わらず、友達と呼べる人は誰もいない。
正確にはいたのだが、友達から同級生へとランクが下がった。
おかげで春休みだというのに遊ぶ人もおらず、絵日記は空模様の解説でぎっしり。
家にいるときは本を読んだり、勉強をしたり、家事をしたり。
楽しい、なんて感情は六年前に置いてきてしまった。突然の母の死と一緒に置いてきてしまった。
違う。
お母さんが悪い訳ではない。
あんなに優しい母親は生まれ変わっても出会えない。
母が亡くなった時からかもしれない。涙がより一層すぐ出てしまうようになったのは。
春希は慣れた手つきで絵日記を仕上げていく。
色鉛筆は擦り減って、丈が短くなってきた。
また百均で買ってこないと。
それにしても、
グー。
「お腹すいた……」
お腹をさする。
本日の空模様解説も書き終え、その小さな訴えを誰か聞いていないか周りを見渡すも、広いリビングが一望できるだけ。
春希の空腹が満たされることはなかった。
父は夜九時ごろ仕事から帰ってくる。そして父が買ってきたコンビニ弁当を二人で一緒に食す。
食べ終えると風呂へ向かい、そのまま部屋に行っていしまう。
そんな父だが、朝ご飯は仕事に行く前に作り置きしてくれる。
食事を食べさせてもらっている分、僕は父の迷惑にならないよう態度はもちろん皿洗い、掃除、洗濯、勉強は欠かさず行う。
それが僕の義務。
「あ、雨だ」
日記で雨が降りそうな雲が漂っている、と書いていたのを忘れていた。
何年も解説書を書いていると天気の移り変わりが次第に予測できるようになっていた。
というか早く洗濯物を取り込まねば。
春希は颯爽と二階への階段を駆け上がり洗濯物を室内へ移すと、今度は家中の窓を閉めまわった。
その間、雨は次第に強まり、縦殴りの豪雨と化した。
地面に打ち付ける雨の音。主役は私だと言わんばかりに強く。
お父さん、傘持ってるかな。
全作業を終え、一階の庭が見える窓から雨の様子を伺う。
「空さんも今日は泣き虫なんだね」
でも僕と違って空さんは一度も泣かない日もあるし、太陽が出れば皆を照らす。
違うんだけど、いつも独りぼっちなところは僕と一緒だから、僕は空が好き。
空が泣いている姿をぼんやり眺めていたそのとき。
ドォォォビカァァァン!!
鼓膜につんざく雷鳴が全身に響き渡り、赤色の稲妻が眼前の庭を貫いた。
その衝撃に腰が抜けしりもちをつく。
雷がすぐそこに落ちたんだ。冷や汗が止まらない。
必然、涙が頬を濡らした。
「っ、こわいいい」
春希は焦げた庭を再度視認したあと、すぐさま自室へと逃げ込みカーテンを閉めて自身のベッドへとくるまった。
何が起きたかは分かっているが、身体が理解に到達していない。
グスグスとすすり泣く。
潜る前に閉めたカーテンの奥からは未だ雷鳴が聞こえてくる。
あんな近くに落ちたことは今までない。
春雷。やっぱり春は嫌いだ。
「君はいつまで泣いているんだい?」
その声は雷鳴と同様窓の向こう側から聞こえた。渋いおじさんのような低いダンディ声にただただ恐ろしさしか感じなかった。どうか、聞き間違いでありますように。どうか……!
「古園春希くん。君に言っているんだ。聞いているのかい?」
聞き間違いじゃない!
オバケ?僕を連れて行っちゃう怖い人?
お母さん、助けて!顔をうずめる敷布団はすでに涙と鼻水でぐしょぐしょになっていた。
「あーもう埒が明かん。そのままでよく聞きなさい」
声の主は布団から一向に出てこない春希を見て諦め、ため息をついた。
「春希くん。君は泣き虫のままでいいのかい?君のお母さんはずっと泣いている君を安心して見守ってくれるかい?」
その問いは春希の涙をとめた。
心中を見られているような。初めて自分を真正面から見てくれたような。そんな気がした。
小学生の春希にはこの胸の混沌が制御できず、目をかっと開いたまま鼻で呼吸をし、固まってしまう。
「君が強くなりたいと言うのなら、力を授けてもいい。必要ないのなら────」
「いる!」
えっ……。
自分でも驚いた。
声の主が何を言っているのか頭で考えるよりも、身体が勝手に動いてしまったから。
背中からかぶっていた掛布団から飛び起き、食い気味に答えた春希はカーテン越しに声の主の姿形を拝見する。
「ね……ネコ?」
白く光る雷はそのシルエットをカーテンというスクリーンに映した。
そのシルエットは誰がどう見ても猫のものだった。
それもそうだ。
ここは二階の窓。人間が上がってこれるわけがない。
では一体だれが喋っているのか。
「ほう。欲しいか。ではこの窓を開けてくれ」
そう言われゆっくり恐る恐るカーテンを横に引き隙間から覗く。
窓の淵にちょこんと座っていたのは真っ白な猫だった。辺りを見渡してても灰色の空から雨が降るだけで人の姿は確認できない。
仕方なく窓を開けると、どうしてか全く濡れていない白猫がゆっくり部屋の中へと入ってきた。
白猫は床にペタリと座るとこう言い放った。
「やっと話せるな。春希君」
「しゃべれるの!?」
春希は白猫の下へ駆け寄ると正座してその猫をじっくり観察し始めた。
本当にこの猫が話しているのかな。
春希でも小学生並の好奇心はある。それに猫は大好きだった。
「ええい。見上げるの疲れる、離れろ」
「ねえタマ。どうやって喋ってるの?新種?」
「タマとはなんだ!我にはコバルニー・ジークという名が────」
「ねえタマ。撫でてもいい?」
「……もう何でもよい」
先程まで泣いていたのは嘘だったかのように目を輝かせながら撫でまくる少年に白猫はやれやれといったご様子だ。
よい、もう会うことはなかろう。好きなだけ撫でるが良い。
「……………」
「……………」
「ええい!撫で過ぎじゃ!」
白猫はするりと春希の手から抜けると小さい舌で体をなめ始めた。もう少しだけ、と言いたそうな顔をする少年に気を許しそうになるも堪えて本題に入る。
「いいか春希。先の件、強くなるとはいってもこれは呪いだ。最終的に待つのは不幸。それでもいいのか?」
呪い。日本では祟りとも呼ばれ、科学で証明できない何かが纏わりつくという。呪われた人間は災いや不幸が降り注ぎ、ついには死に繋がってしまうこともある。
春希でもそのくらいのことは知っている。
でも白猫が提示する呪いは春希にとってこれ以上ない『望み』そのものだった。それに今この現状以上に不幸などあるものか。
春希に断る理由はなかった。
「いい。そしたら僕は泣かなくてすむんでしょ?」
「それは君次第だ。強い人だって時々なら泣くものさ。やめるかい?」
「ううん。やる。僕、強くなりたいもん」
わかった────白猫は少年の決断を聞き入れた。
そして猫は春希に上着を脱ぐように言うと、その綺麗な毛並みで背伸びをして春希の膝上に改めて座る。 上半身裸となった春希は正座の膝上に座る猫を見下ろす。何をするのかな。
「では春希君、いや古園春希」
「はい」
「今日は確か君の十歳の誕生日だね」
「なんで知ってるの?」
今日三月二十八日は春希の誕生日だ。
「我は何でも知っている。ハッピーバースデー!二分の一成人の君にこの八年の呪いをプレゼントしよう!」
白猫は独特に誕生日を祝うと春希の心臓付近に猫パンチを叩きこんだ。桃色の柔らかい肉球が肌に押し付けられる。
ナニコレカワイイ。
「あれ?」
目の前の部屋の風景が渦巻き、ブレーカーの落ちたテレビのようにプツンと暗転した。
春希はパタリと後ろへ倒れ、そのまま意識をなくした。その目尻にはさよならを告げるように一滴の涙が潤い、頬にその軌跡を残していった。
白猫はその涙をペロリと舐めると入ってきた窓へ跳び移り、聞いていないだろうが言っておきたかった一言を口にする。
「涙は悲しいときだけじゃなく、嬉しいときも楽しいときも流れる。春希、いつか君がそんな温かい涙を流せるようになれるといいな」
白猫はそう言って窓から跳び去った。
外は光の柱が黒灰色の雲から漏れ出し、今日の空を支えていた。
……………………
「おい、起きろ。起きろ春希」
「ん……」
いつの間に寝ていたのだろうか。長い夢を見ていたような。部屋は暗く、廊下からの逆光で自分を起こす誰かの顔がよく見えない。
「珍しいな。俺が帰ってきたときお前が寝ているなんて」
「っ!」
顔が見えなくてもその声で分かる。
「す、すみません。すぐにお風呂沸かします」
「いやいい。今日は俺がやる。手を洗ってこい」
日ごろから威厳がにじみ出ている、道貌岸然たる春希の父だった。
ああ、やってしまった。
いつもは帰ってくる時間に合わせてお風呂を沸かしておくのに。迷惑をかけないことが僕の義務だというのに。
どうやら布団にくるまってそのまま寝てしまったらしい。
滑稽なことに、猫が言葉を話すなどという可笑しな夢まで見てしまった。妙に生々しかったが、あれが現実の訳がない。証拠にほら服は着ているではないか。
しかし春希は見た夢のバカバカしさと対照的に自分がしてしまった過ちに心底頭は冷えきってきた。
迷惑をかけた父への罪悪感が自責の度に山積していく。
自分の役立たずっぷりに、その瞳からは涙が────
「あれ?出てこない……」
いつものこみあげてくる感じはあったのに目からは何も出ていない。
枯渇。蒸発。消滅。
涙とは何か、も忘れたようにそれは出てこなくなった。
どうして?やった!我慢できた!
────泣き虫が嫌いだった。
────泣き虫な自分が嫌いだった。
春希は困惑があるものの一対九で嬉しさが勝っていた。
我慢したかはさておき涙が出なくなったのは春希の中で大きな成長。祝杯してもいいくらいに。
…………おっと喜ぶ前に手を洗いに行かなければ。父に怒られてしまう。
春希はタタタと階段を降りていく。足取りはとても軽い。
……………………
いつも通りの夜ご飯。レンジで温まった弁当のご飯はホクホクで、今日のおかずは豚のショウガ焼き。ショウガのきいたタレがご飯を進める。
食事中会話はほとんどしない。暗黙の了解というよりは会話の話題がないのだ。
それでも春希は一緒に食べてくれるだけでとても嬉しかった。やはり怒っているのではないかと今日は静かにビクビクしているが。
「春希」
「は、はい」
行儀よく音を立てずに食事にがっついていた春希に珍しくお声がかかる。その声音に少し驚く。
ああ、ついに怒られるのか。
「庭が焦げていたが、何か焼いていたのか」
「あ、いえ、そんなことは……。四時ごろ急に雨が降り出して、その時に雷がそこに落ちたんです」
「ああ、なるほど。そうか」
ふー。
息子の身の安全を心配してくれはしなかったが、春希には怒られなかったことへの安堵でいっぱいだった。本当に良かった。
その後は話すことなく箸で弁当をつつく音だけがリビングに響いた。
「ごちそうさん」
父親は一足早くその弁当を食べ終えて、いつも通りお風呂へ直行する。と思ったが、廊下への扉を開けてスッと止まり、春希に背を向けたままこう呟いた。
「今日、お前の誕生日だろ。ケーキ冷蔵庫に置いといたから食後に食べなさい」
父はそう言って行ってしまった。素っ気ない言動ではあったが、父が自分の誕生日を覚えていてくれたこととケーキという高価なものを食べられる吉報に心がはちきれそうだった。
今日は涙は出ないし、怒られないし、ケーキも食べられる!あの夢が本当ならば、不幸がくるなんて嘘じゃないか。良いことだらけじゃないか!
「おしっ」
感極まって春希は箸を持ったままガッツポーズをした。がすぐに行儀の悪い行動だと気づき、父が見ていなかったか廊下の方を見たが誰もいなかった。
フー。落ち着け自分。
涙が出ないのなら皆に馬鹿にされることもない。そうしたら新しい友達も出来るかもしれない。
「本当に強くなれたんだ……!」
あの夢が本当だとは思えないが、信じてもいい。とんだバースデープレゼントだ。
徐々に実感が湧いてきた、一緒に自信も湧いてきた。
涙が無いのなら────僕は変われる気がするんだ!
十歳になった今日、僕は、強くなった。
だが。呪いの正体、つまり見返りは確かにあって。
その対価の一つが涙が枯れることだということをこのときの春希は知る由もなかった。
────そして春は7回巡る。
お読みいただきありがとうございました。
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