紅の挽歌(2024年編集)
~ 一月六日、警視庁捜査一課 ~
長期休暇を終えた佐久間は、休暇中の事件が気にかかり、二時間早く出勤した。事の全容を把握すると、早々に、新体制を組んでいく。
(殺人事件は無かったが、窃盗、強姦、放火はあったな。知能犯関係は、捜査二課に回すとして、急務なのは、杉並区の強盗事件、目黒区の連続強姦事件か。…日下の成長には、目を見張るものがある。そろそろ、独り立ちを促すか。山さんと話して、シフト変更してみよう。……ん?)
色々な事を思慮しながら、ふと、入口を見ると、山川が、気まずそうにしている。
佐久間の性格は、十分に理解しているつもりだ。休暇明けは、普段よりも、早く出勤し、捜査状況の確認から行うはずだ。そんな佐久間より、先に出勤しようと、一時間前に家を出た。心機一転、とはいかず、やる気を削がれた感を否めないが、気取られても、立つ瀬が無い。山川は、あくまでも自然体で、挨拶する事にした。
「警部、明けましておめでとうござます。本年も、よろしくお願いいたします。…それにしても、お早いですな?」
「明けましておめでとう。山さんも、休めて良かったね。満喫したかい?」
「それはもう!寝台列車に乗って、北海道に行ってきました。これ、お土産です」
(白い恋人、氷下魚の干物、松尾ジンギスカンか)
「この銘柄という事は、函館から札幌ルートだね。カシオペアなら、上野から乗れるし、快適だっただろうね」
山川とは、何度も、長距離を旅したので、土産にも詳しくなった。
「ええ、それはもう。今回は、根室まで、行きたかったんですが、旅券が取れませんでした。でも、恵庭市のビール園に行ったり、満喫しましたよ」
嬉しそうに話す、山川を見るのも、久しぶりだ。
「鉄道愛好家だからね、山さんは。また、一緒に行きたいな」
「こんなに休んだのは、数える程しかありません。それも、警部と、時期まで一緒とは、もう無いかもしれませんね」
「ああ、お陰で、平和惚けしそうだったがね」
「プルルルルルル」
談笑する中、外線が入り、山川が、受話器を取った。
「はい、捜査一課。…はい、もうおりますよ。少々、お待ちください」
山川が、電話を回した。
「警部、新年早々、お仕事です。大有出版の柴田です」
(珍しいな、始業前だというのに)
「明けましておめでとうございます、本年も、よろしくお願いします。どうされました?携帯でも、良かったのに」
普段とは違い、受話器の向こうは、空気が重い。
「ご無沙汰しています、佐久間警部。年始挨拶に伺わず、電話で失礼を。今年も、よろしくお願いします。……実は、折り入って、お耳に入れたい事が」
(良い話ではないな)
「…何か、お困り事でも?」
山川も、聞き耳を立てている。
「いえ、困るというか、放置すると、少々、厄介な事になりそうで。…社内では、ちょっと」
(益々、良い話ではないな)
佐久間は、さりげなく、腕時計に目をやった。
「では、巡回がてら、お伺いしましょう。会社近くの喫茶店は、如何ですか?十三時前には、行けると思います。…ええ、ではまた」
電話を切るや否や、案の定、山川が食いついてくる。
「警部、何か、事件ですか?」
「事件では無さそうだが、『放置すると、厄介な事になりそうだ』と、言っていた。ちょうど、今日は、管内を巡回する予定だったから、途中で、立ち寄るよ」
「ご一緒しましょうか?」
「……いや、大丈夫。山さんは、年末から年始に掛けて、事件が埋もれてなかったか、確認作業を頼むよ。少数で作業をしていたからね。所轄警察署の報告など、見落としがあるかもしれない。特に、杉並区の強盗事件、目黒区の連続強姦事件を頼むよ」
「了解しました。情報収集しておきます」
~ 東京都中央区、喫茶店 ~
都営線を乗り継ぎ、大有出版近くの、喫茶店に到着した。年始の空気が消え、通常営業している。
(働く戦士に、休息は無し…か。柴田は……?)
コートを脱いでいる柴田智大と、目が合った。最奥の席を、確保したようだ。
「お待たせしました、柴田さん」
握手を済ませると、二人は腰掛けた。
「お呼び立てして、申し訳ありませんでした。コーヒーで、良いですか?」
「ええ、ホットでお願いします」
(出版社ではなく、この場所を選んだ。相当、同僚には、聞かれたくない内容なのだろう。…九条大河の関係か?)
二人は、コーヒーが来るまで、談笑をして時間を潰した。互いに、コーヒーを一口飲むと、柴田が、話を切り出す。
「……では、そろそろ」
「ええ、用件を伺いましょう」
柴田は、周囲を確認してから、静かに話し始める。
(相当、警戒しているな)
「…実は、二年前、ご存知の通り、九条大河の遺作、『紅の挽歌』は、事件性ゆえに、お蔵入りしました」
「九条大河にとっても、私にとっても、大事な作品です」
柴田は、僅かに、眉根を寄せる。
「どうも、大有出版の誰かが、『データを流出させた』可能性があるんです」
(………?)
「……どういう事ですか?」
「本来なら、お蔵入りした作品は、地下室の一角に、厳重に保管されますが、たまたま私が、『紅の挽歌』を取り出した時に、細工しておいた、封が切れていて、頁にも、折り目がついていました」
「誰かが、盗み見た。…という訳ですか?一体、何の為に?」
(………)
柴田は、コーヒーのお代わりを注文すると、首を横に振った。
「正直、分かりません。あの作品は、最期のミステリーだけあって、事件性が強いので、真澄も、『廃棄した方が、良いかも知れない』と、常々、言っていました」
「現統括編集長の立場として、どう思うのですか?」
「……あの作品は、最後まで、本当に色々ありましたので、捨てるには、忍びない。正に、九条大河の生命が宿った、最高傑作です。今、この瞬間にでも、世に放てば、間違いなく、世の中から賞賛を得るでしょう。それこそ、日本だけでなく、世界中からも。…だから、未だに、処分出来ないんです」
(………)
佐久間は、左手で、顎先を撫でるように触った。
「しかし、また犯罪に繋がる危険性もある。そうではありませんか?」
「……はい、その通りです」
店員が、二杯目のコーヒーを運んできた。柴田は、猫背になった姿勢を正し、平静を装う。
「お代わり、お持ちしました」
「頂きましょうか」
(………)
コーヒーを飲む柴田の表情が、冴えない。佐久間は、核心に触れる事にした。
「まだ、何か隠していますね。川上真澄に、何か危害でも及びましたか?」
(------!)
柴田は、思わず、コーヒーを詰まらせた。
(当たりか)
「……はい。…最近、真澄の素行調査が、ありました。ブログも荒らされていて、サイト自体を、休止しています」
「素行調査?あったという事は、心当たりが、あるのですね?」
「大有出版の裏手で、たまたま、不審者と鉢合わせ、問い詰めたら、個人探偵でした。依頼主は吐きませんでしたが、『川上真澄は、九条大河ではないか?』という疑惑から、調査していたと白状しました。まあ、裁判に出た者であれば、知りうる情報なんですがね」
「そうですか。それで、どうしました?捜査一課には、その様な情報は、入っていませんが」
「出版社自体、よく探偵を雇って、取材対象者を追っています。だから、いくら、真澄だからといって、特別な扱いはしません。あっさり、解放しましたよ。調べていただけで、実害は出ていませんからね」
(………)
二年前、九条大河は、妹の伊藤翔子が、肺がんにより死去した時に、一卵性双生児を利用して、九条大河が死んだと、世間に公表した。裁判の事を知らない、読者の大半は、この説を信じ、『九条大河は、既に、この世に存在しない』と解釈している。だが今になり、それを疑う者が現れた、という訳だ。
事件後の裁判でも、この部分は、公表されなかった。社会性を尊重し、犯罪に結び付かない点でもある為、誰もが、言及を避けたのである。
「被害届が出ない以上、警視庁としても、まだ動けません。ただ、ブログについては、威力業務妨害に抵触しそうだ。捜査二課に、サイバー捜査を依頼出来ますが、被害届けを出されますか?」
「……いえ、もう少し、様子見させてください。私が気にしているのは、あの作品で、真澄が、佐久間警部に挑戦したように、模倣犯が出る事を恐れています。それで、早めに情報提供しようと、考えました」
(模倣犯か……あり得るな)
「ありがとうございます。私なら、大丈夫ですよ。話は逸れますが、初対面の時、柴田さんは、自信に満ちあふれ、目も、ギラギラしていました。仕事に賭ける情熱は本物で、感心しました。立場が変わって、守る姿勢も、分かりますが、どうか、あの気持ちを、忘れないでください」
柴田は、照れ笑いしながら、謙遜した。
「とんでもございません。佐久間警部を知ってから、器が違う事を、思い知らされました。天狗の鼻が折れたというか、お恥ずかしい限りです。僕はあれで、少しだけ、謙虚になろうと、自覚しました。どうか、初対面の会話は、忘れてください」
互いに、顔を見合わせ、笑った。
「では、何かありましたら、警視庁捜査一課からも、ご連絡します。情報ありがとうございました。真澄さんと翔子ちゃんに、よろしく伝えてください。また、遊びに行くと」
「はい、ぜひ。真澄も喜びますよ。お待ちしています」
柴田は、胸のつかえが取れ、少しだけ元気を取り戻したようだ。何度も頭を下げ、帰社していく。
(………)
佐久間は、去りゆく背中を見つめながら、新たな事件が、近づいていると、予感した。
~ 二十一時、都内 佐久間の自宅 ~
「おかえりなさい。久しぶりの出勤、お疲れさまでした」
「うん、ただいま」
「あら、浮かない顔して。もう、事件?」
「いや、まだ事件には、なっていないよ。お腹空いたな、着替えてくるよ」
(まだか。いずれ、事件になるのね)
千春は、普段通りに、食事することにした。昔から、捜査状況には触れず、たわいのない会話で、気分転換させるのだ。
佐久間も、そんな千春の気遣いを理解し、甘える事にしている。しかし、今夜は、ほんの少しだけ、今日の出来事を、千春に話す事にした。千春は、聞き役に回った。
「今日、柴田くんに会ったよ」
「まあ、柴田さんに。珍しいわね、元気にしてた?」
「うん。二年前に解決したはずの事件が、全く別次元のところで、煙が出そうなんだ。柴田くんは、それを心配して、早めに情報をくれたのだよ」
(………)
「それって、あの作品の事…よね?」
「…ああ、『紅の挽歌』さ」
「あらまあ。……あなたは、あの作品と、余程、縁があるのでしょうね」
「本当だね。流石は、稀代の名作だよ。いっその事、所有したいくらいだ」
「あなたは、どう思うの?さっき、まだって言ったわね?事件に発展するって、考えているの?」
「柴田は、探偵が、『川上真澄が、九条大河ではないか』と素行調査していると、言っていた。この事から、九条大河の素性が、明るみになりかけている。それと、川上真澄のサイトが、妨害工作を受けていて、休止しているらしい。九条大河の、『紅の挽歌』は、お蔵入り作品だ。それを読みたいと思う者、あの事件を知って、警視庁捜査一課に、挑戦してやろうなんて、不届きな輩が出ても、おかしくない。そうならない様に、祈るよ」
「…著名人だから、ある程度は、仕方の無い事だとは思うけれど、『嵐の前の静けさ』とは、よく言ったものね。…誰が、この言葉を考えたのかしら?しっくりくるわ」
千春は、夫に降りかかるであろう災いに、溜息をついた。
「本当だ。世の中は、上手くいかないよう出来ている」
「そうなったら、戦うだけだわ。身体だけは気をつけて、しっかり臨んで」
「…ありがとう。また苦労を掛ける」
今年も、過酷な一年になるだろう。
千春は、佐久間の無事を祈るしかない。




