誤算と汚点(2024年編集)
~ 長野県、グランドホテル上高地 安曇野312号室 ~
「しっかりしろ、逝くんじゃない」
救急医師は、懸命に処置を開始した。
安曇野警察署から、連絡を受けた救急隊は、服毒だと聞いて、搬送先の救急医師を同乗させる為に、五分間、時間をロスしてでも、寄り道を選択した。現着しても、救急隊員は、医師ではないので、医療行為が出来ない。治療行為をせず、搬送するよりも、その場で、治療をしながら搬送した方が、延命出来る確率が上がるからである。
~ 五分前 ~
救急隊とほぼ同時に、現着した名取は、ロビーで待機している、従業員に場所を聞いた。
「通報があったのは、何号室ですか?」
「312号室です、案内します」
「自分は、キタハラと言う者の方に回る。他の者は、もう一人の方へ向かえ。もう一人の者は、何号室ですか?」
「215号室です、鍵はこれです」
二手に分かれ、階段を駆け上がる。
救急医師は、北原の症状を見るや、持参した解毒薬を投与する。
「どうですか?」
「何の毒か分からないから、効くかも分からん。だが、これで、病院までは、多分大丈夫だ。このまま、胃を洗浄しながら、搬送するぞ。絶対に、死なせるな!」
(………)
救急車は、パトカーに守られながら、闇夜へ消えていく。
通信司令室オペレーターの対応早さ、安曇野警察署が、現着するまでに取った行動が、紙一重で、北原の命を繋ぎ止めた。救う側の機転と、北原自体の用心深さが、功を奏した。
北原は、普段から、パチンコ・競馬・競艇などの、様々な賭博場に出入りしており、場の空気を読む力を培っていたことが幸いし、即座に、己の危険を察すると、芝山の罠を回避出来た。一方、佐野は、苦労人であったが、人が良すぎる事が災いし、生命を落とした。
(何とか、一名確保出来た。…面子は守れたぞ)
ホテル関係者から、事情を聞いている名取の元に、別室を捜索していた、捜査官が戻ってくる。
「名取巡査部長、もう一人の方は、手遅れでした。通報者の様に、直ぐに、毒を吐かなかったのでしょう」
(無理もあるまい)
「争った素振りは、無かったか?打撲痕とか、何でも良い」
「毒を吐き出そうと、両手で首を押さえる、チョークサインはありましたが、それ以外は特に」
「そうか、どこで死んでいた?」
「洗面所とバスルームの間です」
「分かった、よく検証してみよう。案内してくれ。他の者は、この部屋を捜索、物的証拠を探すんだ」
(即効性の毒なら、まず助からん。疑い深い者が、生き残る…か)
~ グランドホテル上高地 安曇野215号室 ~
(…まだ若そうなのに。サノって、言ったか)
余程、苦しかったのだろう。
どす黒く、変色した表情が、苦悶の度合いを表している。首を両手で押さえながら、身体は、くの字で横たわっており、左側頭部に、内出血の痕があるが、転倒の際、浴槽にぶつけたのだろう。
(カーテンレールが壊れてるな。倒れる前に、カーテンを掴んだに違いない)
名取は、泡だった口元の臭いを嗅ぐと、周囲を物色する。報告の通り、荒らされた形跡も、変わった様子もない。就寝する前に、何をしたのかは不明だが、ベッドの掛け布団が、床に落ちそうになっている。
(…貴重品は、どこだ?…ん、これは金か。…二百万円。何で、こんな大金を持っているんだ?)
名取は、札束を手に取り、首を傾げる。
「名取さん。被害者は、寝る時に、何かを飲んだ。もしくは、飲まされた。それが、原因でしょうか?」
「うーん、飲んだのなら、物的証拠があるはずなんだが。まあ、鑑識班が特定するさ。鑑識班は、あと、どれ位掛かる?」
「そろそろ、現着するかと」
「そうか。なら、現着までに、やれる事をやろう。コップは見つかったか?」
「…それが、何も無いんです。どうやって、何を飲んだんでしょうかね?」
(………)
「通報では、『毒を盛られた』と言っていたな。…となると、この被害者も、同じ毒を盛られたはずだ。一体、何の毒を、どうやって盛られたのか」
(アーモンド臭かった。…青酸カリ?…青酸カリなら、即効性がある。状況から察するに、盛られた時間帯は同じ。死んだのは、吐くか吐かないかの違いだけ。…どこで、飲んだ?…部屋には、何も無い。となると、レストランか?…誰と飲んだ?…聞き込みを、広げるか)
名取が、聞き込む箇所を思案していると、別の捜査官が、声を上げた。
「名取巡査部長、ベッドの下から、財布と免許証が」
(ベッドの下?と言うことは、犯人が殺した後、証拠隠滅しようと、隠した?いや、違う。証拠隠滅が目的なら、持ち去るはずだ。…どう言う事だ?被害者が、自ら隠したのか?二百万円は、隠さずに?事情が、全く分からんな)
名取は、とりあえず、免許証を確認する。
「名前は…佐野徳行。…生まれは、四十一歳か。住所は、東京都…江戸川区。…吉田。すぐに、フロントで、照会をしてくれ。免許証の住所で、泊まっているかを確認するんだ。裏取りが済んだら、安曇野警察署から、警視庁捜査一課に捜査を引き継ぐぞ。それと、レポート紙を所持しているかも調べろ。初動捜査で、やれる事だけ行うんだ」
「了解です」
名取が、細かく指示を出す中、長野県警察本部捜査一課から、服部警部が現着した。名取りは、これまで分かった事実を、簡潔に報告する。
(ふんふん、被害者は二名で、一名死亡、一名治療中。二人とも、同じ毒物を摂取。貴重品は、残っていて、テーブルに二百万円。ベッド下に財布関係か。金よりも、免許証を誰かに、見られるのを、嫌った?まあ、それは、追々分かるだろう)
「名取巡査部長。いつも、的確な指示をしてくれて、助かるよ。あとは、捜査一課で引き受けよう。君はもう少し、この場で、長野県警察本部と、行動を共にしてくれ。警視庁捜査一課の佐久間警部にも、君から連絡してくれた方が、スムーズだ。よろしく頼む」
「はっ、分かりました」
「それにしても、被害者は、まんまと、毒を盛られたみたいだね」
「ええ、口元から、アーモンド臭がしました。断定は出来ませんが、青酸カリかと」
(……ふむ)
「では、この殺人事件は、警視庁が追っている事件かね?」
「ほぼ、間違いないでしょう。幸い、事件関係者一名が、命を取り留めたので、事件内容が、少しずつ見えてくるかと。個人的な推察で申し訳ありませんが、被害者二名は、同じタイミングで毒を盛られたと思われるので、レストラン、廊下、外階段、どこで飲まされたのかは、分かりませんが、即効性の毒物なら、そんなに離れていない場所だと、判断出来ます。その点は、鑑識結果が出れば、時間的に逆算して、場所が特定出来るかと」
「毒物が入っていた容器は、見つかったかね?」
「いえ、毒物に関する、物的証拠はまだ見つかりません」
「…なら、早いとこ、警視庁にバトンタッチすれば良い。単独なら、長野県警察本部が出張るのに、残念だよ」
(…今は、主導権争いしている場合では、なかろうに)
吉田捜査官が、戻ってきた。
「免許証の住所で、宿泊していました。同日の同時刻、215号室の佐野徳行と、312号室の北原朋和が、一緒にチェックインしていました」
「北原朋和は、本名か?」
「ええ、さっき、312号室の捜査官から、免許証情報を聞きましたので、合っています。所持品として、財布、免許証が見つかりました」
「他には?」
「佐野と同じ様に、二百万円の札束と、瓶が見つかりました。瓶は怪しいので、鑑識に回します」
(決まりだな)
「服部警部。私は、安曇野警察署に戻り、警視庁捜査一課に連絡を入れます。この事件は、安曇野警察署としても、警視庁捜査一課から、正式に捜査協力を依頼されていますから、所轄署主導で絡んでも、宜しいでしょうか?」
「勿論だとも。長野県警察本部も、他の捜査で、人手不足でね。件数が減ると、助かるよ」
「ありがとうございます。では、中間報告を、適宜入れます。…では、失礼します。吉田は、自分と一緒に戻ってくれ」
「了解です」
「ああ、宜しく頼む」
名取は、佐久間に連絡を入れる為、現場を後にした。
(…出来る男だ。安曇野警察署では、その能力を発揮出来まい。長野県警察本部に引き上げるか、考えても良いだろう)
~ グランドホテル上高地 安曇野ホテル 二階の一室 ~
(何で、こんなに早く、足がつく?何で、警察が、捜査をしている?)
機動捜査隊が、目の前で、ウロウロしている。フロア最奥の自販機で、他人の振りをして、様子を窺う芝山は、想定外の進展に、目を疑った。これだけ早く、機動捜査隊が捜査するという事は、佐久間の指示に違いない。心底、佐久間の推理力、そして、警視庁の連携対応力、強いては、警察全体の組織力に対して、脅威を感じ、捜査が足元まで迫っていると、痛感していた。
(やはり、佐久間警部は、侮れない。…上高地なんて、普通の発想じゃ、絶対に辿りつけないはずなんだ。でも、実際はどうだ?目の前まで、捜査の手が届いているじゃないか。広告看板といい、私の行動心理を、細かく分析している。…ヤバかった。あの部屋で、金を回収していたら、警察と鉢合わせして、完全に終わっていたし、一分違いで、運命に救われた。…四百万円は、痛い出費だが、北原の部屋から、瓶が回収される以上、もう、形振り構っていられない。生き証人の北原だけは、絶対に殺す。あいつが、俺たちの事を話した時点で、詰んでしまうからな。佐久間が、この場にいるなら、手遅れかもしれないが、長野県警察本部だけなら、まだ警護も甘いはず)
(………)
(………)
(………良し)
芝山は、自販機でジュースを買うと、機動捜査隊がいる、反対の階段を下りながら、電話を掛ける。
「…私だ。今から、言う通り動いてくれ。……ああ、そうだ。…私か?それは、大丈夫。チェックインは、偽名だし、足はつかない。ただ、レストランで接触しているからな。このホテルの監視カメラは、全ての記録を、回収する必要がある。警察に見られたら、厄介だからな。こっちの処理は、私の方で行うから、そっちの処理は、任せるぞ。ああ、それから、そっちで名前を出す時は、安曇野警察署の名取を、名乗るんだ。それで、上手く行く。さっき、廊下の前で、陣頭指揮を執っている奴を、見つけた」
「……了解」
~ 三十分後、安曇野警察署 ~
(……どうするか。あの時と、一緒だな)
名取は、内線を入れるにあたり、少しだけ躊躇った。
時計の針は、二十三時を回っている。
佐久間警部は、帰宅しているか、当直なのかは分からない。明朝でも良いと思うのだが、進展次第、連絡を入れると約束した以上、仁義は切っておく必要がある。例え、佐久間警部が不在であっても、当直者に、用件を伝えれば、後は、警視庁捜査一課の問題で、自分に非は及ばない。
かつて、相手の就寝を気遣い、明朝報告した事がきっかけで、犯人に逃げられた事があった。もしも、あの時、報告を入れていたら、間違いなく検挙出来ただろう。しかもその犯人は、今も逃亡を続け、事件が続いている。被害者家族からは、罵倒され、上層部からも、叱責された。その苦汁を舐めてから、報告義務は、誰よりも、厳格に行う様になった。
(もう、あの時の自分ではない)
「はい、捜査一課」
「夜分遅く、申し訳ありません。佐久間警部は、ご帰宅と思われますが、至急の業務連絡です」
「その声は、名取巡査部長さんじゃ?佐久間ですよ」
(------!)
(これだけで、分かるのか?)
「…流石ですね。佐久間警部も、当直なんですか?」
「いえ、性分でね。大体いつも、0時頃までは働きます。…部下は、早めに帰しています、本当だよ」
(プッ)
受話器越しに、佐久間の笑みが、目に浮かび、少しだけ緊張がほぐれる。同時に、この警部には、敵わないと感じる。
「すみません、脱線しましたね。この時間に、内線が掛かってくるという事は、動きがあったのですね?」
「ええ、つい先程。事件関係者、二名のうち、一名は死亡、一名治療中です」
(………)
「上高地の奥地ですか?」
「いえ、上高地近くのホテルです。今回は、秘境地でも屋外でなく、屋内でした」
(…秘境とはいえ、屋内か。…広告看板が功を奏して、屋内に変更したか?とりあえず、『模倣犯には、打撃を与えた』と、仮定しよう)
「迅速な対応、ありがとうございます。明日、朝一の便で、安曇野警察署に伺います。一命を取り留めた、事件関係者には、何名、護衛を付けていますか?五名程度ですか?」
(………?)
「いえ、護衛の方は、長野県警察本部の捜査一課が、病院に任せているかと。安曇野警察署では、何の手配もしていませんが?」
(………)
ほんの数秒だが、受話器越しに、佐久間の焦りが伝わってくる。
「それは、絶対にダメです。…私が模倣犯なら、危険を承知で、仕留めます。生き証人は、必ずと言って良い程、憂いとなるからです。今すぐ、護衛を付けてください。私が現着するまで、何としても、死守してください。良いですか、模倣犯は、あの手この手で、病院内に侵入してきます。医師に化けるかもしれない。そう思って、病院の出入り口、病室のドア前、事件関係者の側、可能な限り、配置です」
(------!)
電話を切った名取は、直ぐに、長野県警察本部に確認するが、服部は直帰しており、当直の課員は、誰も内容を引き継いでいない。このままでは、事実確認が取れない。
(まずい!捜査一課には、安曇野警察署が主体的に関わると、言ったばかりだ。何かあれば、安曇野警察署が、全責任を負いかねない)
名取は、身内の捜査官に連絡を入れつつ、吉田と共に、搬送先の病院へ急いだ。
(間に合ってくれ!)
疾走する事、二十分。
(ホテルから、安曇野警察署に戻ったのが、三十分前。今の移動で、二十分。かれこれ、一時間近く、ロスしてしまった。頼むから、無事でいてくれ)
緊急受付で、自分の名前を告げ、病室を聞くと、受付の係員が、不審がる。
「あなたも、名取さん?」
「どういう意味ですか?」
「つい、二十分程前にも、安曇野警察署の刑事さんが、お見えになりましたよ。名取刑事だと、名乗られましたが、連絡いってませんか?『患者さんは、一命を取り留めて、もう心配ないです』と言ったんですが、患者さんに、どうしても、言質を取りたい事があると言って、半ば強引に、病室に向かいましたよ」
(------!)
(------!)
「病室は、どこですか!」
「突き当たりの、102号室です。ナースステーションの裏側です。死角になっている位置なので、迷ったら、ナースに声を掛けてください」
(------!)
(ヤバい!)
「そいつは、偽物だ!」
二人は急いで、102号室に駆け込む。看護師たちも、様子見に集まってきた。
その時である。
窓ガラスの割れる音と共に、『大きな影』が、カーテン越しに、外へ消えていく。
(------!)
(------!)
「誰だ、待てっ!」
名取は、直ぐさま、後を追った。だが、その影は、完全に、その場から消えている。
(逃がしたか)
「きゃああああ」
「名取さん!!」
(------!)
振り返ると、北原が、首を折られ、絶命している。
(………)
(………)
名取は、その場に、力無く座り込んだ。
(……佐久間警部の、言った通りになってしまった。……信頼してくれた署長や、長野県警察本部に、何と申し開きすれば良い。折角、助かった命を、自分のせいで、無慈悲に奪われた。……もう、終わりだ)
『長野県警察本部に、佐久間がいれば』と、後悔の念が尽きない。
どのくらい、時間が経ったのだろう?
十分?それとも、一時間?
何も考えられない。真っ暗な視界が、少しずつ、白んでくる。
数時間後には、佐久間警部が、安曇野警察署にやって来る。
自分の不始末を、全捜査関係者へ説明しなければならない。全ての者から、非難される事は、もう分かりきっているが、自分のせいで、安曇野警察署も、長野県警察本部に叱責され、肩身が狭い。
「……悪い。応援部隊が現着するまで、現場保全に努めてくれ」
「了解です。名取さんは?」
「……隠していても、仕方が無い。ありのまま、長野県警察本部に報告し、指示を仰ぐ」
(………)
「名取さんだけが、責任を負う事はないですよ」
(…負うんだよ。主導権は安曇野警察署って、言っちまったからな)
名取は、肩を落とし、駐車場に向かっていく。
北原朋和は、場所は違えど、模倣犯の手によって、絶命した。だが、北原の取った行動が、後々の事件解決に、深く関わる事になるとは、この時の名取では、知る由もない。




