東尋坊(2024年編集)
~ 福井県、東尋坊 ~
神田裕之が、吹割の滝で、感銘を受けている頃、福井県坂井市三国町では、船平貴明が、この地を訪れている。
(………)
(……遠かった。まあ、どうでも良いけどね)
船平は、えちぜん鉄道三国芦原線の、三国港駅で下車すると、まずは、案内掲示板で、現在地と地図を見比べ、ルートを確認した。そして、迷う事なく、通称、『かもめ通り』と呼ばれる、県道7号線を歩き出す。
(この距離なら、歩いて行ける。交通費は貰っているが、先は長いんだ。節約しないとな)
船平は、黙々と、北へ、歩き続ける。三国サンセットビーチ越しに、雄大な日本海が、潮風に乗って、視界に飛び込んでくる。本来なら、その雄大さに感動し、立ち止まるところだが、素直に喜べない。
(本当なら、この景色も楽しめたのに。あーあ、何で、こうなっちゃたんだろう)
原因は、一昨日の夜に受けた、一本の電話である。このせいで、人生の歯車がおかしくなった。
「もしもし、船平ですが」
「どうも、船平さん。夜分遅くに、申し訳ありません。あすなろ物産の、芝山でございます。お変わりありませんか?」
「ええ、お待ちしていましたよ。連絡が来たという事は、いよいよですね。来月のいつからですか?」
「いいえ、来月ではございません。明後日から、お願いいたします」
(------!)
船平は、耳を疑った。
「え?冗談ですよね?来月ならまだしも、いきなり、明後日って。こっちは、サラリーマンで、営業やってるんですよ。大事な商談だって控えているし、来月の一日からに、なりませんか?…あすなろ物産だって、一日付けの方が、日数のカウントが、容易いと思いますけど?」
芝山の答えは、『否』である。
「…船平さん、事情は察しますが、予め、申し上げたはずです。これは、あすなろ物産が決めた、規定なんです。誰も、『月初めから、お願いする』とは、一言も、言っておりません。それに、いつ行われるか、分からない中でこそ、事前の情報収集や、会社での立ち振る舞いなど、企画の可否が、評価点に繋がっていくんです。ご納得頂けないのであれば、あすなろ物産としては、残念ですが、棄権と判断し、ここで終了となります。よく考えて、回答ください」
(………)
(全ては、こいつらの、掌という事か)
参加すると決めた以上、我慢するしかない。
「…分かりました、何とかしてみます。…それで、いつ、どこに向かえば?」
「明後日の六時、東京駅、丸の内側の開札前で、お待ちしております。支度金と片道分のチケットは、その時にお渡しいたします。…あっ、もしかすると、別の者が伺うかもしれませんが、その時は、ご容赦ください。では、遅れずにお願いいたします」
(------!)
「ちっ、ちょっと、そんな一方的に。えっと、丸の内、それって…。あっ、もしもし?もしもし!」
質問する間もなく、電話は切れた。折り返しても、繋がらない。
(何だか、説明会の時と、態度が真逆で、きな臭いな。…あーあ、いきなり、これじゃあ、明日、何て言おう。絶対、解雇されるじゃん。自分が上司なら、ぶち切れ案件だよ)
翌日、徹夜で考えた言い訳をしたが、予想通りの結果に終わった。覚悟はしていたが、大事な商談が控えている半人前が、身勝手な長期休暇を、申し出た時点で、解雇されたのである。しかも、『商談が纏まらない場合、その損失を、請求するから、覚悟しておけ』と、おまけまで付いたのだ。
(…当然、そうなるよな。この大事な時期に、主担当で、信頼していた社員が、突然仕事を放棄するなんて、どこの世界だって、許される事ではない。社会人として、一番、やってはいけない事だ。自分だって、そう思うし、誰が考えたって、そうなるよな)
「責任は、取って貰いますよ、あすなろ物産さん。説明会で言っていた、『事前の根回し』は、全く機能していなかった。社の反応は、最悪だったし、どうなっているんです?話が違うんですけど?」
解雇されたその足で、あすなろ物産に、電話で文句を言った。だが、電話を受けた社員は、「文句なら、芝山に、直接お話ください。企画の件は、総務課では受けかねます」と、門前払いされ、怒りの矛先を、芝山に、ぶつけようとするが、昨夜の電話以降、一向に繋がらず、ストレスが溜まる。
(何なんだ、今の態度?芝山、繋がらないから、電話したんだけど?)
怒るのも、無理はない。船平貴明は、苦労人だった。話は、過去に遡る。
ある朝、船平が、いつもの様に、出社したら会社が無かった。閉ざされたシャッターの前で、債権者が群がり、怒号が飛び交う。どの社員も、狐につままれた面持ちで、ただ呆然と、立ち尽くしていた。骨を埋める覚悟で、精力的に、会社に貢献してきただけに、将来の展望も、未来も、一瞬で崩れ去った。
不運の失職をした船平は、不況が禍し、中々、採用が決まらなかったが、八社目で、やっと、今の会社に拾われた。契約社員からスタートし、五年の時を経て、営業部に異動。書庫整理や汚れ役では、当然の如く、陽の目が当たらず、『生涯、契約社員だろうか』と諦めていたが、配属後、抜群の営業センスを発揮し、正社員になると、頭角を現していった。
元々、営業職が好きだった船平は、魚が水を得た様に、成長が著しく、期待のホープとまで言われ、本人としても、やる気に溢れていた。会社の社運を賭けた、大口の取り引きで、社長自らの指名という事もあり、白羽の矢が立った船平は、獅子奮迅の働きをして見せた。だが、正に、『見積り提示をして、商談が成立する』という節目での、暇乞いであった為、社長の怒りを買ったのは、言うまでもない。
(………)
船平は、これまでの半生を振り返り、正直、企画の事など、どうでも良くなっていた。目的地に向かいながら、自分を拾ってくれた社長が、鬼の形相で、『裏切り者』と、罵倒する記憶が、否応なしに蘇る。
(…自分は、本当に馬鹿だ。解雇されて、分かった。あの会社は、自分にとって、全てだった。それを、目先の欲に負けて、自分の手で離してしまった。……企画を辞めて、会社に戻るか?……いや、もう遅い。どんなに頭を下げても、許して貰えないだろう)
三国サンセットビーチの駐車場には、多くの若者が集い、対面の土産屋は、観光客で賑わっている。まるで、かき入れ時の湘南のようだ。自分だけが、この空気に馴染んでいない。気づけば、溜息が漏れる。
(……本当に、何をやってるんだろう)
苦労して、やっと掴んだ、居場所を棒に振り、億万長者になったとしても、一生遊んで、暮らせる訳ではない。冷静になればなる程、自己嫌悪に陥ってしまう。
(今更だが、何で、こんな企画話に乗ったんだろう。あすなろ物産のせいで、この企画が終わったら、また無職だ。…何だか、心が空っぽだ。いっその事、死んだ方が、ましかもな)
そんな事を考えながら、歩き続けるが、目的地の東尋坊が見えてこない。
(あれ?今どこだ?一本道だから、迷うはずはないんだが?)
中央通りを歩いているが、三国東尋坊芦原線に一向に入らない。小休憩がてら、堤防の天端に腰掛け、地図を広げると、距離計算を誤ったようで、徒歩では遠すぎる。
(やってしまった、メートルとキロメートルを間違えた。着かないはずだ。日が暮れるぞ)
船平は、慌ててタクシーを探す。幸い、回送のタクシーに出会し、乗り込めた。
「お客さん、どちらまで?」
「とりあえず、東尋坊に行こうと思ってるんですが?」
「ああ、観光ですか。……なら、東尋坊より先に、展望台に行ったら、どうです?十五時で閉まってしまうので、後から行くと、間に合いませんよ」
「はあ、そうなんですか。じゃあ、そこで」
「分かりました。お泊まりですか?」
「ええ、何泊かしようとは、思います」
(…何泊かしよう?まさかとは思うが、自殺志願者じゃないだろうな?)
運転手は、ミラー越しに、船平の様子を窺う。
「そうですか、宿は決まっているんですか?」
「…いえ、仕事で急に来る事になったので、まだどこも」
(益々、怪しくないか?顔色も冴えないし、通報した方が良いかな)
「へえ、仕事なんですか?そうですか。東尋坊まで来たんだ、観光遊覧船にも、時間があれば、乗った方が良いですよ。上から見る絶景と、海から見る絶壁は、全く別ものですから」
(………)
(……この運転手、良くしゃべるな。あまり、そういう雰囲気じゃないんだが。……ん、待てよ?)
運転手の考えが伝わったのか、ミラー越しに、目が合った。自分の仕草を、怪しんでいる。
(東尋坊って、自殺の名所だった。って事は、今、自殺志願者だと、疑われている?)
船平は、質問の意味を理解すると、両手を大袈裟に振って、全否定する。
「いやいやいや、自殺志願者じゃないです。仕事で失敗して、落ち込んでいるのは事実ですが、そうではないですよ」
「本当ですか?目が死んでますぜ、お客さん。自殺しようってんなら、ここで降ろしますよ?」
「だから、本当ですって。大丈夫ですから」
「そうですか、なら良いでしょう。それで?泊まるところ、どうするんです?」
(………)
(この運転手、うるさいな。でも、困っているのも、事実だし)
「お勧めの宿はありますか?東尋坊なら、近くにありそうですが?」
運転手は、ダッシュボードから、宿のパンフレットを取り出し、船平に渡す。
「なら、この宿に行くと良いでしょう。日本海を見ながら、浸かる温泉は格別ですよ。紹介しておきますよ、少しは安くなりますから」
(なるほど、口を利けば、紹介料が入る訳ね)
「じゃあ、そうしようかな。正直、助かります」
「お客さん、氏名を教えてください。電話しておきますよ」
「船平貴明と、言います。船舶の船、平場の平、貴族の貴、明るいと書きます」
運転手は、路肩にタクシーを停車させると、船平の氏名を、メモする。
「了解です。あっ、お客さん。ちょうど、着きましたぜ。東尋坊タワーです」
「ありがとうございました」
船平は、タクシーの運転手に、丁寧に挨拶すると、タクシーは、気をよくして、走り去っていった。
(…何だか、余計に疲れたな。…こぢんまりとした、どこにでもあるような、展望台だな。土産屋とレストランが二階にあって、あとは、展望台か。何だか、筑波山の、山頂にある建物に、似ているな)
運転手の勧めで、予定には入ってなかったが、東尋坊タワーに登る事にした。入口から見ると、小さく見える展望台は、中に入ると、想像以上に広い。
(おおお、思ったよりも、絶景だな。遠くに見える小島みたいのは、何だ?…地図は、地図はと。…ああ、雄島って言うのか。ふむふむ、大湊神社に、神岩、磁石岩、流紋岩に、瓜割の水か。中々、神秘的じゃないか)
有料双眼鏡と白いソファーの間の通路は、二メートル程あり、空間的にちょうど良い。並んだソファーには、座布団が敷かれ、『ゆっくり座って、景色を楽しんでね』と、言われているようだ。
(ん?変わった双眼鏡があるぞ。二種類?)
船平は、興味津々で、近くに寄って、感動する。
(おおお、これは、テレビ望遠鏡じゃないか。ふんふん、このハンドルを握ると、大きくなったり、小さくなったり、モニターに映る景色を調整出来る訳ね。しかも、二百円とは格安じゃないか。凄いね、この展望台)
気を取り直した船平は、改めて、東尋坊に目をやる。
(あれが、噂の東尋坊か。岸壁が綺麗なのは、ここからでも分かる。近くに行ったら、迫力がありそうだ)
東尋坊タワーを後にした船平は、早足で、東尋坊を目指す。
(さあ、着いたぞ。目的地の東尋坊だ!)
先程まで、自暴自棄になりかけた船平だったが、水面に反射する夕焼けと、断崖絶壁の見事なコンストラストに、心を奪われた。日本海に突き出した、『いにしえの崖』は、本物である。
(日本随一の奇勝とは、正にこの事だ。絶景過ぎて、どう褒め称えて良いか、分からないくらい、凄い。刑事ドラマで、使われる筈だよ。だって、見事すぎるもの。…自殺者が多いのも、頷ける。この場所で、死ねるなら、ある意味、本望じゃないのか?)
名勝東尋坊の石碑から、北側へ歩いていくと、観光客が少なくなる。殆どが、東尋坊観光遊覧船の船乗り場に、歩いて行く。
(ふーん、なるほど。皆、遊覧船が目当てなのか。えーと、この先は、『大池』と呼ばれる所だな)
恐る恐る、大池と呼ばれるエリアに、足を踏み入れる。
(これが、柱状節理ね。情報誌によると、…どれどれ、『溶岩やマグマが、冷えて固まる時に、出来る割れ目の事を指します』か。なるほど、なるほど。吸い込まれそうだ。ひょっとして、刑事ドラマは、この場所で、撮っているのか?だって、観た事あるもの)
岩壁すれすれの位置で、立ったまま下を覗くと、落ちてしまいそうで、腹ばいになって、下を眺める。初めは、腰が引けていたが、時間と共に慣れてくる。ものの数分で、立ったまま、見物出来るようになるから、改めて、人間の適応力には感心する。
(いやあ、眼福、眼福。大自然がつくった芸術。良いねえ。もう少し、先まで行ってみよう)
『この世と、あの世の境界線は、この東尋坊である』と確信し、断崖絶壁の間際に近づく。勇壮な崖壁の上に腰掛け、下を見下ろすと、岩場には、生命を絶った、沢山の先人たちが、いるような気がする。根拠はないが、そんな気がしてならない。赤く染まった、日本海の荒波が、容赦無く岩肌を叩きつけ、力強い潮風と切ない音を、この身に浴びる。
その調べは、飛び降りるなと、言っているようだ。
(死ぬなと言ってくれるのか?…不思議だ。死にたいし、死にたくもない。…このまま死んだら、後悔するかもしれないな。死ぬのは、いつだって出来るじゃないか。…先人たち、自暴自棄になりかけた自分を、笑ってください。そして、気付かせてくれて、ありがとうございます」
前向きに、生きていこうと、立ち上がった瞬間。
「……トン!」
(------!)
(えっ、えっ、ええええええ!!!!)
数秒前まで、優しく見えた岩場が、悪魔の笑みを浮かべ、口を開けている。
猛スピードで、岩場が接近する。
あと、一秒も満たない間に、自分は死ぬだろう。
(………)
船平は、考えるのを諦め、目を閉じた。
(グシャ!!!!)
船平貴明、二十五歳。もう一度、人生をやり直そうと、決意した矢先、人生の幕を下ろした瞬間であった。