第9話 もう大惨事じゃないですか!
前回までのあらすじ!
猿やん。
薄気味悪い鳴き声に、早鐘のように鼓動が胸を叩く。
もう、いくらも時間がない。
オフィーリアの杖から視線を彼女に戻すと、洋服を着た魔女は濡れたままの黒衣を右手に持って、左手の人差し指でそれをなぞっていた。
オフィーリアの唇が静かに動き、吐息の言語が流れる。
直後、濡れた黒衣は剣状に変形し、黒の刀身を硬質化させた。それを確かめるように何度か振って、オフィーリアが顔を上げた。
「水を含んでいたことが幸いしました。水と黒衣を触媒にして、魔法で可能な限り氷化させています」
――ガアアァァグッ! ギィィ!
――ギャッギャ!
断続的に音と震動が響き、ドアは徐々にその形を変えてゆく。崩れかけのバリケードで、かろうじて立っているだけだ。
「その杖ほどの強度はありませんが、鋭利な刃にはなります」
目を凝らしてよく見れば、剣状となった黒衣の周囲を薄い氷が覆っている。
「けど、結局はただの氷なんだろ?」
「ふふ、ないよりマシです」
ぎりぎりの状況でもオフィーリアがにっこりと微笑むと、なぜか安心できる。
一層大きな破砕音がしてデスクが大きくずれ、本棚が倒れた。同時にドアが吹っ飛ばされ、一体のゴブリンが侵入した勢いのままに飛びかかってきた。
「~~ッ!?」
大和は紫織の襟首をつかんで飛び退き、オフィーリアはひらりと身を躱す。
振り下ろされた石斧が、轟音とともに父親の書斎の床へとめり込む。
冷や汗が浮いた。
体長はおよそ一メートル。決して大きくはない。おそらく力もそれほどではないだろう。だが、手に持った武器はかなり凶悪だ。
「らあっ」
オフィーリアの杖で、石斧を振り下ろしたゴブリンの腕を殴りつける。
――ギャウッ!?
悲鳴を上げて、腕を珍妙な方向に曲げたゴブリンが室内を転がった。
「わ、わ、来る、来る来る来る来る来るよー!」
廊下から室内へと侵入しようとするゴブリンへと向けて、紫織が害虫駆除用のスプレーを噴霧して、噴霧口にライターの火をあてる。
ゴォっと音がして、炎が勢いよく噴出した。
「とりゃあっ」
――ギャアアァァァーーーーッ!?
――ギイッギイッ! キイィィ……ッ!
「うはっ、これすっごい! チョー楽しい! がおーっ、がおーんっ!」
炎の勢いに圧され、廊下に詰めかけていたゴブリンたちが一斉に下がった。得体の知れない方法で出された炎を警戒してか、ゴブリンたちは後ずさりで距離を取る。
どうにか、やつらの勢いだけは抑え込んだ。雪崩れ込まれることだけは防げたようだ。
「……行くぞ。二人とも、おれより前には出るなよ」
大和が静かに呟く。
ドアをくぐろうとして気がつく。
紫織の肩に乗ったままだったゴブリンの子供が、真っ先に突っ込んできたゴブリンに手を伸ばそうとしている。
親か……?
大和が紫織の肩からゴブリンの子をつまみあげると、折れた腕を押さえて呻いている成獣ゴブリンの前に置いた。
「あーっ、あたしの!」
紫織の頭に拳骨を落とす。
「おまえのじゃない」
「むー……」
ゴブリンの子供は成獣のゴブリンに歩み寄ると、その顔をペタペタと小さな手で触り始めた。心配しているように見える。
すると、成獣のゴブリンが折れていない方の手で小さなゴブリンを、すっと抱え込んだ。
「悪かったな」
大和が呟くと、成獣ゴブリンが牙を剥いて威嚇の声を上げた。
――ギィィィ!
「……殺しますか? ゴブリンは子を返しても人をゆるしませんよ。彼らの縄張りから撤退するか、もしくは殺すことでしか解決はできません」
ドアへと押しかけてくるゴブリンの群れを、紫織が再び火炎放射で散らす。もはや二階の壁は黒こげだ。
大和が頭を掻いて呟く。
「いや、いいよ。こっちが悪いしな。この家を出よう。どうせ食べ物もほとんど何もないし、ここにこだわる必要はもうない。それに、ゴブリンたちも放っとけばいずれ忘れてくれるかもしんねえからな」
まるでその返事を予想していたかのように、オフィーリアが笑顔でうなずいた。
紫織が憮然とした表情でむくれる。
「あのねぇ、あたしだって別に誘拐しようと思ったわけじゃないんだかんね! そんなチビが一人で森をうろついてたから危ないと思って保護しただけだも――ひゃっ」
大和の手が紫織の頭部上空に持ち上げられ、紫織が身をすくめた。けれど拳骨は降ってこず、代わりに掌が紫織の栗色の髪を静かに撫でた。
「わーかってるよ」
紫織の顔が、一気に赤く染まった。
「そ、そそそんなことより早くだだだ脱出しようよ」
子供を返したのは自己満足に過ぎない。彼らに言語は通じないし、返したところで決してゆるしはしない。ゆるすという文化がないのなら、距離を開けるしかない。
「行こう」
百科事典をつかみ、大和は真っ先に廊下に飛び出した。予想通り、待ち構えていたゴブリン二体が石槍を突き入れる。
「うひぃっ! っぶねえ!」
百科事典を貫通させて防いだ直後、紫織が背後から火炎を放射した。
ゴブリンたちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
効果は覿面だが、壁紙がまた少し焦げた。もっとも、今はそんなことを気にしていられる状況ではないけれど。
大和が杖で先陣を切り、炎を振りまきながら紫織が続き、ゴブリンの群れを一階まで後退させてゆく。
その間も家を取り囲んでいる外のゴブリンたちは、壁や硝子窓を破壊し続けている。
「この、もっと下がってってば!」
破壊されて開けっぱなしになっていた玄関のドアまで後退させ、火炎放射でゴブリンたちを家の外へと押し出してゆく。
もっとも、すでにリビングの引き戸からも入られているだろうけれど。
玄関へと向かう大和のシャツを、紫織が指先でつまんだ。
「大和くん、そっちからは出られないよ! ガレージ行こう!」
紫織がガレージ方向を指さした。
「わかってる。靴を取るだけだ。リビングはガラスが散乱してるはずだから、二人ともすぐに履いて」
靴を三足拾う間、外へ向けて炎を掃射し続けていた紫織が叫んだ。
「やばっ、もうスプレーが切れるよぉ!」
炎の勢いがなくなってきている。急いで靴を履き、紫織が空になったスプレー缶を玄関から勢いよく投げ捨てた。
途端にゴブリンの群れが玄関へと押し寄せる。
「うひぃ!」
「きゃあああ!」
押し寄せる大群に追われて紫織がリビングへのドアを開け放ち、大和が真っ先に飛び込んだ。予想通り、割れた窓ガラスから次々とゴブリンが侵入してきている。
一、二……五体。
「だああ、もうクッソ!」
大和は勢いのままにリビングの中央にいたゴブリンを杖で薙ぎ払い、三人掛けのソファを押して引き戸近くに集っていた四体のゴブリンへとぶつけた。
「おらおらおらぁ、どきやがれぇぇぇ!」
――ギャゥッ!
――ギュイッ!?
四体のゴブリンの身体が吹っ飛んでソファごと引き戸を突き破り、外へと放り出される。
「紫織、廊下のドアを閉めろ!」
「う、うん!」
廊下とリビングを繋ぐドアを紫織が乱暴に閉めた瞬間、そのドアへと何体ものゴブリンがぶち当たった。彼らはドアノブを回すことを知らないため、これだけで時間が稼げる。
キッチンを走り抜けて勝手口を開ければ、そこはもうガレージだ。
あとはこっそりシャッターを上げて、樹海を走って逃げ――。
天井近くの息づかいに気づく。食器棚の上に石のナイフを持ったゴブリンが一体。
「~~っ」
確認した瞬間には、すでに飛び降りてきていた。