第6話 それって不条理すぎない?
前回までのあらすじ!
ヒャッハー、あの学校の水を奪えぇぇ!
道無き道を走ること、およそ十キロほどだろうか。
荒い息で見慣れた玄関に飛び込んでドアを閉め、施錠までしてから、三人は同時に崩れ落ちた。自宅に帰ってきたのだ。
紫織はだらしない格好で玄関に倒れ込み、大和は心臓を押さえてドアに背を預けながら座り、オフィーリアはその場にペタンと膝を折る。
全員、汗を滴らせ、絶え絶えに肩で息をしていた。
「は、あ、ふぅ……。……だああああ、怖えええぇぇ……何なんだよ、あのイカれ野郎ども……! ……も、模造刀じゃなかったぞ……」
劣化していたとはいえ、ステンレスをあっさりと斬り刻まれたのだから。
大和が荒い息を整えながら、今頃になって恐怖を吐き出す。
「本気でおれのこと殺す目つきだったぞ! 危なすぎんだろ! 警察はいないのかよ!」
背中から汗が滴って気持ち悪い。しかし、当然のようにシャワーどころか満足に水道さえ出ないことは、もうわかっている。
紫織が座り直し、スカートを持ってバタバタと自分の足を煽いだ。
「だよね~……」
「おい、パンツが見える。はしたない」
「うふ。だからぁ、見せてんのよ~ってゆーかもうこっち見てないしガッッデェム!」
舌打ちをする紫織をよそに、大和は黒衣の魔女へと視線を向けた。
魔女は酸素を求めて喘ぐように、少し上を向いて肩を揺らしている。はだけたマントの隙間から、大きな胸が上下していた。
「……」
「……?」
大和が自分に視線を向けていたことに気がつくと、オフィーリアは少し恥ずかしげに頬を染めて柔らかな愛想笑いを浮かべた。
数秒間見つめ合って、照れ臭くなった大和が目を逸らす。
「むう?」
二人の視線を遮るように、紫織がその間に移動した。
しかしまるで紫織の存在など見えてはいないかのように、大和が紫織の下半身越しにオフィーリアへと語りかける。
「まあ、なんだ。飲み水くらいは出せるから、とりあえずあがってくれ」
「あ、はい。お言葉に甘えさせていただきますね」
しなりと、オフィーリアが頭を下げた。
「むあーーーっ! あたしを無視するのやめてくれる!?」
紫織が頭を掻き毟ってオフィーリアを睨みつける。
「オフィーリア、借りはちゃんと返したからね! だから言っとく! 大和くんを誘惑したら、この家から出てってもらうから!」
「は、はぁ……。あの、気をつけます……」
平然と流すように微笑むと、オフィーリアは少しだけ首を傾げた。紫織がオフィーリアの頬を両手で挟み込み、顔を近づける。
「ノーテンキな顔してヘラヘラヘラヘラ。ホントにわかってる?」
「はい。大和はとても素敵な殿方なのですが、わたしのような薄汚れた下賤の魔女に、そのような大それたことは、とてもではありませんが望めることではありません。ですので、ご安心ください」
紫織の顔が引き攣った。
「そ、そこまで言ってないし。ま、まあ、わかってるなら良いよ。じゃ、あがって」
大和は思う。この妹はめんどくさい、と。
紫織を先頭にして大和が続き、次いでオフィーリアがサンダルを脱いで屋内へと上がった。紫織とオフィーリアがリビングのソファに向かい合って座り、大和が硝子のコップに注いだミネラルウォーターをテーブルに置く。
貴重な飲み水だが、さすがにこの疲労状態では摂取せざるを得ない。少しでも回復しなければと、三人が一斉に飲み干す。
「ふあ……はあぁ……、生き返ります……」
なぜかソファに正座をしているオフィーリアが、ほうっと息を吐いて呟いた。
仕草がいちいち女性らしく艶っぽい。
「それにしても。すごいですね、ここ。初めて見るものばかりです。この椅子も、すごく柔らかくて」
「椅子じゃなくてソファっていうんだよ」
オフィーリアが真顔でリビング内を見回し、テレビを指さした。
「あれは何ですか?」
「テレビだよ。色々、他の国のこととかも映るんだけど、電気がないとつかないんだ。それ以前に、ヒノモトで番組放送がされてるとも思えないけど」
紫織が馬鹿正直にこたえた。
「……? 遠見の魔法ですか?」
「魔法じゃなくて科学。てゆーか、魔法ってそんなのあるの? お風呂もトイレも覗きなんてしたい放題じゃん! ぐっふふ」
「……やめろ」
紫織の言葉に大和は顔をしかめ、オフィーリアは神妙にうなずく。
「わたしは遠見を使えませんのでご安心ください。それから、魔女であることを黙っていて申し訳ありません。もしも不快に思われるようでしたら、いつでも言ってくださいね。すぐに立ち去りますから」
紫織が苦々しい顔で言い放つ。
「あのさ、さっきからまったく意味わかんないんだけど。いちいちうじうじするのやめてくれる? 泣き虫毛虫なの?」
「はあ……」
オフィーリアが不思議そうに眉をひそめると、紫織が再び口を開けた。
「わっかんないかな。オフィーリアが魔女だって言っても、あたしは魔法を使うところを見たわけじゃないし、仮に魔女だったとしたら何か問題でもあるの? あたしたち、この国のことを何も知らないんだよ。もし理由があるなら、ちゃんと最初から順番に教えてくんない?」
「は、はい。キオ国の兵士も仰っていましたが、魔女は傾国と呼ばれ、国を滅ぼし他者を不幸の運命に引きずり込むと云われる困った存在なのです」
数秒間の沈黙。まだ言葉が続くものだとばかり思っていた紫織が、カクっとソファの肘置きから腕を滑らせた。
「あ、あのね。それって伝承とか迷信ってやつじゃないの? オフィーリアがあたしたちに何か具体的に悪いことをしたりするわけ? たとえば覗きとか?」
ぽかんと口を開けて、オフィーリアがうなずく。
「そ、そんな大それたことはできません。ですが、現にわたしが魔女であるというだけでキオ国の兵が動き出し、あなたたちを危険に巻き込んでしまいました」
大和が前髪を掻き上げてため息をついた。
「順番が逆だろ。オフィーリアがキオ国とかいう国に悪さを働いてからなら、巻き込まれても納得がいくけど。……もしかして、あいつらに何かしたのか?」
犯罪者を匿ったとなれば、悪いのはこちらになる。だが、先ほどまでの態度から察するに、到底そういった輩には見えない。むしろ身を挺してまで他人を守る、ある意味で悪人よりもさらに面倒で厄介なタイプだ。
オフィーリアが当然のように言った。
「記憶にある限りは、何も。彼らは自国内に迷い込んだ傾国であるわたしを、拘束、もしくは滅することそのものが目的だったのでしょう。剣歯虎がすぐに襲いかかってこなかったので、おそらくは前者だったのでしょうけれど。とにかく、魔女は理由もなく追われるものなのです」
「はぁ~ん? それ、ただの差別じゃん。あっほらし! 大体、今何世紀だと思ってんのよって西暦じゃなかったんだったわぁ~い。ちっ」
紫織が再び注いだミネラルウォーターに口をつけ、オフィーリアがほうっと息を吐く。
「ヒノモトには、オフィーリアみたいな魔女ってのは結構いるものなのか?」
大和の質問にオフィーリアがゆっくりと首を左右に振った。
「わたしを含め、ヒノモトに三人と言われています。ただ、各国がこうして魔女狩りをしているので魔女ではない一般の方々が無実の罪で捕らえられ、極刑に処されてしまうということが時々あるのです。だからわたしたち魔女は、国家からも民からも受け入れられない……恐怖や不幸の象徴と言われています……」
「だからそんな汚らしい格好で十五年も旅を続けてたの?」
紫織の無遠慮な質問に、オフィーリアは自らの汚れたマントに視線を落として赤面した。
「……あ……お部屋……汚してしまって、ごめんなさい……」
大和が顔を伏せ、頭を抱え込む。
言わんとすることはわかった。だが、どうにもうまく考えがまとまらない。夢の中であるならば仕方のないことなのかもしれないが。
「だから……大和はわたしの味方なんてするべきじゃなかったのです……ごめんなさい……」
時計に視線をやると、まだ午後の四時前だ。樹海を走り続けてきたためか、まるで一日中動き続けていたかのように身体中が怠い。
昨日までと、なんら変わらぬ家。
数千年経過したかのような雲泉東高校。
先の見えない樹海に、一人たりとも見当たらない現代人。
絶滅したはずの剣歯虎に、中世欧羅巴を思わせる出で立ちの騎士。
そして目の前には世界に三人しかいないという、自称、不幸をもたらす魔女。
それらのパーツは何一つとして脳内での処理ができない。意味不明の役満だ。
かろうじて理解できたのは、ここがヒノモトと呼ばれる大地の一角、キオ国だということだけだ。
「ああ、もう、電子レンジも使えないしガスもつかないじゃん!」
話に飽きたのか、紫織がキッチンで冷蔵庫を開けてしゃがみ込んだ。
大和が重くなってきた瞼で天井を見上げた。
「ダメだ~……今日はもう寝る……。後のことは起きてから考えよう。もしもこれが夢だとしたら、それで万事解決だ。明日にゃ騎士も剣歯虎も樹海も消えてんだろ」
あくび混じりにそう呟いた大和へと、オフィーリアが問いかける。
「わたしも消えてしまうのですか?」
「夢だったら消えるかもな。ふあぁ~」
少しの間だけ考える素振りを見せて、オフィーリアが寂しげな笑みを浮かべた。
「消える、そうですね。……いっそのこと、そうなると良いかもしれません……」
大和はその言葉と表情を、苦々しく思った。しかし口には出さない。
紫織が冷蔵庫を閉めて、大きな伸びをした。
「あたしも寝よ。食べられるものは何日分か残ってるから、ごはんのことは起きてから考えよう。今日は疲れた。おやすみ」
言うや否や、紫織はパタパタと歩いて廊下に出て、階段を上っていった。
「あ、あの、大和。わたしはどうすれば良いでしょうか」
オフィーリアが首を傾げる。大和が、少しぶっきらぼうに言い放った。
「眠りたければ寝ててもいいし、いたければいてくれても構わない。監禁してるわけじゃないから、出て行くならそれも仕方ない。好きにしていい」
言葉を切って咳払いを一つする。
「でもな、オフィーリアがさっき言っていたような、“魔女だから”って理由で、行くアテもないのに出て行くのはやめてくれ。……なんかそういうの、気分悪くなる」
言葉が終わらぬうちに、オフィーリアがテーブルに身を乗り出して大和に顔を近づけていた。細くしなやかな手が伸びて、大和の前髪を優しく押し上げる。
「――っ」
突然のその行動に、心臓が跳ね上がった。
「不思議です。大和は変わった方ですね。瞳も、髪も、肌も、ヒノモトのものなのに、あなたは全然ちがう。まるで別の世界、別の時代からやって来たかのよう。どうしてですか……?」
鼻腔をくすぐるオフィーリアの体臭は、ほのかに甘く、柔らかく。優しく思考を奪ってゆく。
漆黒の瞳にじっと覗き込まれ、大和の表情がみるみるうちに赤く染まった。
大和はその細い肩を両手でそっと押して向かいのソファに座らせ、頬を染めたまま視線を外して言い捨てた。
「お、おれのいた国では、肌の色も、目の色も、髪の色も、言葉も、生まれた場所も関係なく、みんなが一緒にいられたんだ。ただそれだけのことだから」
立ち上がってリビングから去ろうとすると、オフィーリアがふり返らないままに問いかける。
「そこに、不幸をもたらす呪われた魔女はいましたか?」
大和は背中を向けたままその場に立ち止まった。
アナログ時計の針の音が、静かに秒を刻む。しばしの黙考の後、大和はこたえた。
「紫織は知らなかったと思うけど、いたよ。いっぱいな。魔女がどうだとか、そんなもん関係なかったぜ。おまえと違ってそいつらはみんな笑ってたし、おれたちはいい友だちだった」
オフィーリアがふり返って立ち上がり、大和にすら聞き取れない声で囁く。
……そんなの、嘘です……。
けれどもその頬は弛み、瞳は幸せそうに細められていた。寂しさを振り払った魔女の微笑みは優しく、喜びと慈愛に満ちていた。
「なんか言ったか?」
大和がふり返ったときには、魔女はすでに真顔に戻っていた。
ゆっくりと首を左右に振って、「何も」と。
「あ~、オフィーリアも寝る?」
「はい。少し疲れてしまいました。休ませていただきますね」
「んじゃ、ついてきてくれ」
大和の後について、オフィーリアが三階までの階段を上る。
三階の自室を通り過ぎ、紫織の部屋のドアを開けて、大和が片手でオフィーリアを誘導する。
「紫織の部屋だけど、今日はこの部屋で紫織と一緒に寝てくれ。念のために階下では寝ないほうが良さそうだ。さっきの騎士――じゃない、キオ国の兵が踏み込んでこないとも限らないから」
「はい。お気遣いありがとうございます。大和」
オフィーリアが最大限の感謝を示すように、大和の右手を両手で包み込み、胸の中央へと大切そうに抱え込んだ。
「こんなに優しくされたのは初めてで……。……本当に、ありがとう……」
柔らかな弾力に焦り、大和があわてて手を引き抜く。
「んあうっ!?」
瞬間、オフィーリアは自分のしでかしたことに今気がついたかのように、一瞬にして頬を染めた。
恥ずかしそうに祈るような形の両手で顔を隠し、オフィーリアが早口に呟く。
「ご、ごめんなさい、わたし……お、おやすみなさい、大和」
「ああ、うん……」
自分の右手を見つめながら呆然とこたえた大和の前で、紫織の部屋のドアが閉ざされる。
今頃になって心臓が跳ね上がった。
「で、でけぇ……」
生唾をのみ、震えながら深呼吸をして踵を返した大和の背中に、勢いよくドアを開けたオフィーリアが声をかけた。
「大和!」
「は、はい!」
心臓が口から飛び出そうなほどに驚き、大和がふり返る。
「紫織がいません!」
心配そうな表情で叫んだオフィーリアに対して、大和がぽかんと口を開けてうなずく。
「ああ。あんにゃろ。……部屋で待っててくれ。すぐにそっちに行かせる」
そうしてため息をつき、自室に入って真っ先に押し入れの襖を開けた。
ご丁寧にも正座で襖の隙間からこちらを見ていた紫織と、正面から視線を絡ませる。紫織が無表情に視線をゆっくりと逸らした。
「おい」
「何でしょうか、大和くん」
颯真紫織は大和に追い詰められると、なぜかいつも敬語になる。
「帰れ」
「はい。しかしながら大和くん。あたしは真性のストーカー気質なので――あっふんっ」
襟首をつかんで引きずり出し、紫織の、柔らかさを帯び始めた尻を蹴って廊下まで進ませる。
「ほれ、ほれ、シャキシャキ歩け」
「ちょ、あん、や、あふ、刺激的すぎ――」
蹴り出してからドアを閉め、しばらくそのまま押さえていたが、廊下から舌打ちが聞こえた後、紫織がオフィーリアのいる自室へと戻っていく音がした。
ため息をついて、窓際のベッドに身を横たえる。
予想通り、紫織がオフィーリアに何かを言っている声が壁越しに聞こえてきたけれど、言葉を認識する間もなく睡魔に呑まれるのを感じた。
この日は夢も見なかった。
それはつまり、少なくともこの出来事が夢などではなかったという証明にはなったのだと、颯真大和は翌日に思い知ることとなった。