第3話 ヒノモトってなんですのん?
前回までのあらすじ!
猫は大きくても可愛いぞ。
基本的に、この妹は何を考えているのかわからない。
成績はいつも狙い澄ましたように赤点ぎりぎりで、授業をよくふけるためか生活態度にも問題ありだと、教師連中は言う。
けれど、時々恐ろしいほどに感覚を研ぎ澄ませ、常識では考えられないようなことをしでかすことがある。吉と出るか凶と出るかはそのときの運と状況次第だが、今回ばかりは礼を言わねばならないようだ。
だが、それは後回し。
「うし、やるかっ」
大和は勢いをつけて紫織を追い抜いて走る。手にした棒きれを、両腕で引き絞りながら。
サーベルタイガーに絶対の信頼を置いているのか、騎士モドキはまだ二人が接近したことに気づいていない。黒衣の少女を追い詰めたまま、彼女と睨み合っているのだ。
唐辛子スプレーに苦しみ悶える猛獣に、視線を向けることもなく。
チャンスだ――!
数歩の距離まで近づいたとき、騎士モドキがようやくふり返った。
あわてて剣先を大和へと向けるが、もう遅い。大和の棒きれが、フルフェイスの兜の側頭部へと叩きつけられる。
フルスイングで。
「こンの野郎ァァァ!」
甲高い音が樹海に響き、棒きれが粉々に散った。じんとした痺れが両腕を伝う。
騎士モドキがよろめき、地面に尻餅をついた。しかし兜の上からではダメージなど到底見込めない。
大和は黒衣の少女の手を強くつかみ、強引にその手を引いた。
「来い!」
崩れていた腰を浮かせ、目を見開いた少女が脅えた表情で口を開く。
「あ、あなた……は……?」
腰まで覆う長い黒髪、大人びた切れ長の瞳に、淡い色の唇。黒衣の上からでも存在を強調する豊かな胸や、対照的に折れそうなほどに細い腰部が、風に揺れる汚れたマントの隙間から見え隠れしている。
飾り気のないその姿はあまりに美しく、けれどもどこか脆く儚く見えた。
困惑、恐怖、不安。様々な負の感情を表情に映し出して、少女は大和を見上げる。
彼女の瞳を直視した瞬間、大和の心臓が高鳴った。これまで感じたことのない強い感情が、身体の中からあふれ出す。
力が、湧いてくる。
大和は、騎士モドキが上体を起こしたことにも気づかぬほどに、彼女に見惚れていた。
「大和くん、早く!」
妹の声に背中を押され、弾かれたように白く華奢な手を引いて走り出す。手のぬくもりの向こう側で、ふわっと黒髪が広がった。
「あ、あ、わたしは――」
「後にしてくれ! まずはあのアブネーやつから逃げよう!」
三人は騎士モドキの頭上を跳び越えて茂みに飛び込み、全速力でその場から離脱した。
*
その光景に、大和はただ呆然と立ち尽くす。
「あの……」
遠慮がちに尋ねてくる手のぬくもりの主の声すら、もはや耳に入らない。
結論から言って、雲泉東高校らしき校舎は存在していた。
ただし、自宅とは違って廃墟化している。まるで何百年、いや、何千年も経過してしまったかのように壁はヒビ割れ、所々倒壊すらしていたのだ。窓からも樹木が伸び、壁面には蔦が絡まり合う。
呆然と、呟く。
「なんだよ、これ……」
「あはぁ。夢だとしたら、こりゃまたヒドい夢だねぇ」
妹の呑気な声がした。
中学の校舎は屋上まで崩れてしまっている。当然、頼りにしていた貯水タンクもない。かろうじて形を保っていた高校校舎の貯水タンクも、錆びた支柱ごと中庭方向に落下しているという有様だ。
それよりもヒドいところは体育館やグラウンドだ。
樹海に呑み込まれ、グラウンドは痕跡すらわからない。体育館に至っては、樹木がいくつも貫通して、錆びた鉄骨以外は何も残っていなかった。
「クッソ、わけがわからない……。十年やそこいらの惨状じゃないだろ……」
自宅を除いて、街の何もかもが変化してしまっている。
これは東京だけなのか、それとも世界中がこうなってしまっているのか。原因は植物の異常進化か、それともタイムスリップか。後者はあり得ないとして、前者だとするなら街の人は一体どこに消えたというのか。
大和が大きく喉を動かし、掠れ声で呟く。
「とにかく入ろう。さっきのイカれ野郎が追いかけてくるかもしれないし、もしかしたら中に誰かいるかもしれない」
「あ、あの……」
手のぬくもりの主が、か細く、透き通った声を出した。
「自己紹介なら落ち着いてからにしてくれ。そんなことより、中は崩れるかもしれないから気をつけて歩いて」
「……はい」
とにかく今は身を隠さなければならない。
大和は杖を持った黒衣の少女の手を引いて、ドアのなくなった校舎の入口へと踏み込む。
「……んもう、テンパってるからって、いつまで手繋いでんだよ……」
紫織が憮然とした表情で呟き、二人を追った。
壁や柱のRCガードと塗装の施されたコンクリートは一部崩壊し、窓硝子に至っては一枚たりとも残っていない。
天然素材で長持ちするはずの廊下も砂埃や土に埋もれ、まるで砂漠を歩いているかのような感触だ。木製の机や椅子は腐り、金属の脚には赤茶けた錆が浮いている。手にすれば握りつぶせるほどに、強度もスカスカだ。
完全に廃墟状態――。
「誰かいませんか!」
声が虚しく反響して、校舎内を駆け巡る。当然のように返事などなかった。
人の気配など微塵も感じられない廃墟化した学校は、正直薄気味悪い。
三階まで捜したところであきらめ、近くにあった教室の窓際に座り込んだ。
「誰もいないね、大和くん」
「……うん。ちょっと休もう」
一階や二階に比べて砂埃も少ないし、ここなら騎士モドキが敷地内に入り込めばすぐにわかるだろう。
「わっ、モヤが晴れても森の端が見えないよ。スカイツリーもなくなってるし、どうなってんの?」
紫織が窓枠に手をついて、額に手を当て瞳を細めた。
「おい、崩れやすくなってるから、あんまり身を乗り出――紫織!」
まさにその瞬間、手をついていた窓枠が崩れて紫織がバランスを崩した。
「あ……」
大和が動くよりも一瞬早く、黒衣の少女が紫織の手をつかむ。
崩れた窓枠が瓦礫となって、樹海に呑まれた学校の中庭へと吸い込まれるように落ちていった。
「……お、おお……」
下を見た紫織の表情が、一瞬にして引き攣る。
「気をつけてください。先史文明の遺跡は、中型魔獣さえ立ち入らないほど崩れやすくなっていますから」
少女の透き通った声。
大和が深い安堵の息をついて、その場に腰を下ろした。
いや、待て。今、彼女は何と言った? 先史文明の遺跡だって? この雲泉東校舎が?
「えと、あんた。今は西暦いくつだ?」
「セイ……レキ? ごめんなさい。わかりません」
黒衣の少女は首を傾げると、紫織の手をゆっくりと引いて大和の隣へと導いた。
「気をつけてくださいね」
「あ、うん。ごめん、ありがと。……えっと、おねーさん……で、いいのかな……。あたしは颯真紫織で、こっちは大和くん」
紫織を大和の隣に導いて座らせ、黒衣の少女がその向かいにそっと腰を下ろした。
長い黒髪の先が砂埃に触れて灰色になっても、まるでお構いなしだ。正座から足を斜めに崩し、少女は陰りのある表情で静かにうなずいた。
「ソーマシオリ様に、ヤマトクン様ですね。変わったお名前ですね」
大まじめな表情から出た調子外れな言葉に、兄妹が面食らって頬を掻く。
「くんは違う。敬称だ。颯真は性。おれは颯真大和。紫織の兄、兄妹なんだ。おれは大和でいいし、こいつは紫織でいい。どっちにも様はいらないよ」
紫織がすかさずフォローを入れた。
「ああ、勘違いしないで。名字は同じでも、血は繋がってないから。そりゃもう仲の良い、ちょっと世間様ではドン引きされるっていうか、法律的には認められていないくらい仲良しの、義・理・の、兄妹だからね?」
「どうでもいいことを強調するな。ややこしくなるだろーが」
大和が紫織を睨むと、紫織が素知らぬ顔でそっぽを向いた。
「ぷーん、どーでもよくないもーん」
「あ、わたしは……。わたしの……名は……」
黒衣の少女が何かを言いかけて、暗く澱んだ儚げな表情でうつむいた。彼女の尋常ならざる様子に、大和と紫織が顔を見合わせてうなずき合う。
「別に言いたくなきゃそれでもいいよ。ただ、なんて呼べばいいかだけ教えて欲しい」
「いえ、そんな! 言いたくないだなんて!」
跳ね上がった顔の表情は苦々しく、けれども無理に笑顔を浮かべているのがわかった。
「わたし……わたしは、ごめんなさい……。わたしはオフィーリアなんです……。……だから、すぐに立ち去りますね」
そう言って立ち上がろうとしたオフィーリアに、紫織が当然の疑問をぶつけた。
「はへ? あんで謝んの? どうせオフィーリアも、わけわかんないことになって戸惑ってんでしょ? てゆーか、綺麗な名前だな。外人さん?」
大和が唇に手をあてて考える。
紫織は違和感に気がついていないようだが、オフィーリアと名乗る彼女は、自分がオフィーリアだから去る、と言った。
それはなぜ?
それに、この格好。
騎士モドキほど奇抜ではないとはいえ、身体のラインにフィットした黒衣はともかく、薄汚れた麻色のマント。極めつけは、歩行補助のためには過剰と思われるほどの長さの、複雑な紋様の彫り込まれた杖ときたもんだ。しかも杖だけは不自然なほどに美しく、汚れはおろか塵一つついていない。
これでは、まるでお伽噺に出てくる――……。
ここは本当に日本だろうか。確かに日本語は通じているが、先ほどの先史文明という言葉も気になる。
ふいに浮かんだバカげた考えに頭を振る。
「オフィーリアって、どこの国の人?」
「わかりません……。ですが物心ついた頃から、ずっとこのヒノモトを旅しています。えっと、たぶん、十五年間……」
「ちょっと待って。ヒノモト?」
大和が尋ね返すと、オフィーリアが不思議そうにうなずいた。
「はい」
日本の異称の一つではあるが、実際に使っている人がいるだろうか。
「日本のことだよな?」
「にっぽ……? ごめんなさい、わかりません」
オフィーリアが透き通った声で、静かに首を傾げた。
仕草がいちいち女性らしい。現代日本では絶滅したとされる大和撫子とやらがいるとするなら、おそらく彼女のことだろう。
「ニホンとかニッポンとか。あ、そか。外国の言葉だったら、ジャパンっていうんだけど。他にはヤパンとかヤハン、ジャポン、古い言葉でジパング」
「すみません、大和。わたしには、それらが何かわかりません」
大和が眉根を寄せて、紫織に視線を向けた。しかしそこに紫織はおらず、話に飽きてしまったのか教室内を歩き回り、色んなものを手に取っては投げ捨ててを繰り返していた。
あの妹は、一つの物事を深くは考えない性質だ。だから機転は利くのに、成績は下から数えた方が遙かに早い。
要は集中力に欠けているということだ。
「いや、いい。忘れてくれ。……ヒノモトね……」
全身から脂汗が滲み出てくるのがわかった。