第2話 おまえら絶滅したはずじゃないの?
前回までのあらすじ!
またヒロインは変態かよ。
大和が通う雲泉東高校と、紫織が通う雲泉東中学は同一敷地内にある、中高一貫式のマンモス校だ。当然、校舎の数も貯水タンクの数も多い。
そんなことを考えていると、ロードバイクの後輪に紫織の荷重が加わった。
「よいしょっと。あれ? 大和くん鞄は?」
「いらないだろ。どうせ授業なんてないだろうしな。おまえこそ、なんで鞄持ってきてんの? 勉強なんてしてるところ見たことないって、義母さん嘆いてたぜ」
後輪の車軸に立って大和の肩を両手で持った紫織が、悪戯顔で上体を倒して大和を覗き込んだ。樹海の隙間を抜けてきた風に栗色の髪が流れて、淡い匂いがした。
「へっへ。乙女の鞄を覗きたいと仰る? もう、しょうがな――」
「興味ねえや」
「ひゃ!」
ペダルをこぎ出すと、紫織が視界を覆うように頭にしがみついてきた。
「もう! いきなり走り出さないでよ!」
「うわ!? 目を覆うな! ただでさえ走りにくいんだ。危ないだろ」
左右に揺れたロードバイクのバランスを立て直し、大和が苦言を呈した。
「わ、ごめ――じゃなくて! え~っと、当ててんのよン?」
「言ってないし訊いてない。服と皮と骨の残念かつ哀れな感触しかしない」
わずかばかりの膨らみは、クッションにもなりはしない。
「さいですか。でもアテクシ、日本語はもっとオブラートに包んで発するべき美しき国の言語かと思いまぁ~す。じゃないと乙女、傷つきまぁ~す」
無数に蔓延る木の根を細いタイヤで乗り越えて、ロードバイクが騒がしく左右に揺れる。
進行方向の樹木にとまっていた見たこともないカラフルな色をした鳥たちが、一斉に翼を広げて飛び立つ様は壮観だ。
赤に青、黄色。原色が多い。
「うわー、キレ~イ」
紫織は感嘆を漏らすが、ロードバイクのハンドルを持つ大和に余裕はない。
「くそ、こうなってくるとロードよりもマウンテンバイクが恋しくなるな」
長い上り坂に差し掛かると、さすがにペダルを漕ぐ足が止まった。
「ダメだ。これじゃ歩いたほうがマシだ」
「あたしもそう思う。てゆーか、最初から無理だな~って思ってた」
「言えよ……」
あきらめてロードバイクから降り、とりあえず手近な場所の樹木にチェーンを使って固定し、二人で歩く。
蒸し暑い。
何も考えずにいつもの夏服で出てきてしまったが、運良く季節は夏に近いようだ。昨日もそうだったのだから、常識的に考えれば当然と言えば当然なのだが。
ここが日本であれば、だけれど。
獣の鳴き声らしきものが聞こえている。やたらと甲高い。
景色は綺麗だが、どこか不安を煽る。
滴る汗をセーラー服の袖で拭って、紫織が唇をねじ曲げた。
「あぁ、パパンの車で来たら良かったよ~……」
大和が額の汗を振り払って、ため息混じりに呟いた。
「免許ないんだから運転できないだろ」
「さて、それはどうかな。フフフのフ。あたしの運転テクに惚れてもしらないよン?」
無視、無視。
長かった坂道をようやく登り終え、妹の様子を見ようとふり返ると、紫織はあさっての方角を向いて立ち止まっていた。
「どうした? 疲れたのか?」
そう尋ねた瞬間、紫織が人差し指を立てて唇に当てた。目を閉じ、少し上を向いて犬のように鼻を動かし、次に耳を澄ます。
しばらくして、大和に向かって手招きをしながら学校へと向かう方角を逸れ、朝靄の樹海を歩き出した。
「なんなんだよ、ったく。あんまうろうろしたら方角がわからなくなるだろ。ご近所で遭難なんて冗談じゃないぞ」
先ほどの復讐だろうか。紫織は大和の言葉に立ち止まることなく、どんどん歩いてゆく。
ため息をつきながら、大和は紫織の後を追った。
数十メートル進んだ大きめの茂みで、紫織が立ち止まった。その頃には大和自身にも、彼女が何を探していたのかが一目瞭然となっていた。
少し先、茂みと樹木の隙間から見える――あれは、なんだ?
黄土色の、それも肩高一メートルはあろうかという四足歩行の獣がいる。特筆すべきはその牙だ。口に収まりきらない短刀ほどもある牙が二本、上顎から生えている。
無意識に息を止めてしまうほどの本能的な恐怖が、大和の全身を駆けめぐる。
「サーベルタイガーだ」
口もとを手で覆って、紫織が呟いた。
「サーベル……なに?」
「サーベルタイガーだよ。ほら、ゲームとかでよく出てるでしょ。出っ歯の虎」
「アホか。そんなもん一万年前には……絶滅してるだろ……」
では、あれはなんなのか。
躍動感に溢れ、しなやか。到底作り物には見えない。
「一体じゃない。二体、……三体だね。とにかく大和くん、ここから離れよう。念のために風下から近づいてみて良かった。この森は、あたしたちが思ってるよりずっと危険かもしんない」
珍しく真剣な声で、紫織が早口に呟いた。
「あ、ああ」
瞬間、地面の臭いを嗅いでいた三体のサーベルタイガーが一斉に顔を上げた。大和はとっさに紫織に腕を回して、その全身を地面に押さえ込む。
見つかったか……!?
ぴりぴりとした空気。心臓が跳ね上がり、全身を冷たい汗が伝う。
三体のサーベルタイガーが同時に地面を蹴った。全身が粟立った直後に気づく。
おれたちじゃない――!
樹木の隙間。大和や紫織と同じように身を隠していた黒衣の少女が飛び出した。腰まで覆ってしまうほどの長い黒髪をなびかせて走り出す。サーベルタイガーは彼女を追っている。
あの牙につかまれば、人体など一溜まりもない。
「ヤバいよ、あの人追いつかれる……!」
紫織が呟いた瞬間には、黒衣の少女はサーベルタイガーに三方を取り囲まれていた。
少女は右手に持っていた長い杖を盾に、背中を大木につけて脅えるように身を屈めた。
「……くっそ、何やってんだっ! 止まるなよ……! ああもう!」
大和が棒きれを手にとって飛び出そうとした瞬間、紫織がその制服をつかんで留める。
「だめ、絶対だめ! 人間が猛獣とまともにやったって絶対に無理だから!」
「放っとけねえだろーが! 女が殺されそうになってんだぞ! 見殺しにするのか!?」
紫織が、一度は振り払われた手で再度大和の両肩を強くつかみ、全身で体当たりをして大和の背中を近くの樹木に押しつけだ。
「……ッ、おまえ!」
「落ち着いて! 考えなしに飛び出すなって言ってんのっ! 猛獣がすぐに人を襲わないのは、獲物の力を計りかねている場合。けれど今回はどう見てもそうじゃない。狩りなら躊躇う理由がない。なら、可能性は一つ」
紫織が指さす先、先ほどサーベルタイガーが集っていた場所に人影が現れた。
「軍用犬や警察犬。飼い慣らされてる可能性か」
「うん、たぶん。まさか、あんなおもしろい格好をしてるとは思ってもみなかったけど」
人影はサーベルタイガーと少女を追って、悠々と歩く。中世の騎士のような鎧の継ぎ目を、わずかに鳴らしながら。その手には、現実では模造以外じゃまずお目にかかれない、長い剣が握られていた。
本物か? だとしたら、完全にイカレてるだろ。
騎士モドキは悠々と歩きながら剣を正眼に構え、サーベルタイガーを押しのけて少女の前で立ち止まった。
一言二言、口が動く。
内容は聞き取れないが、剣先は少女に向けられている。
「どうする、大和くん?」
「決まってる。モドキのほうは、どう考えたってまともなやつじゃない」
正常の思考を持った人間が、日本で剣を振り回すか? 絶滅したはずの猛獣を従えているか?
どう見たっておかしいだろ、あいつ。
「女の子を助けるんだね?」
「あたりまえだ」
紫織が学生鞄に手を入れて、真っ赤なパッケージングのスプレーを取り出した。西部劇のガンマンがそうするように、それを右手でくるくると器用に回し、悪戯な笑みを浮かべる。
「オッケー。じゃ、あたしについてきて」
「なんか考えがあんのか?」
「迷ってる時間ないよー」
紫織が身を屈めながら走り出す。
彼らのいる方向ではなく、わずかに逸れた方角へ。緩やかなラインを描くように回り込んでゆく。その後について大和が走る。
「どうすんだよ?」
「風上に回り込むの」
彼らを中心にして、弧を描くように迂回しながら紫織は走り続ける。
「臭いでサーベルタイガーに気づかれちまうぞ」
足は止めないまま、紫織が大声で叫んだ。
「気づかせるんだよ。――こっち見て、猫ちゃんたち! がおーっ!」
瞬間、サーベルタイガーが一斉に顔を上げると同時に、騎士モドキがこちらを指さした。間髪置かずに、大和と紫織を追って猛獣三体が大地を蹴る。
「バカ、何を――ッ!?」
凄まじい速度でサーベルタイガーが迫る、迫る、迫る!
しなやかに力強く躍動する野生の筋肉。
とてもではないが人間に逃げ切れる速さではない。
もう迷ってる暇はねえ!
全身の体温が一瞬で上がった。恐怖に毛穴という毛穴から汗が噴出して、それでも棒きれで立ち向かおうとした大和の前に、紫織が飛び出した。
「な――っ!?」
距離が急速に縮まる。およそ十メートル。
紫織の肩をつかんで押しのけようと手を伸ばした瞬間、彼女はスプレーから真っ赤な霧を噴射した。
緑の樹海の一角に、赤い霧が一瞬にして充満する。
「紫お――!」
「目を閉じて息止めて! 行くよ!」
猛獣の息づかいを感じる方向へと、紫織に胸ぐらを引かれて走り出す。
低く、低く、赤い霧の下をくぐり抜けるように。
逃げるどころか自分たちへと向けて迷わず突撃してきた人間を相手に、猛獣は一瞬戸惑った。正面からの衝突を避けるべく道を譲り、左右から襲いかかることを選んだ。
三体の猛獣と二人の人間が、同時に赤の霧へと飛び込む。
目を堅く瞑り、息すら止めた二人は、ただひたすらまっすぐに走る。
――ギャウッ!
すぐ耳もとで猛獣の悲鳴と息づかいが聞こえた。大和は身をすくめながらも、紫織に引かれて走る。
「ぷはっ」
「……!?」
二人の人間が霧を突破しても、サーベルタイガーは追ってこなかった。猛獣は三体とも前足で顔を押さえて地面で身をよじらせ、悶絶している。赤の霧が風に流されて晴れても、その様子に変かはない。
「痴漢撃退用の唐辛子スプレー。一回くらい使ってみたかったんだけど、全然機会がなくてさあ。もしかしてあたしフェロモン止まってる?」
空になったスプレー缶を投げ捨てて、紫織が緊張で堅い笑みを浮かべた。
「もうなんか……おまえ……すごいな……」