第1話 ここ、東京じゃないの?
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すべての伏線を回収して、一ヶ月弱で完結します。
大都市東京は、いったい、いつ樹海に呑まれたのか。
少年は静かに自室の窓を閉め、ベッドの上で深呼吸をした。
「……」
いつもと何ら変わらぬ六畳半の自室。三階建ての実家の窓から見える景色には、昨夜までは確かにいつもの住宅街があった。
だが、今日はどうだ。見渡す限り、樹海の緑と空の青。
もう一度深呼吸をして、しばし考える。
結論から言って、どうやら自分は壮絶に寝ぼけているらしい。時計の示す時刻は、すでに七時半を回っている。寝不足だろうが寝ぼけていようが、二度寝をする時間はない。
両手で二回、挟み込むように頬を叩く。
音は正常、痛みもある。これ以上目が覚める気配はない。
「現実……か?」
ベッド上の窓へともう一度手を伸ばし、意を決したようにつかむ。アルミのサッシが勢いよく滑った。
――瞬間、世界が開かれた。
緑、緑、緑。見渡す限り緑。住宅地だったはずの地に、建物など一軒も見あたらない。ただひたすらに続く大樹の海。三階建てでなかったなら、見渡すことなど不可能なくらいの高さの樹木が無数に生い茂っていた。
その上空を赤や青の翼と長い尾を持つ鳥たちが、群れを成して優雅に羽ばたいている。
「……」
しばしの硬直の後、少年は乱暴に叩きつけるように磨りガラスの窓を閉めた。虚ろな瞳で三度目の深呼吸をした後、頭を抱えてベッドの上に座り込む。
「何だ、これ……」
どくん、どくん、心音が聞こえるほどに高鳴っている。つぅと、頬を汗が伝った。
机の上に置きっぱなしだった携帯電話を手に取り、大阪に出張中の両親にかけようとして気がつく。液晶画面の中に、電波の強さを示すアンテナは一本も立っていなかった。
「……ははははははは」
抑揚のない渇いた笑いがこぼれた。
部屋の中をドタバタ行き来して電波の入る場所を探すも、見つからない。もちろん、いつもであればこんなことはない。三階にある自室のアンテナ感度は、いつだって三本だった。
「おい、おいおい、繋がってくれよ……っ」
「もう、うるっさいなあ……。朝っぱらから何ドタバタしてんのよぉ……」
押し入れの襖がわずかに開かれ、薄桃色のパジャマを着た少女が、眠そうに瞼を擦りながら顔を出した。
「紫織!? おまえ、またそんなとこで寝やがって! ちゃんと自分の部屋で寝ろよ!」
寝ぼけ眼を擦りながら、少女は大あくびをする。
「努力はするけど、きっと無理。あたしストーカー気質だから。いつも大和くんを付け回したり眺めたり愛でたり舐め回したりしていたいんだよねえ」
「気色悪いこと言うな。あと、いい加減名前で呼ぶのはやめろ。お兄ちゃんだ」
紫織が少し頬を赤らめながら肩までの栗色の髪を揺らし、恥ずかしそうに呟く。
「……妹にお兄ちゃんって呼ばせるなんて、どれだけマニアックなの……?」
「至って普通だバカ! おかしな深夜アニメに影響受けるなってかおれをいちいちからかうな正直めんどくさいぞおまえ!」
壮絶な脱線に、大和が頭を掻き毟る。
「ああもううう! それどころじゃないんだ! これを見ろ!」
「……連れ子同士なんだから、そんなお堅いこと言わなくても別にいーじゃんさ……」
ブツクサ呟く紫織を無視して、大和は窓に手を掛け勢いよくスライドさせた。
多少の期待はあったが、やはり景色は一面の樹海だった。
先ほどは気づかなかったが、土と朝露の葉、そして樹木の、不思議と懐かしく感じる爽やかな匂いが鼻腔を刺激する。間違っても排気ガスの臭いなどではない。そんなものが走る道路など、どこにも見あたらないのだから。
靄がかかっているため遠景は霞んでいて見えないが、見える範囲内に建造物はない。
寝ぼけ眼の紫織の瞳と口が、徐々に見開かれてゆく。
「……っ」
しかし数秒後。
紫織は左手を口に当て、右手で大きく伸びをすると、大あくびで言い放った。
「うっは、ラッキー! 学校休みだね! じゃ、あたし昼まで寝るからご飯できたら起こして。お昼は袋麺でいいよ」
「おう、おやすみ~……ってなるか! 朝っぱらから何回突っ込ませるんだよ!」
紫織の手で閉ざされかけた押し入れの襖へと手を挟み込み、大和は強引に阻止する。そして押し入れから紫織のパジャマの襟首をつかみ、ムリヤリ引きずり出した。
「きゃああ、イタタ! こ、こういう強引なのも好きだけど!」
「正気か、おまえ!? そんなだからおまえは生活態度に問題ありとか学力に問題ありとか言われんだ! もっとちゃんと見ろ! どう考えても異常事態だろ! なんでそんなに落ち着いてんの!?」
肩で荒い息をしながら自らのこめかみに人差し指をあて、大和は表情豊かに続けてまくし立てる。
「てゆーか、おれの頭がおかしいの!? 実はおれたちが生まれた頃にはすでに東京はこうなってた!? 親父や義母さんは大阪出張じゃなくて、晩飯のマンモスでも狩りに出かけてたりとか!? やったなっ、今夜は焼き肉だぜ! はっは!」
対する紫織は顔を上げ、同情するような視線で大和を見上げた。
「今の質問こそ正気ですか、大和くん。それはあたしの知ってる現代日本じゃないんですけど」
「そうだよ!? おれの知ってる日本でもねえよ? 完っ全に別の国か、原始時代の話だよ! ……そうだ、テレビ!」
大和は部屋を飛び出して階段を駆け下り、一階のリビングへと飛び込む。
再婚した父親と紫織の母親が大阪へと旅立ったのが先月。それまで、新しくできた家族の憩いの場となっていた場所だ。今は自分と紫織しか使っていないけれど。
テレビの電源を入れる。
何も映らない。砂嵐すらもだ。この時間帯は、いつもならば『バッチリ!』という朝のニュース番組を見ながら登校準備をしているのだが。
「な、なんで?」
「……ふぁ~あ、電気通ってないんじゃん?」
リビングの入口付近の壁に気怠そうにもたれて、紫織があくび混じりに呟いた。
青ざめた顔でテレビのリモコンを置いて、室内灯のリモコンを押す。
灯りはつかない。キッチンへと走り、冷蔵庫を開けても冷気はなかった。
「……嘘だろ、おい……」
呆然と冷蔵庫を覗き込んでいる大和の肩越しを通して、紫織の手がプリンを取り出した。紫織は平然とした顔でプリンのキャップを開け、スプーンですくって口に運ぶ。
「ん~、おいしっ。大和くんも食べなよ」
近所にあるケーキ屋の焼きプリンだ。コンビニやスーパーのものとは違って値段は高いが、味も風味も高品質だ。特にパリっと焼かれた表面のカラメルの食感は、他のケーキ屋と比べても勝るとも劣らない。
とはいえ。
大和は頭を抱えてうなだれた。
「そんなことしてる場合か。……いや……ちょっと待て! おいしい? おいしいだって?」
「うん、おいひーよ」
紫織の言葉に顔を跳ね上げ、四つ下の義妹を見る。
「食べる? ほら、間接キッスのスプーンでぇ~、あ~んして、あ・げ・るっ」
「いらん」
プリンをすくって伸ばされたスプーンを頑として無視し、大和は冷蔵庫から自分のプリンを取り出した。
「むぅ。なぜ大和くんには女子中学生の魅力が通じないのか」
紫織が頬を膨らませてから舌打ちをして、不穏なことを口走った。
「ガキに興味はないし、妹に手ぇ出す変態でもないからだ」
キャップを開けて、大和はスプーンも使わずに口へと流し込む。
「義・理・の! それに三年も経てば、あたしだってすっごいことになってるんだから! こうよ、こう! もうコレもんのアレもんで泣かした男は数知れず――て、聞いてないし!」
口の中に広がる、まだほんのり冷たい得も言われぬ幸福感。カラメルの食感とプリンの風味が絡まり合い、脳内に糖分が染み込んでゆく。
うまい!
しかし、今は浸っている場合ではない。
「昨日の夜までは電気が来ていたから、傷んでなかったってことだよな」
「おお、そうだよ。さっすが成績優秀者。てことは、昨日まではあたしたちの知ってる東京だったんだね。いやあ、今はもう感慨深いなあ」
「他人事みたいに言うなよ」
幾分冷静さを取り戻した大和が、冷蔵庫のミネラルウォーターを手に立ち上がる。おそらく水道も止まっていると考えた方がいい。
「紫織、顔洗って着替えろ。学校があるはずの場所に向かう」
紫織が顔をしかめて「え~……」と呻く。
「サボる気満々だな、おまえ」
「どうせ学校もなくなってるって。あったとしても、たぶん授業やんないよ?」
そんなことは大和にもわかっている。
「人が集まる場所って意味だ。おれたちみたいに状況を理解できねえやつらが真っ先にどこへ向かうか考えたら、地区の避難所指定されてる学校か駅ってところだろ」
「どうせバスも止まってるよ? こんな樹海の中を走れるバスなんて、トロールのトモダチのニャンコバスくらいのもんだよ? がおーっ!」
「にゃーん、じゃねえの? ニャンコはないけど、チャリンコで行こう」
顔を歪め、心底嫌そうに紫織が呟いた。
「ええ、やめようよぅ。こんだけ景色が変わってたら、道だってわかんないじゃん」
「道は忘れて、学校のある方角に直線距離で進む。距離はむしろ近いくらいだ」
ソファに脱ぎ散らかされたままだった中学のセーラー服を紫織に投げて渡し、大和はハンガーに吊してあった高校の制服を手に取って袖を通した。
紫織があきらめて、ため息混じりに制服を手に取る。
「へいへい、わかりましたよぅ、もう。あいっかわらずの真面目っぷりだねえ、大和くんは。……まあ、そんなとこも好きなんだけど」
「口動かしてねえで身体を動かせ」
「わあ~、一世一代の告白を淡々と返されると傷つくぅ。男子って、こういうときはもっと照れたように赤面して吐き捨てるもんじゃないの?」
「人による」
「さいでございますか」
無防備にも、背後から紫織が着替える衣擦れの音がしているが、ふり返ることはない。
たとえ連れ子同士だろうが、大和は自らに好意を寄せてくるこの少女のことを妹だと思っている。今さらそれを覆す理由はない。理由はないのだ。あるいは、その反対の理由ならばあるのだが。
そもそも四つ下ともなれば、まだまだ子供だ。そんな感情など湧こうはずもない。
先に着替えを終えて洗面台で顔を洗う。水道が止まっている以上、冷蔵庫内のミネラルウォーターも無駄遣いできない。
だが、学校が存在して貯水タンクが生きていれば話は別だ。
考えろ。考えろ。思考を止めるな。
そんなことを己に言い聞かせながら、紫織が顔を洗うのを待って、二人は揃って家を出た。