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童貞という言葉がある。
一般的には、性体験の有無を指す男性の用語である。
が、エルザは童貞であった。
エルザという「人」が、女性というカテゴリーに組み込まれているいる限り、この用語は当て嵌まらないのだが、よく使われる例えで、童貞にはもう一つの意味があったりする。
人を殺したことがあるか、ないか?
この世界においても、それは一般的な比喩であった。
もちろん、彼女は元公爵令嬢である。
彼女のような上位の立場にいた者がする一つの選択は、その正誤に関わらず、時々弱者を殺す。
父親であるロッセンハイム公爵は、よくそのような言葉を彼女に言って聞かせた。人の上に立つ執政者、あるいは、上位者はその自分の選択によって人の生き死にが決まる。それを認識した上で、自ら選択しなければらない。
例えば、優れた指揮官に率いられた兵卒は生き残る確立も高いが、無能な指揮官に率いられた兵卒は生き残る確立が低い。それは、古今東西の歴史を紐解いてみても変わることは無い。
公爵は幾度も戦争に参加した人物であったから、それは非常に現実味を帯びて感じられたものだったのかもしれない。
「自分の選択が人の生き死にを選択する」
彼女は既に、自分の目の前で人が死んでいく様を、幾度かその両目で捉えている。それは、吐き気をもよおす光景でもあったし、同時に現実味が薄い光景でもあった。
「執政者の選択は人の生き死につながるものなのです。ですから、執政者はそれを踏まえた上で選択をしなければなりません」
昔(といって、一年も経っていない昔)、彼女が婚約者であった王子に口を酸っぱくして喋った台詞である。
あの頃の自分は、何も分かっていなかったのだな。と思いながら、彼女は怯えた目で自らを見る両の眼を見た。
ことは、数分前に遡る。
いつものように、エルザは木刀を振っていた。トウゴは、それを見るでもなく、パチパチと爆ぜる焚き火を眺めている。
それは、夕食を終えた後の、いつもの彼女達の夜の光景だった。
朝・昼・夕方と、全ての時間は行軍にあてられる為に、彼女の鍛錬は(特別な場合を除いて)早朝か、夜に行わている。
が、少しその日は違った。
何気なく、剣を振っていたエルザがそれに気が付いたのは、トウゴの殺気、あるいは、剣気というものが一瞬だけ、感じられたからだった。
たった一ヶ月でそれが感じられるようになったのは、森の中でモンスターや兵士の襲撃に備えて生活し続けていたせいかもしれないし、あるいは、彼女の才能がそうさせたせいなのかもしれない。おそらくは、その両方だろう。
トウゴは相変わらず、パチパチと爆ぜる火を眺めている。エルザはそのまま剣を振るうことにした。それが正しいような気がしたからだ。
トウゴは時々、薪をくべっている。
それからややすると、ガサガサという木々の擦れ合う少し湿った音がして、ニヤニヤと笑う男達が数人エルザの視界に現れる。
ちらり、とトウゴがその男達に視線を送る。
相変わらず、師匠の瞳はどこか美しいな。と、彼女は思った。火のせいなのかもしれないが、彼の漆黒ともいえる瞳が、オレンジ色の火の光と、美しいコントラストを見せていた。
男達はニヤニヤと笑ったまま、
「おい、にいちゃん。命が惜しかったら金と食料と女を置いていきな」
といった。いや、正確にはそう言おうとしたのだろう。だが、実際には、声を出した男の発言は、「おい、にいちゃん。命が惜しかったら」という部分で、トウゴの「ウォーター」という小さい詠唱と共に掻き消えることとなる。
彼が使ったのは、いわゆる生活魔法と呼ばれるていもので、それこそ前にエルザが使った魔法「ファイア」と同程度の魔法であった。所謂、誰でも使えるものに分類される魔法だ。殺傷能力などある筈もないし、本来手を洗ったりするためにある魔法である。しかし、ここではその魔法が高い効力を発揮する。
トウゴの詠唱によって、先程まで黒い瞳とコントラストを見せていた、火のやさしいオレンジの光は、一瞬で消え、彼の瞳の色と同じように、漆黒の世界がそこに現れた。
「なっ」
という慌てた男の声と同時に、キンッという乾いた音、ジュッっという人を切る軽い音が聞こえる。その湿り気のある音の正体を、彼女は認識できるようになっていた。
それと同時に、人の断末魔の声が聞こえたが、その音を奏でる主はそれに構わず、ジュッという湿り気のある音と、人の断末魔の声を上げさせ続ける。
一瞬で現れた暗闇によって、おそらくは盗賊であったであろう男達は、驚くことになる。その驚きが、仲間の断末魔の声によって、恐慌状態に変わっていく。突然、狩る側だった自分たちが、狩られる側に変化したのだ。その心持は想像するに余りある。
そして、彼等はそのまま生命を絶たれていった。
その青年の姿をエルザは必死で見ようとした。「見ること」、それが彼女に与えられた指示の一つであり、彼女の今出来る唯一のことでもあった。
薄い月明かりに照らされて、銀色に輝く剣が殆ど目に見えないスピードで動き回っている。それは、なにかの儀式のための舞にも見えた。
湿った軽い人を切る音と、断末魔の声、男たちの恐れ慌てる声は、徐々に減っていき、やがて、1人の恐れ慌てる男の声のみが残った。
そして、
「ファイア」
という乾いた声が響いた。それは、余り大きな声ではなかったが、その声を唱えた主を目で必死に追っていたエルザはその声を認識する。そして、同時に先程までの漆黒の世界が、またオレンジ色の光で照らされる。
そこにあったのは、先程までニヤニヤ笑っていた男達の惨殺された死体と、地面を染めるおびただしい量の血と、震えながら剣を構え、カチカチと歯をぶつけながら奇妙な音を奏でる、先程の者たちの内の1人の男であった。
青年は、いつものように刀を軽く振るい血糊を落とすと、懐から白い紙を取り出し刀を拭う。白い紙が赤く染まっていく。青年はそれを、火の中に投げ入れると、緩慢な仕草で刀を懐の鞘に仕舞っていく。
火の光に照らされた刀は、怪しい輝きを放っている。
太刀というのは、あんなに美しいものだったのかしら?そんな、どうでもいいことを彼女は考えた。
青年は刀を仕舞うと、今度は黒い布を取り出す。それと、同時にその姿を見ているエルザに向かって、顎で指示を出す。
「やれ」
という乾いた大きくはない筈の声が、やけに大きく森の中に響いた。
「はい。師匠」
そう答えた彼女は少し戸惑いながらも、持っていた木刀を置き、近くに置いてあった剣を握る。
少し震える剣先は、彼女の心の震えである。武者震いではない。ただ、人を殺すという体験のためだけに残された男を、自分はその目的のまま殺さなければならない。
おそらくは盗賊なのだから、善人とも思えない。彼は自分に殺されるためだけに、ここに残されたのである。
背中に嫌な汗が流れる。
エルザは震える剣先を精神力で無理やり抑え、剣を左耳の上辺りに構える。
彼女が密かに、練習していた師匠であるトウゴの型の模倣である。それを、トウゴに見せたことはまだなかった。しかし、そんなことを考える余裕は彼女にはない。
青年の口元がほんの少し、ほんの少しだけではあるが、笑った。
エルザはそのまま走り出し、
「ヤァァァァァ」
という心の叫びにも似た声を上げ、震える男に向けて、剣を振りぬいた。
先程までのジュッという軽い音とは違う、グジュっという重たい音が森の中に響いた。
初めてゴブリンを殺した時と同じく、それは褒められた剣戟とは言えなかった。青年と同じような構えからはなたれた一撃は、青年の一撃とは比べる価値もなく、鈍く、温い。
しかし、人の命を穿つには充分な一撃でもあった。
自らの行動によって、人間の体から血が噴き出す。確かに、これまで、彼女は自らの選択の結果として、人の死をその両の眼で捉えてきた。
だが、自らの剣で人の命を絶つのは、初めての行為であった。
先程まで、ブルブルと震えていた男は息絶えている。それと同時に、彼女の喉の奥の方から後悔にも似た物や感情が戻ってくる。
彼女は満点の星空を見上げ、戻って来たものを、その感情と共に飲み込んだ。わきには嫌な臭いの汗がじわじわと湧き出てくる。
口の中に、酸っぱくも苦い味が残った。
彼女はそれを、もう一度飲込んだ。